星野源さん『いのちの車窓から2』の「例の気分」
星野源さんの新刊『いのちの車窓から2』を読んだ。とてもすてきな言葉がたくさん散りばめられていたので、ゆっくり丁寧に読んだ。
源さんのエッセイの中で、いちばん心に響く本だった。それはきっと、年齢的なものでの共感もあったと思う。
あんなに大スターなのに、それを軽々と楽しんでいるように演じたり、歌ったりしている。ご本人は「軽々と」では全くないと思うけれど。
毎週のラジオでは、そんな大スターの活動の一端が垣間見える話もあるけれど、それを手がけるための地味で日の当たらない苦しみ部分、何気ない日常、ちょっと深夜ノリ的な内容が楽しめる。
NHKの「100カメ」で、オールナイトニッポンの密着を観たときも、スタッフが雑談するなか、さりげなく入ってきた源さんが映し出されていたけれど、大スターなのに、いい意味で存在感が薄く、威圧感を与えないさりげなさがあった。
東京ドーム公演でも、舞台上に寝転んでしまうような軽やかさ、私はその「軽やかさ」「さりげなさ」に魅力を感じていて、大スターでありながら、自分に近いものすら感じてしまう。恐れ多いのですが…。
源さんというと、くも膜下出血からの復帰というのがやはり印象的で、源さんの著書にもラジオでも、その頃の経験やそれにつながる今のエピソードをよく耳にする。そこも私が身近に感じるポイントなのかもしれない(母がくも膜下出血になり生還しているので)。
また幼少期は、おそらく陰キャと呼ばれるタイプだったのではと思ったり、一人っ子だったり、創作活動をしていたり、パニック症を経験したり…。繰り返すが恐縮しつつも、自分との共通項が多く、勝手に親近感を感じている。
その源さんが近著で、唐突に訪れる「例の気分」と表現している感覚。
まさに私も似たような感覚がある。
突然「私はだれ? ここはどこ? 今何の時間?」という自問自答。
私の場合は少し違っていて、車窓から風景を眺めるというより、映画をスクリーンで観ている観客の気分になるときがある。
自分の置かれている環境が突如、第三者の物語のように見えて、自分を俯瞰して見る立場になるような感じ。
よくドラマなどで、死にかけた状況を説明する描写で、寝ている自分を上から見て驚くみたいな感じに似ている。
そういった場面に合うことがたまにあり、急に「あれ、今なんでこの道歩いてるんだっけ?」という軽いものから、大スクリーンで自分主演の悲劇もしくは喜劇を観て「なんかドラマみたい!」と思う感覚。
これが源さんの著書にあった「例の気分」に似ていると思った。
「まさにこれ!」と思ってしまったのだ。
私は多くの場合、受け止めきれない現象が起きた時に起こることが多い。
脳が勝手に「落ち着けよスイッチ」を発動させているんだと思う。
そのスイッチのおかげで、急に冷静になり、いつもなら「そんなことできないだろう」と思うことができたり、受け入れられたりする。
そのスイッチに何度か助けられている。
機械的にこなして、自分を無にするスイッチのような。
だとしたら、結構つらい。
とはいえ、年齢を重ねるにつれ、自分には受け止めきれないような現実に、急に直面することがあるし、それが増えているような気がする。
自分のことだけではなく、家族のことも多いのだけれど。
本当に予想外の球が飛んできて「そんな所から飛んでくるかー」ということも。
それでも、どんなに動揺しても、すぐさま切り替えて、今できる最善策を考える。それにあった前向きな言葉をかける。それをすごいスピードで冷静に行う。瞬発力が必要だ。もはやアスリート並みの集中力もいる。決断力さえ必要になる。
それを何度かやっていたら、自分の今を俯瞰して見る癖が知らずについていたようだ。
それが、源さんの言うところの「例の気分」と似ていたのだ。
それだけではない。
源さんが著書の中で言う「答えのない議論が脳内で飛び交っている」というのも全く同じだ。
私も脳内会議が毎日毎時間行われている感覚があるり
騒がしくて、時々心の声が漏れ出ることも。
そういった、普段感じていても、人にその感覚を確認したり、自分から披露したりすることのない話を源さんから聞き、お気楽にも大スターの星野源さんと「私は似ている!」なんて思う私は、どうなんだろう?
でももし、源さんにお会いすることがあって、万一話せる機会があったら、話してみたい!
源さんが感じる「例の気分」は、私の「落ち着けよスイッチ」が作動したときに似てますね!
もしこのような出来事に現実として直面したら、私はニヤニヤと大スクリーンに映る自分を眺めることになるだろう。
そして、意気揚々と源さんにしゃべりまくる私に「落ち着けよスイッチ」が静かに作動する。