自分の仕事について楽しく語れるか
仕事について、いつも考えているようで、身近すぎて、当たり前すぎて、深く考えられていないのかもしれない。
大学の就職活動をするとき、ずーっとテレビドラマが好きだったので、テレビ業界の仕事をしたいと考えていた。
とにかくテレビっ子だったし、ドラマじゃなくてもいいので、エンタメ系の仕事をしたかった。
私が就職活動を始めた30年以上前は、パソコンはあったけれど、文書はワープロで打っていたし、インターネットで調べ物をするという習慣はなかった。情報はテレビ、ラジオ、本、雑誌、就職専門誌、会社のパンフレット、先輩からなどから得ていた。
友人も少なく、サークルにも入っておらず、個人商店のケーキ屋で4年間バイトしていた私は、今思えばかなり交友関係が限られていたし、母も専業主婦で、父から仕事の話を詳しく聞くようなこともなかったので、生の現場の情報を得る機会がなかった(それも言い訳だ。自分で動けていないので)。
自分についての客観的な分析も全くできていなかったし、本当にぼんやりしていたので、恥ずかしながら、単に好きだからテレビ・マスコミ関係をめざすぐらいの意識だった。
ただ、時代の流行もあり、異常なほどの「トレンディードラマ好き」だったので、ドラマを作ってみたいと思っていたのは本心だった(さすがに、出るほうは難しいと思ったので)。
そこで、最初はテレビ局に入るか、テレビ制作会社に入るか、芸能事務所に入るかでしぼっていた。
とはいえ、無知な私でも、「テレビの裏方、ADさんはきつい仕事」というのはよくわかっていた。「ADブギ」なんていう大変そうな現場を舞台にしたドラマもあったしね。しかも、現場での男女の扱いの差などについてもほぼ無理解で…。とても無謀な夢を持ってしまっていた。
ミーハーな私は、雑誌を読むのも好きだったので、「テレビがダメなら雑誌の編集部でもいいか」という軽い気持ちで、出版社にも応募していた(安直でした…)。本は好きだったんだけどね。
文字にしてみるとあまりにも軽々しく私の就職活動は始まり、見事に玉砕した。当然の結果だった。
有名な芸能事務所と、人気ドラマを制作していた制作会社が、わりといい感じに進みそうだったのだが、結局は選ばれなかった。
100社ぐらいに断られて、当時の自分にとってはとてつもない自己嫌悪に陥り、大学の成績も中の上ぐらいで、品行方正タイプの自分が、どうしてこんなにも選ばれないのかと不思議に思ったりもした(本当に面目ない…)。柄にもない奇をてらったことを試みたり、オタク気質満載にアピールしてみたりもしたのが、どこにも選ばれなかった。
ハワイに留学でもしようかと(本当にお気楽すぎる…)資料を取り寄せたりしたが、それもやめて…。結局は、自分的にはすごいダサいのだけれど、ほとんど会話もしていなかった父の仕事関係の方の紹介で、小さな出版社に入った。そこから、私の編集者人生が始まった。
手芸を中心にした本を制作する出版社で、スタッフも少なかったので、営業、販売、広告、本の制作に関わる流れなどすべてに関わることができた。家族的な雰囲気の会社で、自分も仕事をバリバリすることを望んでおらず、お気楽に入ってしまった未熟な22歳の私にとっては、案外居心地のいい場所だった。運命とは、必ずその人に合った所に導いていかれるものだと思った。
社会人になって自由を手にしたと思った私は、仕事はもちろんきちんと取り組んでいたけれど、いわゆるアフター5に力を入れ始める。親の監視が緩んだからだろう。
大学4年間でのケーキ屋でのバイト生活が、何も知らない子どもだった私の仕事意識を作った。最初は世間知らずすぎて、何もできなさすぎて、バイトから帰るときはいつも「お疲れ様でした」ではなく、「ありがとうございました」と言って帰っていた。
そんな私も4年生の最後のほうは、後輩の指導や店の閉店を任されるほどのバイトの中ではベテランの域になり、職人の仕事を間近に見ていたことや当時教えてもらったことが、全く別の業界にいる今でも、働くうえでの礎になっている。
なので、仕事に対しては、自分なりにはプロ意識を持ってやっていたし、何事もピュアに取り組んでいたし、優等生でありたい意識もあって、完璧にこなそうと努力はしていた(と思う。そのときの精一杯で)。
が、楽しい誘惑もたくさんあり、人生の中でいちばんよく遊んだ。それはそれでよかったと思う。その時期しかできなかったので。
夜、遊びに行くために、仕事が雑になったり、二日酔いでぐったりしたまま働いたりしたこともあった。最悪だ…と、今は反省している。
だが、どうしても会社が主軸にしているテーマに興味が持てなくて、自分がそのとき関心があった「インテリア」関係を扱った本を作りたくなった。
そのため、入社4年で転職活動をする。その間に父も亡くなったので、縁も切れたかと勝手に思ったが、辞めるときに、「これだからコネで入った子は使えない」と上司の女性に言われ、「送別会はしないからね」と言われたことは、おそらく一生忘れないと思う。嫌な気持ちになったけれど、とくに気にもしなかった。一生忘れないけど。
