夢から醒めない夢を見よ

上記タイトルの朗読劇を観劇した。
以外、感想を述べる。

この作品を知った当初は赤川次郎の名作「夢から醒めた夢」へのリスペクト作品なのかと思われたが、内容は特段そういうわけでもなかった。

しかるに、タイトルの「夢から醒めない夢を見よ」は劇の内容からシンプルに「醒めることなく熱中できる目標を見つけ、邁進せよ」という意味と受け取った。

タイトルになるくらいだから、大きな伏線や意味があるのではないかと思っていたが、特にそういうわけでもなく、主人公の祖父が口癖としていたものを、主人公の父が口癖としたものである、というだけだった。
しかし、「夢」というキーワードは、この劇における一貫したテーマだったように思う。

とある女にとって女優は「夢」ではなかったけれど、きっと、とある男の妻として生きること、海星の母として生きることは「夢」になったのではないだろうか。そうでなければ、標準語話者として成人した者がコテコテの長崎弁話者になれるとは思えない。少なくとも、関東圏で生まれ育った私や同僚が5年以上の月日を九州で過ごしたところで、まったく方言が身に付かなかったことを考えると、とある女のその地に溶け込もうとする熱心さ、ひたむきさがどれほどのものだったか伺える。
そしてこの点において、人の和を乱すことのない、上級な意思疎通の図り手たる友希ちゃんの人柄ととある女とが絶妙にリンクしており、メタ的な視点ではあるが、説得力があった。

さて、夢とはなんだろうか。夢とは、我々が寝ている間に脳が作り出す支離滅裂な虚像である。であるからして、同様に荒唐無稽なものを「夢」と表現するのである。

今作における「夢」とはなんだろうかと考えた。
登場人物が構想したSFが現実になる、なんてストーリーがもし真であるなら、それはあまりにも荒唐無稽で、作品そのものが現実的ではない夢物語となってしまう。とすれば、「夢」の紛れが起きていると見るのが良いだろう。つまり、卓也が夢想したことが現実になることが夢となるべきだ。

卓也は夢を諦めかけていた。それを海星に語って聞かせ、引き止められることを良しとしないことで、自分にも言い聞かせているようだった。果たしてそれは本心だっただろうか。彼ら二人は確かに東京タワーに登ったのだろう。そして東京の夜景をみて、自らが東京にいる意味、東京でなすべきことについて改めて考えた。以降の「夢」は、まさに卓也が夢へ没入していく、自分の見た夢を再び追いかけていくことを表現していたのではないだろうか。そう捉えれば、タイトルの「夢から醒めない夢を見よ」は、単に登場人物があまり深い意味も思い入れもなく呟く陳腐なセリフから、急に生き生きとしてきて、作品が観客へ問いかける大きなメッセージとして見えてくる気がする。

ついでのようになってしまうが、個人的にはとある女の陣痛の場面が気に入った。
特に、それまでの文脈となんの関係もない「ありがとう」の言葉には、万感が詰まっている様子がありありと感じられて、非常に上手く、感極まった母親が表現されていたように思う。

朗読劇というものは良い。
緊迫した生の演技で作品の世界に引きこまれて、そこからゆっくりと現実に戻りながら、ああだったのではないか、こうだったのではないかと考える、このアフターバーンのような時間もまた朗読劇観劇の醍醐味である。

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