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手記 1

2021年11月15日。最愛の娘がお空へ戻っていきました。

そして、2021年11月18日、彼女は産まれてきました。
産声を上げる事はありませんでしたが、お口を開けて何か歌を歌っているようでした。
とても可愛い天使のような顔立ちを見て、僕の心はぎゅっと何かに握られたようでした。

彼女は、我が家の4人目の子供として産まれてきました。
授かってから今の今までずっと、幸せな気持ちにさせてくれる親孝行な娘でした。

彼女の存在を初めて知った時、正直に言うと、僕と妻は戸惑いました。
なぜなら、妻は、新型コロナウイルスワクチンの2回目を接種して副反応で高熱を出した直後だったからでした。
妻は、看護師であり、当時はまだファイザー社のワクチンも試験的に接種をしている段階だったこともあり、胎児に影響はないだろうかと不安な気持ちが強くありました。
それだけでなく、上の3人の子達を含めて、4人の子供達をちゃんと幸せにしてあげられるだろうか、経済的にも精神的にも余裕を持って愛してあげられるだろうか、と夫婦で真剣に話し合う日々が続きました。
十日かけて考えてみて、毎晩話し合って決めよう。
そう妻と決めていました。
そして、十日の後、僕たち夫婦はしっかりと考えた上で赤ちゃんをお迎えする決意を固めました。
その時に僕は、妻に幸せな妊婦生活を送れるようにすることを心の中で約束していました。

赤ちゃんを迎えると決めてからも色んなドラマが起こりました。
9年間共に過ごした愛犬の蒸発。
長男の4回目の手術を伴う入院、そして、退院後一ヶ月を待たずして術後感染からの再入院、再手術。
その時、妻は切迫早産の診断を受けていました。
まさに家族一丸となって毎日を懸命に生きていました。
お腹にいた娘は、長男が術後痛がっている時に、お腹の中から長男の背中をぽこぽこと蹴って励ましていました。
長男の緊急入院に対応できたのも、実は、娘のおかげでした。
妻が切迫早産の診断を受けて、自宅安静をしていたため、緊急入院にも対応できました。
自宅で長女と次女をワンオペでケアしていくよりは、病院で安静にしている方が安全との判断で、妻に付き添い入院をしてもらいましたが、退院してきた時には、切迫は進行しておらず、なんとか事なきを得ました。
本当にお腹の中からまだ小さな体で家族を支えていてくれました。

そして、11月15日。お腹の中で育つこと、38週と2日。あと12日で予定日でした。
朝までは元気にお腹をぽこぽこと蹴っていたようですが、お昼ぐらいから胎動がない事に妻が気付き、丁度定期の健診だった事もあって産婦人科でエコーを当てたら、その時にはもう心臓が動いていませんでした。
僕は仕事中でしたが、産婦人科に駆けつけていました。
エコーを当てた瞬間からとても静かで、今までの映像とは全く違うものでした。
今まであんなにせわしなく動いていた娘の心臓がすこしも動かない。その時の映像が今でも頭に残っています。
僕も妻も、事態が飲み込めず、目の前に起こっている事が現実のものとは思えずに、ただただ混乱していました。
死産。その事実は、岩に水が染み入るように、ゆっくりと心の中に入っていきました。
感情失禁という言葉の通り、止めようのない悲しみが涙となって、何度も何度もこぼれ落ちてきました。

子供が4人にもなると今までの車には乗らないので、ミニバンに車を換えて、チャイルドシートを設置をした、その次の日の出来事でした。
名前も決まっていました。
この世界の変化に柔軟に対応できる人でありますように。そして、仲間を愛し、仲間に愛される人でありますように。
そう願いを込めて、「成類(なる)」と命名していました。

ああしていたら、こうしていたら、たらればばかりが頭に浮かびます。
自分が悪かったんじゃないか、自責の念も常にまとわりついてきました。

その日の夕方、産婦人科から帰ってきて、子供達に丁寧にその事実を伝えました。
8歳の長男は、混乱しながらも大きな声で泣いていました。
5歳の長女は、受け止めきれないような表情で、目に涙を溜めていました。
3歳の次女は、まだよくわからないようでしたが、いつもと違う様子でした。

その晩は、妻の実家に子供達を預かってもらい、夫婦と、お腹の中で安らかに眠っている成類と3人で過ごしました。
お腹に話しかけたり、泣いたり、笑ったりしながら、誰も悪くないし、何も悪くないよね。とふたりで話していました。
赤ちゃんが、苦しまずに、ママのお腹の中で安心したまま、幸せな気持ちのまま天国に逝ってくれたのであれば、パパとママはそれで十分。
今まで沢山幸せな気持ちにしてくれてありがとう。
なんで?という気持ちももちろんありましたが、感謝の気持ちが大きく、何度もありがとうと伝えました。そして、何もしてあげられなくてごめんね、と時々つぶやきました。

