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認知症の祖母に習う。

私の祖母は96歳。
認知症で、今は施設に入っている。

その祖母が、とにかく可愛い。


年に数回しか会わない私のことは、もうとっくに忘れている。週に何度か会いに来る母のことだけは身内だと認識している。

1年前は文章を話していたけれど、最近は言葉が出なくなってきた。

足首や膝、股関節がかなり変形しているけど、歩行器でどうにか歩く。背中も彎曲が強くて、元々150cmぐらいの身長が、今は130cm弱かもしれない。


小さな祖母と、ゆっくり施設の廊下を歩く。
祖母の部屋につくと、お先にどうぞと手を流してくれる。
誰がみても祖母が優先なのに。


祖母は、人をみるとしばしば手をあわせて拝む。
立ち止まって、目を閉じて、頭を少し下げる。
有り難がっている。
仏様でもない人を有り難がる姿が、おもしろ可愛い。

特に大きい人に対しては神々しさを感じるようで、兄はよく拝まれる。
私もたまに拝まれ、手を合わせ返すので何かの儀式みたいになってしまう。笑


一昨年の秋、祖母への手土産に、美味しそうな栗が乗った大福を手渡した。
祖母は、迷いなく「食べん?」とメインの栗を差し出す。

私にはそれを受けとる選択肢はなかったけど、兄は差し出された栗をありがとう、と食べた。
栗大福が、ただの大福になってしまった。
「おばあちゃん、栗あげちゃったの?」と言うと「これもね、美味しいもんね。」と笑ってただの大福を食べていた。



年明け、初詣に行った神社の名物のあんこ餅をみんなで食べた。楽しかったので、祖母にも一つ買っていった。

嚥下機能も落ちているから、餅は危ないねということで
あんこだけをスプーンで掬って母が手渡す。

スプーンを受け取ると、私たちに「ん?」と差し出す。言葉は出ないけど、前と同じ表情で。ありがとう、私たちは食べてきたんよ、おばあちゃんのだよ、と伝えると食べる。

2口目をスプーンで掬って母が手渡す。そしたらまた、誰かいらない?と差し出し、視線を配る。

おばあちゃんが食べた後のスプーンやし、あんこやし、とか、そんなことは祖母の頭の中にはない。笑
ただ、あげようとする。



残りやすいと言われている昔の記憶も、もう遠くなってきている。
でも長年の在り方が、今の祖母にそのまま残っている。

昔から何かにつけて、「まぁまぁ。ありがとうございます。」とよく言葉にして手を合わせていた。

昔も今も「あげる」のが好きな人だ。
何かと役立ちそうなもの、可愛いものを見つけては「これいらん?」とあげたがる。

祖母の日常が、私たちをほんわりと尊い気持ちにさせてくれる。それは施設の人たちにとっても同じようで、祖母はとても愛されているのが窺える。

母といつも、「こんな風にならないかんねぇ。」と話す。尊すぎてちょっと泣けてくる。
何も持たなくなり、一人でいろいろとできなくなっても、私たちに多くを与えてくれる。


祖母に習う


最近、性善説か性悪説かどちらが正しいのか、という終わらない議論をまた聞いた。どちらも正しいんだと思う。

安心と信頼に身を置けば善い(とされる)面が出やすいし、恐れの中では悪い(とされる)面が出やすい。
何を選択して、どんな自分を強化していくかだと思う。


「失う」という言葉が適切かわからないけれど、多くのものが祖母から無くなった。上手かった料理や、過去の思い出、あらゆる固有名詞。
無くなっていく不安に、攻撃的になるのは自然なことだと思う。

認知症の過程で、祖母がそうなることはなかった。
それは、たまたまかもしれない。けれど、昔の田舎の文化に生きて、理不尽なこと辛いことも沢山ある中で、あってもなくても心から感謝する、築いてきた土台があったことも、一つの要因だと思う。

今の祖母は、何も意識していないだろうけれど
誰かのせいにせず、辛い時には静かに泣いて、日々感謝して、可愛いものに笑って、他者と分かち合って生きているように私の目には映っている。

祖母がこれまでの人生で選択してきた在り方、育ててきた自分。
私の現在地は程遠いけれど、祖母に習って生きていきたい。


祖母に食べてほしくて、いつも断ってしまうけれど
次はあの優しさを有難く受けとるのもいいなと思った。


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