読書記録「日本思想の言葉 神、人、命、魂」
小学校低学年の頃、祖父に「タマシイってなに?」と聞いたことがある。
離れて暮らす祖父は電話越しで、まさか6、7歳の孫がそんなことを聞いてくると思わなかったのか、単に耳が遠かったのか(あるいは僕の滑舌が良くなかったのか)、「え、カマキリ?」と聞き返された。僕は「タマシイ!」ともう一度伝えたものの、「カマキリ?」と更に聞き返され、腹を抱えて笑ったのを覚えている。
肝心のその先の記憶がないのだけれど、とりあえず小さい頃の僕はタマシイとかイノチとか、そういうものに興味があった。
霊とか魂とか命とか、なんだかわからないけど興味があった。学校では「いのちは大切に」と言われ、アニメや漫画では「悪霊退散」と言って怪異を払ったり、「オバケは死なない」と歌ったりしている。目には見えない、ふしぎなもの。イノチは確かにあるのに、霊とか悪霊となると、存在しないと考える人も多い。
結局あれからずいぶん時が流れたけれど、当時の疑問はまったく解決していない。解決していないけれど、「なんとなく」で折り合いはつけられてきたとおもう。目には見えないふしぎなもので、ひとりひとつしかない、大事なもの。無くすと周りに「かなしい」「さみしい」が広がるもの。
僕らはルールを守ることで必要以上にそれらを脅かすことは避けているし、あまり口に出すと「スピリチュアルなひと」あるいは「変な人」だと思われることも知っている。
長く生きるほど知人や友人を亡くす経験も増える。もちろん身内や大切な人も。
彼らとはもう会えない。当然だ。頭ではちゃんと理解しているのに、時々それがたまらなくなって、でもどうしたらいいのかわからず、僕はいつもぐるぐるしてしまう。
そういうときに読み返すのが、竹内整一先生のこの本だ。
日本思想の研究者が古今の作家たちの言葉を丹念に読み解き、死生観に踏み込んでいく。その様子は鮮やかで、愛情深い。このひとは本当に言葉が好きなんだろうなと思う。
時代背景も生き方もバラバラな思想家・作家たちの言葉に共通して見出されるものは、ある意味日本人の普遍的な価値観のひとつなのだろう。死への向き合い方は、つまり寂しさややるせなさとの折り合いの付け方でもある。どうしたってどうしようもない時は、どうしようもないのだ。
印象的だったのは宮沢賢治の章。
あまり詩は読んだことがなかったのだけれど、「だれだってみんなぐるぐるする」という見出しに釘付けになった。まさにそう、ぐるぐるするのだ。
最愛の妹が亡くなった後、彼女の行方をなんとか感じようとした宮沢賢治。でも彼女は、生きている我々の知る空間の方向では測ることの出来ないところに行ってしまった。どうしたって感じられない方向をなんとか感じようとするから、ぐるぐるしてしまう。
彼はそのあとの旅でも詩をいくつも書く中で、どうにかこうにか気持ちを落ち着けていくようとする。でもそこには、感情に振り回されたりなんとか理性で抑えようとしたり、思考と感情の激しい波で内面がめちゃくちゃになっている様が見て取れる。それは読んでいて痛々しく、苦しい。けれどそうして苦しんだ末にたどり着いたのが、銀河鉄道の夜であり、雨ニモ負ケズなのだ。
自分がいままで読んたことがある本でも、著者の手にかかるとたちまち奥深い死生観を垣間見ることが出来る。宗教や慣習、それぞれの時代背景や生まれ育ちはもちろんあるにしても、先人たちが必死に考えた結論が文字として残っていることに感謝したい。僕らがそこから学べることは、きっとすごくたくさんあるはずだ。
今年は正月から悲しい事故や事件が多かった。起きたことを無かったことにはできないけれど、悲しいときに寄り添ってくれる言葉たちを、先人たちはたくさん遺してくれてることも忘れないでおこうと思った。折に触れて読み返したい一冊。