抽象とプラグマティズム

抽象とプラグマティズム――実用主義――は逆行しない。これは釈迦の縁起や仏陀の空の教えであったり、古代ギリシャ、どこをみても遙か昔から理解されていたと思う。また近年においてもこれら二者間の相互関係は衰えず、むしろ抽象がかつてなく実り豊かであることは、量子力学をはじめとした現代物理学の歴史を紐解けばわかる。シュレディンガー方程式は単体では極めて抽象的なオブジェクトであり、一見するとプラグマティズムとは何の関係もないように見えるかもしれないが、そこから数多くの具象的な発見――半導体の動作原理をはじめ、現代では必要不可欠な技術群が論理的帰結として導かれた点で、極めて実用的である。

このような実用的であるものは、ことさら物事の実行可能性、実用性に主をおいた思想である実用主義(プラグマティズム)に乗っ取っていると考えることが出来る。学術とは、本質的にプラグマティズムと切り離せない。

いかなる抽象度に対してもプラグマティズムは与えうる。例えば論理の論理式そのものは究極的に抽象的だが、論理とはそのものが世界の普遍法則の記述であり、自身プラグマティズムに従っているもいえる。

ウィトゲンシュタインは『論考』において、「世界は事実の総体である」としつつ、その展開には多くの論理式を明らかに用いている。一方で彼の述べているとおり、論理式だけで世界は十分には成立し得ない。何故ならば事実は式の外側からもたらされるものであるからだ。

学術の発展は、特に理系学問において、世界に対し説明的なモデルの考案と、それの批判・包含モデルの検討・検証が交互におこなわれた。この仮定自体がプラグマティズムそのものであるように私には見える。

あらゆるプラグマティズムの対象は、現実の観測に基づくという意味で、究極はヒトの環世界に束縛され、我々の持つ身体性から免れることは出来ない。また、物理的な束縛により、我々は常に新たな観測データを元に理論を批判し改めなければならない。

ラプラスの悪魔になりえない以上、我々は真理に到達はしないし、論理は常に後の論理により訂正される。しかし一方で、命題の妥当性があるならば、我々はそれを正しい仮定として式をいくらでもそれを繋げてよい。世界の帰納法的なモデルから、抽象度のふるいにかけ、今度は逆に演繹的に私たちは数多くの物事を導きだせる。

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