心を動かされたこと「山奥ニート」と「学校教育」の狭間で

紀伊山地の奥深い限界集落で暮らす、山奥ニートたち。

月2万で生きられるという衝撃もさることながら、その暮らしぶりは悠々自適で、なおかつ地域おこしにもなっているという。

まさに若者の居場所づくりの先進例といえるでしょう。

そこには救済や支援ではなく、構成員にとってお互い自由な、自立した暮らしがあります。

障壁を取り除いてやることで、誰だって輝くことができるのだと思いました。


そんな山奥ニートの一員・石井さんが本を出しました。


まだ手に入れられてないので、今後楽しみにしたいと思います。

6月中旬にはkindle版も出るとか。


自由とは、生きるとは何なのか、考えさせられます。


これは僕のツイートですが、山奥ニートとは対照的に「学校」とはなんと理不尽な環境なのだろう、と思います。


さりとて、学校の現場は作業量の多さから先生が疲弊しています。


先生たちが創造的な授業を行うための、準備をする余裕が不足しています。


大人たちに余裕がなくなれば、詰込み型の授業によって生徒たちも余裕がなくなるのは自明です。


いじめには「いじめるのが楽しいから」「いじめないと自分がいじめられるから」「いじめられっ子が嘘ばかりつくから」など様々な発生理由があります。


思うに、単純に人口密度が高すぎるのだと思います。

そして、教育そのものも「教わっていて居心地が悪い」のだとも。


翻って、山奥ニート。

数十人が暮らす建物は、決して広いとは言えません。

(Youtubeで拝見しました)


それでも表立ったトラブルが起きないのは、ニートたちが社会の理不尽の「経験者」であり「パイオニア」だからでしょう。


これは僕の持論ですが、痛みを知っている人は、他人の痛みにも敏感です。

だから、適度な距離をお互い測りあっている。

それは適切ではない場合もあるかもしれない。

でも、その努力を怠るよりは、絶対マシなはずです。


結局のところ、我々は常に人間関係で悩み、適切な距離の測り方を探っているのですね。


ひとつの解決策が、山奥ニートのように、同じ方向を向いている人々が一緒に暮らすこと。


これって、日本が行き着いたひとつの答えになりませんか?


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