次の日は、紹介を受けた大学病院に受診し、その翌日に入院となりました。
色んな気持ちを抱きましたが、子供が産まれてから数年ぶりに夫婦でゆっくりと過ごした時間でした。
そして、11月18日。深夜1:00ごろから陣痛が始まり、3時過ぎには本格化しました。
4時過ぎには、陣痛室に移動し、5時前には、分娩室に入りました。
死産を告げられた当初は、「もう出産頑張りきれない」と泣き崩れた妻も、「ちゃんと綺麗に産んであげなくちゃ。最後までできることをしてあげたい」と本当によく頑張ってくれました。
僕は、今までも出産には必ず立ち会ってきたので、今回で4回目の立ち会いでしたが、当然ながらこれまでに感じたことのない気持ちを味わいました。
5時18分。2638gで成類が産まれてきてくれました。
そのまま産まれたままの姿で抱かせてもらったら、もう涙が止まりませんでした。
お腹からタッチしたり蹴ったりしてくれてたのは、君だったんだね。
その後、成類が一度退場して、看護師さんが整えてまた来てくれました。
今にでも産声をあげそうな佇まい、易い表現しか浮かばないけど、本当に天使のように可愛らしい顔立ちでした。まだ柔らかいほっぺたを触ると、もう冷たくて、成類の生命がここにはないという現実を改めて認識しました。

その日は、成類と一緒のお部屋で、妻とふたり色んな話をしました。
こんなことになるなんてね。そんな言葉も出るけれど、「あの時、成類をお迎えして良かった。産まない選択をしなくて良かった」心からそう思えました。
それからしばらくして、成類は、可愛いお洋服を着せて、棺に入りました。
成類が寂しくないように、途中病院を抜け出して買ってきたおもちゃを成類の側に置きました。ふわふわのピカチュウと握ったら音がするワンワン、そして、手首には錫入りのアンパンマンのバンドを巻いてもらいました。アンパンマンだけは、我が家に成類ちゃんの置き土産としてもらっておこうと思います。
抱っこをしていると、やっぱり離れたくない、育てたい。そんな気持ちが強くなります。悲しみはやっぱり螺旋状に続くものですね。
落ち着いている時もあれば、涙が止まらない時もあったり、その晩は、深い悲しみが拭い取れず、涙も出ずに苦しんだりもしました。

命があること、生きているということを、大切な人の死によって学びました。
生と死は、オンとオフのようにその境界線は簡単に隔てられているのかもしれない。

正直に言うと、これからまた日常の中に戻って、夢の続きを描くなんて出来ないと思っていました。
だけど、もう背負ってしまったから、背負ったままで前に進むしかないんだと今は思っています。
成類にしてあげられなかった事、見せてあげられなかった世界を、成類を背負って沢山見に行こうと思います。
人は一人分の人生しか生きられないし、誰か他の人が自分の人生を生きていけるわけではありません。
だけど、成類とずっと心の中で一緒にいる。絶対ひとりにしない。そう思って生きる事は、自由なんだと思っています。

そして、次の日の朝、妻に「これからも一緒に生きよう」と伝えました。
相変わらず涙が止まらない二人だけど、そして、成類はもういないけれど、これからも夫婦で、家族で、幸せに生きていきたい。そう思えた朝でした。
成類と過ごした時間は、短いものでしたが、それでも、成類が西村家に与えた影響は大きかった。
成類がいなかったら、僕の人生や西村家は、失った今よりももっと寂しいものだったと思います。
赤ちゃんなのに、成類は本当にすごいなぁ。

きっとこの悲しみは乗り越えなくて良いのだと思います。
僕ら夫婦は、乗り越えない事を決めました。
この悲しみと、成類との思い出と、共に生きていく。成類の名前は、戸籍には残せなかったけど、成類を背負って僕らは一緒に生きていくのだと心に決めました。

その日は、子供達の面会もありました。
産まれてきた成類と兄妹達の初めての顔合わせ。
長男は、やはり泣き崩れていました。
長女もショックを受けていたようです。
次女は、次女なりに理解をしているようでした。
子供達の心のケアも必要なため、僕の入院付き添いはその日までで終えて、子供達と夜を過ごしました。
帰り道の運転中、涙が止まらなくなり、危ない事もありました。
僕が子供達の心のケアをしなければならないのに、逆に子供達の優しさに救われました。
ありがとう、子供達。

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