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24歳で脳腫瘍を取ったら色々失ったり見つけたりした2【高次脳機能障害】



【術後3週目】

一番の問題に気づきはじめた


前の話に「まあ、いっか。」と書いてたのは
なんだっけ?まあ、いっか」が正確。


前述にてTさんと書いたが、この人を名前を呼んだことはない。どんなに忘れっぽい人でも、二週間ほぼ毎日長時間話した相手の名前がわからないことがあるだろうか?



一時記憶障害




記憶というものは一時記憶→短期記憶→長期記憶という流れで保存先が変化するらしい。
(正確なことはGoogleに聞いて)

私は一時記憶が障害で残りづらくなり、例えば3分前に話した内容などを全て忘れてしまう状態。
そうすると、その先の長期記憶も残らなくなってくる。
そのため術後初期は強烈だったことのみしか覚えていない。

すぐ忘れてしまうので記憶が残らないことや右側が失明したことに落ち込まずに済んで良かったかもしれない。


ただ面会でに両親が来てくれた際に母に一番痩せる筋トレ方法について話したらしいけれど一切覚えておらず、母に思い出せと文句を言われている。


記憶が残らないことに気づき始めたのは手術後3週目に入ったあたりで、日記をかきはじめた。



リハビリが始まった

しばらくしてからリハビリが始まった。
担当のリハ師のはるちゃんは同い年。超気楽。

(初期のリハビリについてはあとからはるちゃんに聞いたことを基に書く)

「今の季節は?」
「住所書ける?」
「今何時?」
「散らばった数字を1から順番に探して線でつないでみて」
「カードに描かれた物の名前を言ってみて」
「1+4=?」

基本的な問題。
が、できない。
(4月なのに「季節は夏!」とか「1+2=5」とか言ってたらしい)

物の名前あても計算も音読も。
ぜーーんぶ、できない!

けれど障害になってから3週間の急性期と言われる時には回復が早いので、昨日はできなかったのに次の日にはできるように!みたいな感じ。
勉強で苦労して楽しくなり、病室に持ち帰って子ども向けのプリントを解くことが日課になった。


1枚に1時間くらいかかっていた





できない、できない、できない


  • お皿を重ねられない。というより、お皿は重ねられるものだと認識できない。

  • お箸をフォークの代わりにする方法がわからない。(カップスープをかき混ぜようとしたときに割りばししかなくてかき混ぜられない!と思ってめちゃくちゃ困った)

  • メイクブラシをどっち方向に動かせば塗りたいように塗れるかがわからない。

  • どっちの方向に行けば地図のとおりになるかわからない

  • 服がたためない。畳んでも同じ方向にそろえて置けない。

  • スマホで絵文字が出せない、誤字が消せない

  • パズルができない(構成失行)。やって気づいたけれど、方向がわからない上に入れようとしていたパーツの模様を忘れる。

  • 失読で読むのに時間がかかる上に、次のページにたどり着いた頃には前のページのことは忘れるので小説が読めない。

  • 趣味のマンガも、顔の絵を見ても人の顔だとわからない(相貌失認)

などなど。

もともと130弱あったIQは、テストを受けても「解答不能」が大量発生で数値が測れない始末。


ただ、我ながらポジティブだったので
売店で英語で道を聞かれた際、普通に日本語で何か言われた時のよりも答えに困らないことに気づき、「めっちゃ英語の勉強に最適なタイミングじゃん」としばらく英語の動画を観ることが暇つぶしになっていた。
事実、英語と日本語で脳の回路は違うらしい。

(記憶が残らないため単語が覚えれず効果的ではないので、短期記憶障害の際はもうちょっと他にいい時間の使い方があると思う。)

この話は記憶がないので母にこの話を何回もしていたらしい。



あとは「しょうがないよね~」が口癖になっていたらしく、そういいながら廊下をふらついていたり。
会社の人のことが思い出せず、先輩に「○○君っていましたっけ?」などと送っていたり。迷惑。
(未だに何人か名前を思い出せない人がいる。)

研修医の先生に「まあ高次脳って面白い障害でちゃいますから、、」と言われたとメモを残していたけれど、他にどんな迷惑をかけたか全く覚えていない。申し訳なさ過ぎて謝り切れない。まあ記憶ないんですけど。


無駄な賢さと記憶が人間を暗い気持ちにしてしまうんだ今は思う。
無意識の「しょうがないよね」はここからの自分のために言っていたのだと思う。



超余談 77歳の友達


私の2週間遅れくらいで、同じ髄膜種のおばあちゃんがっ同室へ入院してきた。
「あと2,3年で80歳だから今なら取れると思って取れることにしたのよ~」みたいなことを言っていた。

私は先の手術経験者として、
「術後1週間は超痛いしまともにしゃべれないよ!!」
と伝えたけれど(この時は相変わらず敬語が使えなかった)、
そのおばあちゃんは翌日静かに病室に戻ってきていた。

ので、私の手術は失敗されたのでは!?と思って先生に文句を言った
(最悪な患者)


その後私はすぐに病室を移動になり、5日後くらいに偶然再会。

「私ずっと看護師さんにあなたと会いたいって言ってたのよ!なんで無視してたのよ!」と言われた。

(看護師さんに聞いたら、伝言していたらしいけれど私がすぐ忘れるので意味がなかったらしい。)
再会した日に私が何を話したのか覚えていないけれど、おばあちゃんは「同室に男しかいない」(病室は男女別なのでそんなわけがない)などと言っていたので、脳の後遺症同士の話はとんでもないと思ったのは覚えている。


その後も時々お互いの病室で話す仲になった。まあ中々わがまま自我が強いおばあちゃんで、「あたし意見書をまた出したのよ!」とよく言っていた。

ある日おばあちゃんが入院着の契約を切りたいからやり方を教えろと言ってきた。
理由はシンプル。

「私の人生こんなところに使うお金は1円もないのよ!
 友達と遊ばないといけないから!


いや80歳手前でしょ!?もうそんなに遊ぶことないでしょ

と思ってしまった自分がいて、しょうもない人間になっていたことに気づいた。

終活とかはたしかに周りの人に迷惑をかけないためには必要だけど、もうここらで十分生きたという諦めをつけて死に向かうつまらない人間になるのは本当に最悪。
本当に倒れて何もできなくなるまでそんなことはしないでおかないと。

結局おばあちゃんは入院時の契約の中途解約はできず落ち込んでいた。




つづく

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