転職活動をしていくなかで、今自分が携わっている仕事の説明をしてくださと言われ、自分が手掛けた記事を見せながら、自分がどんな仕事をしているかを細かく説明したところ、「今の仕事が、好きなんですね」と言われた。
自分では、今の仕事が好きじゃないから、好きなテーマを扱う会社に転職しようとしていたのに、そう言われたのでびっくりしたのを覚えている。私が仕事の説明をするとき、とても楽しそうにしていたからだと言われた。
そのとき、「扱う記事のテーマは苦手だけれど、やっている仕事の内容自体は嫌いじゃないんだ」ということが、とてもよくわかった。
結局、27年も同じ仕事を続けたのだから、よっぽど好きだったのか、自分に合っていたのだろう。もはやこれしかできないし、というのもあるけれど。
その後、欠員が出たということで、その会社に転職できた。女性向けの生活情報誌だった。女性が多い職場で、ドラマに出てくるような編集者っぽい、業界人っぽい人もいたし、キラキラした世界だったけれど、仕事が一気に忙しくなった。あまりにも前にいた世界と違いすぎて、ついていくのが大変だったけれど、とにかく真面目によく働いた。いろいろな人がいたけれど、みんな仕事に邁進している感じだったし、予算も今より潤沢だったし、海外出張、タレント取材、夜中までの仕事からのタクシー帰り、深夜に飲むことも身近だった。
とはいえ自分自身は、地味でお金なくて、100均アイテムでDIYしたり、ダイエット企画を手を変え品を変え考えたり、地道な企画ばかり担当していて、あまりキラキラ担当ではなかった。でもそういうほうが好きだったと思う。テレビでは「ためしてガッテン」「はなまるマーケット」「あるある大辞典」「伊東家の食卓」が人気で、そこからよくネタを探していた。
20代後半はとにかくよく働いた。体力がない私だったが、海外出張もしたし、結婚もしたけれど、家のことはほぼ何もせず、仕事中心の生活をしていた。が、子どもが欲しくて、仕事辞めたくて、安定した収入が欲しくて、でも専業主婦になって家にいたい願望が強かった。収入を安定させるために、何か資格を取ったほうがいいのかなどと考えたりもした。
生活に根ざした記事を作っていたのに、全く自分が「丁寧な暮らし」をできておらず、「私は家で何かを作ったり過ごしたりするのが好きで、穏やかに暮らしたい」と思っていた。なので、子どもができて、育児休暇中は、とても快適だった。育児の大変さはもちろんあったし、お金の不安などはあったけれど、今思えばまだお気楽で、ドラマの再放送を見放題で、子どもと二人でのんびりできて、育休は子どもが1歳半になるまでしっかり休ませていただいた。
その後、いやいや職場復帰したが、ほぼ2年ほど休んでいる間に、会社の環境が大きく変わり、周りのスタッフも様変わりしてしまい、育休明けの浦島太郎おばさんは、居場所がなかった。そこで会社を辞めてフリーになろうとしているところに、運良く声をかけてもらったのが、今の職場だった。
人手不足が深刻で、猫の手も借りたい状況だったようで、トントン拍子で話が進んでしまった。なので、その流れに乗って働き始めて、17年がたってしまった。当初は、こんなにこの会社で長く働くつもりではなかった。
途中何度も辞めたくなったし、実際に上長に退職の意思を伝えるところまでして、「でもやっぱり辞めるのを辞めます」と言って、現場を混乱させたこともあった。約10年前かな。そこからもまた、何度も辞めようとして試行錯誤したことは、別の記事に書いて、今に至る。
というか、本当に先月も辞めたい病になってたね〜。またなるだろうね。
今もまだときどき、「担当する記事の内容が苦手だな」とか、「やりたいことができていない」などと、もがくこともあるし、もっと深いところで、嫌になることもあるし…。その繰り返しの毎日だ。
それでも結局、昔の転職活動をしていたときに言われた一言で、今まで走ってこられたのかもしれない。「今の仕事が、好きなんですね」
いまだに心が揺れたときは、自分が取り組んでいる仕事を説明するときに、キラキラした自分でいられるかどうかを基準にしているところがある。
今日、改めて自分がどうしてこの仕事に就いたのかを振り返ったとき、そのことに気がついた。自分の仕事を楽しく紹介できない自分になっていたら、そのときは離れたほうがいいのだろう。
なんだ、推し活と似てるやないかい〜。
推しの話をしている自分はおそらく、話が止まらないし、心も顔もニコニコしているだろうから。
今の仕事の話をするときに、ニコニコできるかどうかを基準にしよう。
というわけで、もう少しなんとか頑張って働きたいと思います。
お仕事をさせていただけるだけでありがたいので。
そして、自分の適正とは、自分の好きだけでは決められないことが身にしみる、49歳の勤労感謝の日でした。