同じであれば必要としてくれるのだろうか 同じであれば浮いたりせずにみんなと仲良くなれるのだろうか 同じであれば変な負い目を感じずに堂々と生きられたのだろうか 同じであればこんな私でも愛してくれたりするのだろうか そうやってずっとみんなと同じでありたい、普通でありたいと 周りの視界から見る世界で生きていきたいと 何度も焦って、後悔して、結局大衆に馴染めない自分を責めて 呼吸すらも辛くなるような生活を繰り返して 小説の同じページを何度も読み返してるようなくだらない人生だと 藻掻
私は同じになりたい 何か一つでも違えば拒絶されたり、嘲笑されたりと どうにもこうにも馴染めない世界の中で 何度も馴染むことが全てだと言い聞かせてはいるものの 死に物狂いで作った私は私ではないだれかにとっての 限りなく薄い私でしかなくて、そんなものは使い捨てられて 飽きられて、さもなかったかのように忘れられるのに なぜ私はこうも同じになることを諦められないんだろう 同じだったらきちんと愛してくれるのか 同じだったら不出来でも許されるのか 同じだったら自分を愛
今年も残すところわずかになってきて、この一年を振り返るタイミングだなと勝手に感じているためここで今年一年の私の総決算を書き込む。 まず人生は上手くいかない事の連続だと痛感した一年だった。 ここで働きたいと思った職場に面接に行き、これはいけそうだと思ったら 会社の方針が変わってしまったので不採用だと言われたり 良いなと思った人が既婚者だったりと 人生は上手くいくことの方が少ないんじゃないかと思うほどにずっと迷って ずっと悩んで、ずっと焦った一年だった。 周りや世界だけが変わっ
世界が眩しすぎると私は苦しい 暗い部屋の中で見る灯りは眩しいし美しい その美しさを知ることで失ったり見えなくなることが私はとても怖いのだ その美しさを真に受け止めて綺麗だなんて口からこぼすことが出来たら どんなに気楽で楽しいのだろうと灯から離れ過ごしていた もちろん薄暗い部屋の中に一人はとても孤独で でもそれは何も失う事もなく見えなくなることもない 穏やかな世界でもあって 最初から見なければ何も知らなければ ずっとこの痛みや後悔を超えるような事も起きないはず
心身ともに疲れているから早く寝ようと思ったのに 考え事が膨らんで眠れない。 そんな日もある。人間だもの笑。 私は対人関係のスキルがかなり極端だと思う。 基本的に愛想がいいので入口ではいい評価を得られることが多い。 でも本当の自分はいつも色んな場面で必要とされる自分を演じ分け 誰かにとって必要とされることで承認欲求を満たすところがあり、 それが満たされないことがとてつもなく不安で怖い。 どうにかしなければと悪あがきだけしても沈んでいくだけで、 誰もそんなことは望んでいないのにと
仕事で盛大にやらかした後って穴があったら入りたいし、なんなら生き埋めにして欲しいくらい心苦しくなっちゃうよね。分かる(?)
私はおそらく生き方が不器用である。 出来る事と出来ない事の濃淡が激しい、自分のキャパが分からなくて 気づいたら燃え尽きて何もかも嫌になってしまう。 無駄にある糞高いプライドと劣等感から生まれる焦りを抱えたまま 仕事をしてしまうので周りを心配させてしまう。 なんでこうも自分をすり減らす生き方を選択してしまうのか 自分でも分からない。 私はどれだけ仕事をしても、新しい事を覚えても評価されても それが自己肯定感を上げる材料にならない。 奥底にある「これが出来ない自分はダメだ」という
大人になったら諦める、手放すことの連続だ。 元々自分が得ていたものも、本当は喉から手が出るほど求めているものも どうあがいても自分には手に入らない、 手放すしかないものなんだと思い知らされる。 無邪気に子どものようにほしいものを欲しいと望むことも 欲しいと声を上げる事もぐっと堪えて、何も起きていないかのように 平然を装って道化を演じるのが大人なんだろう。 歩む人生のずれはもう巻き返せないし、大人は運命じゃなかったんだ と諦めるのに私は何故何度言い聞かせてもその言葉をきちんと
