見出し画像

駅ビルで用が足りる人生

私は駅ビルが好きだし、よく利用する。
食料品から洋服、雑貨、レストラン、飲み会まで駅ビルを利用したりする。トイレを拝借することも。
好きな理由は3つ。
・駅から直結していているので、外に出なくてよい。雨でも安心。道に迷わなくてすむ(方向感覚が弱いので)。

・手頃で買いやすい商品が揃っている。食べ物、雑貨、洋服、疲れたらカフェ、食事もとれるので、ほぼ全ての用が足りる。好みの店がだいたい入っている。

・適度な広さである。大型デパートやショッピンクモールほど広くないので、短時間で欲しい物を探しやすい。車の免許を持っていない私には行きやすい。歩きすぎることもなく、疲れやすい私には、さらに最適。(子どもが小さいときは、ご無沙汰していたけれど…)

そんなことを意識したこともなかったが、頻繁に駅ビルに行くし、駅ビルのある町に住みたいし、なんならほぼ毎日、どこかしらの駅ビルに行っているような気もする。
「駅ビルで用が足りる人生」を体現している。

以前、ジェーン・スーさんのトークショーで、「駅ビルの商品で、欲しい物が揃う人と揃えられない人がいる」という話を聞いた。
この言葉が妙に心に残り、「あ、私じゃん!」と思った。私は前者の方。

スーさんいわく「私は駅ビルで扱っているブランドの洋服やバッグはサイズが合わない。そういう多くの人に似合うように作られた物が似合わない自分がコンプレックスだった」と。

「駅ビルで用が足りる人」とは、多くの日本人の平均を意味し、そこからはみ出てしまう自分を感じていたとか、そういう話だったと思う。今はそこをコンプレックスには思っていらっしゃらないとも。

私自身は駅ビル好きというように、まさに平均的な人生を生きてきた。
多少、複雑な家庭環境で育ったものの、お金に苦労せずに就職までできた。

結婚も30歳前の平均年齢でして、子どもも二人授かり、これも平均的だと思う。
それなのに、常にどの年代のときも、どこか生きづらさを感じていた。

恵まれた環境にいるのに、いじめられているわけでもないのに、なんとなく孤独感があり、学校という集団生活が苦手で、息苦しかった。

皆勤賞がよしとされていた時代だったし、「学校を休むのは怠けている」という無言のプレッシャーがあり、従順にそうだと思っていたので、とにかく学校は嫌いでも毎日行ったし、先生や友達に嫌われないようにした。勉強も一生懸命した。親から怒られないように。学校からはみ出さないように。

今思えば、疑問に思うことも多々あったけれど、その疑問は自分が間違っていると思ったし、楽しく学校で過ごせている人達がうらやましかった。

この気持ちは、恐ろしいことに、つい最近まで思っていた、と思う。

「ママは日本のアベレージだね」と娘から言われていたし、流行り物が好きだし、アイドルはメンバーカラーが赤の人が好きだし。駅ビルも好きだし。それなのに、なぜこんなに生きづらいのだろうかと思っていた。

数年前にオードリーの若林さんと、南海キャンディーズの山里さんをモチーフにしたドラマ「だが、情熱はある」に夢中になった。

若林さんが若手時代、先輩に「みんな死んじゃえって目をしてるね」と言われるシーンがあった。そのシーンがものすごく印象に残っていた。

私は自分で言うのもなんだけれど、品行方正な学生だったし、会社員だし(多分)、先生にもおそらく好かれている方だったが、なぜかそれにものすごく違和感があった。

「そんなこと、ないんですよー。演じてるところあるんですよー。もっと腹黒い部分もあるんですよ、私」と。

「だが情」のドラマを観て、「私も若林さんと一緒かも」と気づいたのだ。今さら!

わが家は、父があまり家にいなかったので、孤独に子育てしていた母に心配をかけないように、迷惑をかけないように、喜んでもらえるようにしてきた。それが自分の居場所になっていたので。

そのように成長したおかげで、自ら「駅ビルで用が足りるような人生」にしてきたのかもしれない。親を安心させたくて。

毎晩のように、大学生の娘と雑談する今の私は、結構毒舌家なのである。
駅ビルは大好きなんだけどね。