満月のチャネリング

性行為とは欲望であるか、聖であるか。


『性とは欲望か、聖か。
心を見極めよ。欲望をとれば、それはお互い奪い合いとなり、愛をとれば、それは楽園なり。愛でも見極めよ。それは望む愛なのか。そなたの受け入れる愛なのか。ちいと考えよ。』


性エネルギー交流は
大変危険かつ、
良いものだと『聖なるもの』となる

かつて
聖という名の元で行われた修行でさえ、
性への欲望で、
性の虜になる。

性とはエネルギーであり、その人の神聖なもの
そのエネルギーの虜となり、やめれなくなる。

愛が無いとそれが起こりやすい
エネルギーヴァンパイア…クハンダとなる

かつて、私も、密教の性業を行いました。
そして、愛が無いと分かっていながら、
実験として、体験してみました。
エネルギーは、雑に回るし、

しかも、したあとの自分自身枯渇さが半端ない。
私は術をする時の呪文があるのですが
光を出す作業です。
性業をした、後日から
光は無く、?と思い、
『光よ帰っておいで』というと
その光は、外から帰ってくる…

しかもそれは性業をした人から、帰ってきました。

しかも、勝手に性業を行っている。
そういう日は何もする気にならない。

心の縁を彷徨う眼鏡は
何かを見透けて、心にはめ込む。
それは弱味のごとく
すっと入り込む。

おわかりでしょう。

愛のない性業から
得られるものはありません。

気を奪われるとは
こういう事。

勝手に性交流的な儀式を
身勝手に行い、奪っている
でも、

自分が幸せになっていい…という決意から

光は行かなくなりました。

幸せは自分の中に。

自分の光は、自分が幸せになるという決意から守れます。

心が弱いと付け入るスキができ
奪われる行為が行われ、

心を大切に愛すると
その和が広がる。

愛する人との性交流こそ。

良きエネルギーが回ります。

しかも相手も、自分が幸せで満たされている。
枯渇してない状態同士
やっと、そのエネルギーは
『聖なる橋渡し』に変わります。

欲しい欲求がある人とはしない。
見極める目も必要です。

私の場合、お寺の和尚様と性業を試してみました。

おわかりでしょう。
職業が何であれです。

見極める目は
貴方の心の中にあります。

聖なるものは職業でもなく、見た目でもなく
魂が知ってる光です。

良きもの(ヴィーガン)を沢山食べて、聖職につき、山で暮らし、
有名であったとしても、
それはよくありませんでした。

そういうことです。




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