今年もこの時期がやってきた。 早いものでまた歳をとってしまう。今年で29歳である。嘘だろ? 大人が口をそろえて言うが大人ってこんなものかと 歳を重ねるたびに感じる。精神年齢なんかそうそう変わらないものだなと感じる今なら若人に対して同じ言葉をかけるだろう。これも歳をとったという証だ。 私は劣等感の塊である。大人になろうが深く根付いたものは消えない。 情報社会の中で自分が浮いているような、何者にもなれていない感覚が 自分を焦らせる日もあるけれどそれでも色んな経験を積み、今にも
私は周りに容姿だけは小さい頃から褒められていた。 昔から容姿に関しては自信もあるし、褒められることはどんな事でも 嬉しい。それは紛れもない事実だ。 ただこの数年色んな人と出会って感じたのは「女性としての私ではなく人間としての私を好きになってほしい」という漠然とした承認欲求である。 過去の自分の恋愛遍歴を思い返すと私がお付き合いをしてきた男性は 私自身の価値よりも女性として価値のある私を求めていた。 さも自分が手に入れたブランドかのように扱われても、 私はそのことに関して目を
私は人に頼るというのが極端に苦手だ。 一人で何でもできるように生きなさいと言われ続けた私はいつも 誰かの機嫌を損なわないように迷惑な人間だと思われないように、 大人の振る舞いをすることで本当の弱い自分を隠すことに必死である。 もう無理だと思っても気づいたら大丈夫と本能的に言ってしまうのは一種の防衛本能ではないかと思う。 私は最近職場の先輩から「もっと誰かに頼ってもいいんだよ。なんでも自分で頑張ろうと思わなくていいの。」と業務をこなしている時に突然指摘されて、その優しさは嬉しい
私は人に自慢できるようなものも才能も何一つ持ってはいない。 むしろひた隠しにしたいことばかりで、 本当の自分はいつもどこにいるんだろうと思う事がある。 他者は人を形で捉えたがるから、きちんと学校にも行けず 正社員として働いた経歴もほぼ皆無な私は、 おそらく真っ当な生き方だとは思われないだろう。 でもこの年になって思うのは今まで培ってきた技術も仕事に対する姿勢も、 人の気持ちを読もうとするこの癖だって何一つ無駄にはなっていないという事だ。 私と話すと楽しいと言ってくれる人や、あ
今日は自分に宛てた手紙を書こうと思う。 この手紙を読むことで今の私と未来の私の苦しみが少しでも 軽くなるようなそんな手紙を。 あなたの体調にはどうしても波があります。 あなたはいつも体調を崩したときに自分を責めてしまいます。 それはあなたが他の人と比べたときに、 きっと「社会人としての普通」を上手くこなせないことに対する ストレスや戸惑いのせいだと思うのです。 社会人として求められる自分を必死に演じているあなたはいつも 本当に偉いと思います。 そのおかげなのか仕事に対する姿
私はいつも疑問に思うことがある。 大人になったらなぜ褒められることが減るのだろうと。 なんせ生きにくいこの世界で生きているだけで褒めてほしいとさえ 私は思うのだが、皆さんはどうだろうか。 子どもの頃は自己肯定感を上げるために褒めることや認める事が 家庭や社会の中で重要になってくるから、周りはきちんと個人に対して 言葉にして向かい合うのに、歳を重ねるとなぜか少しずつ褒められることが減っていき仕舞いには自分の機嫌は自分で取るものだと教えられる。 それは確かに生きていくうえで自分を
私は高校入学してすぐ、色んなことが重なり精神疾患を発症した。 その当時は自傷行為をしないと学校に通う事も出来ず、 やっと到着してもトイレに引きこもるようになり とうとう高校の方から自主退学するように促された。 そんな経歴や自分の過去を隠し、 あくまでも普通を演じるようにと就職するときは疾患に関して クローズにしたまま入社し自分の精神的許容量を超えたら 本音を隠して転職するを繰り返してきた。 そんなこんなで私の転職回数は多い方だと思うし、 面接時にそれを指摘されたことも多々ある
私は考えすぎる癖がある。 まだ起きてもいないことを考えては、自分の現在地さえ見失いがちになる。 こういう時期が不定期にやってくる。 今そのタイミングのようで考えすぎて頭痛がしている。 私は今年で29歳になる。 世間一般で言うと結婚して子供が居て、家庭があるか 安定したお仕事をしている人の方が多いイメージだ。 かくいう私は家庭に関しては一旦破綻していて諦めていて、 正社員雇用として働く義務を放棄して未だにフリーターだ。 俗にいう社会不適合者なんだろう。 この年になって本当に自分