『シャイニング』の謎①〜“3年前”と“5ヶ月前”
以下は映画『シャイニング』に特別な興味がなければ、どうでもよい話です。
映画『シャイニング』には、酔ったジャックがダニーに怪我を負わせて断酒を誓った時期についての辻褄の合わないセリフがあるのです。
映画の序盤、ウェンディは往診に来た女医に対して、酔ったジャックがダニーの肩を脱臼させて断酒を誓ったのは「5ヶ月前」だと説明します。
ところが中盤、バーテンのロイドと会話する場面でジャックは、断酒を始めたのは「5ヶ月前」だったと説明する一方で、ダニーを怪我させたのは「いまいましい3年前」だったと告白します。
ウェンディとジャックとで、ダニーを怪我させた時期が「5ヶ月前」と「3年前」と異なるのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。
結論を先に言うと、ジャックがダニーを怪我させたのは「3年前」であり、「5ヶ月前」というのは飲酒と癇癪が原因で失業したジャックが断酒を誓った時期なのです。
なぜこんな錯誤が生じたかというと、ウェンディと女医の場面の編集でウェンディのセリフが大幅に削られたからです。その結果、ジャックが断酒を誓った時期とダニーを怪我させた時期が同じく「5ヶ月前」だと認識される結果になりました。むしろ観客にそう思わせるように編集したのかも知れません。
女医の往診の場面でウェンディは、ダニーが怪我を負ったのが何年前だったか明確には言明してません。しかし女医の質問に答える形で、“nursery school”(保育園)に通っていた頃だと説明しています。アメリカの保育園も小学校就学の前に3〜4才が通う教育施設だそうです。
そもそもダニーは何歳なのか。半年間もホテルに住み込む予定なのにもかかわらず、ジャックやウェンディがダニーの学校を話題にしないことから、ダニーはアメリカの大半の州で義務教育が始まる6歳より下なのでしょう。
キングの原作小説には、ジャックはオーバールック・ホテルに来た時点で14ヶ月間、断酒している、と書かれています。(文庫版の上巻26ページ)
また、ダニーがジャックに怪我をさせられたのは3歳半のときで、ジャックが断酒したのはその3ヶ月後だと書かれています。(同上巻283ページ)
つまり原作小説では、3歳半のダニーが父親ジャックに怪我を負わされてからホテルに来るまで1年と5ヶ月が経過したおり、ダニーはホテルに来た時はほぼ5歳ということになります。
キューブリックは映画化に際してダニーの年齢設定に迷ったようです。
ダニーを6歳以上にしてしまうと学校の問題が生じるし、かといって幼くし過ぎるとジャックに反撃する行動が不自然で説得力に欠けてしまうでしょう。また、このような難しい役を幼い子供に演じさせると演出上での様々な問題が予想されます。さらに撮影時間の制限も出てきます。
キューブリックはこの役を幼い子供に演じさせたくなかったのかも知れません。なぜスティーヴン・キングはダニーを5歳に設定したのだろうか、とキューブリックは原作小説のページの余白に愚痴のようなメモを残しています。
仮にダニーが就学年齢に達していても、元教師のジャックが教える条件で学校に通う義務を逃れることが可能ではないかと考えて、キューブリックはアメリカの法律を調べたりもしました。
結局、キューブリックは映画ではダニーの年齢を明示せず、ダニー役のオーディションでは5歳半から7歳までの子供を募集しました。
5千人の応募者の中からダニー役を射止めたのは、役名とファースト・ネームが偶然にも同じダニー・ロイドでした。このオーディション時、ダニーは4歳でした。撮影が始まった1978年春には5歳になっており、撮影中に6歳になりました。
改めてウェンディと女医との会話を振り返ってみます。
ダニーを往診した女医はウェンディに対して、ダニーが想像上の友だちである“トニー”と話し出したのはいつ頃かと尋ねます。ウェンディは保育園に通っていた頃であり、その頃は怪我で休んでいた時期もあると答えます。
女医が怪我の原因を尋ねると、酔ったジャックがダニーの悪戯を咎めて腕を強く引っ張った結果の「よくある事故」だったと説明します。
努めてさり気なく説明するウェンディの言い訳の背後に、女医はこの家族が抱える深刻な問題を見出し、その女医の表情を捉えるショットが挿入されます。カットしてウェンディが説明を続けます。その時ジャックは断酒を誓い、それは「5ヶ月間」続いていると証言します。
撮影台本ではウェンディはダニーの怪我を説明した後、さらにジャックが失業した経緯も説明しています。映画の完成版では、このくだりが丸々削除されており、その部分に女医のショットが挿入されているのです。
撮影台本によると、私立高校の教師をしていたジャックは深酒して睡眠不足のまま登校したある日、一人の生徒に癇癪を起こして怪我をさせてしまいます。その為に失業したのだとウェンディは説明します。
撮影台本ではジャックがウェンディに断酒を誓った時期はこの直後だったのです。
ジャックが生徒に暴力を振るって失業するという設定は原作小説通りです。
ジャックは、彼を逆恨みする教え子が彼のフォルクス・ワーゲンのタイヤを切り裂くのを目撃した後、怒りに我を忘れて殴り続けて重傷を負わせます。
怒りを爆発させるというイメージにキューブリックは惹かれたのでしょうか。撮影台本の前段階の“トリートメント”では回想シーンとして一場面が割かれています。
私が興味深く感じるのは、キングの原作小説とキューブリックが書いた脚本とでは、ジャックが断酒した理由が異なる点です。
キングの原作での断酒の理由は、ダニーを怪我させた反省と、同時期に飲酒運転で危うく人身事故を起こしかけたことです。深夜、猛スピードで跳ね飛ばした子供用自転車に誰も乗っていなかったことを啓示のように感じたジャックは酒を断つ決心をするのです。
ところがキューブリックの脚本では、深酒の末に癇癪を起こして失業したことが断酒の理由になっているのです。
原作小説では断酒中に失業しますが、ジャックは何とか耐え抜いて断酒を続けます。
繰り返しますと、原作小説での断酒の動機はダニーに暴力を振るった事と飲酒運転事故を起こしかけた事です。しかし撮影台本では、断酒の動機はダニーの怪我ではなく、飲酒と癇癪が引き起こした失業なのです。
この動機の違いはジャック・トランスのキャラクターに微妙な差異を与えているのではないでしょうか。
原作小説の動機では息子ダニーへの愛情を強く感じますが、撮影台本の動機ではむしろジャックの自分自身への恐れと自己嫌悪を感じます。
しかし結局、映画の完成版では我が子に暴力を振るって怪我を負わせた為に断酒した、というシンプルな形に戻されました。
ちなみに、原作小説にはジャックが教えていた私立高校の名前は「ストーヴィングトン“STOVINGTON”」という架空の学校名とされています。
映画では、ジャックがオーバールック・ホテルで目覚める場面で前職場であるこの高校名がプリントされたTシャツを着ていました。
私が撮影台本を読む前に推理していたことは、3年前に怪我をさせたというセリフはジャック・ニコルソンのアドリブであって、キューブリックはセリフの内容に誤りがあるのを知りながら、このテイクの演技を気に入って完成版に残したのではないか、という理由でした。
しかし撮影台本を読むと、私の推理は間違っていました。