田中康弘著『山怪』 不思議な音①
山では、不思議な音や声を聞くことがあるという。
その正体は何だろうか。
山の中で聞こえる不思議な音の種類は様々だ。足音や話し声、笑い声、作業音、地響き、さらに音楽もある。それらが誰もいないはずの森から聞こえてくる。
例えば。
高知県の安芸市で猟師の長野博光さんが山を歩いていると、後ろから足音が聞こえてきた。ひたひたと付いてくる。振り向いても何もいない。「これはしょっちゅう」あるが「いったい何なのかまったく分かりません」という。
また、山形県の出羽三山で猟師をしてきた遠藤忠政さんは、獲物を待ち構えている時に背後で人の話し声を聞いた。そこは山奥の険しい猟場である。振り向くと誰もいない。しばらくするとまた聞こえる。時々笑ってる。叫び声が聞こえたり、誰かの名前を呼んだりもする。そういうことがよくあったそうだ。
これらは山の地形や環境が心理的に作用する幻聴なのだろうか。
その岡居さんが5年ほど前に仲間と猟をしていたときである。その時は「巻き狩り」という猟法で、岡居さんは布陣の奥に位置する滝の下にいた。すると中年女性の話し声が聞こえてきた。
そのオバサンはどうも地元のスーパーの話をしているらしい。
「“サトウ(スーパーの名前)の特売日には昼間より夜行ったほうが店長さんが安うしてくれる”みたいな内容」が「五分くらい聞こえて」いたという。
猟場に人が入り込むのはあり得ることだ。岡居さんは仲間に無線で報告し、安全確認のために布陣を解除して調べた。しかし人が入った形跡は無い。そもそも中年女性が来れるような場所ではないのだ。錯覚だったのか。
ところがおばさんの話し声を聞いたのは岡居さんだけではなかった。滝の上に陣取っていた先輩も聞いたのだ。話し声の内容も一致する。やはり誰か居たのだろうか。しかし、声の聞こえてきた方角が岡居さんとは「まったく反対」だったそうだ。
秋田県の旧阿仁町のマタギ、鈴木英雄さんが夕方に草刈りをしているとコンッコンッと斧で木を切る音が聞こえた。しかしそちらに木は無いのだ。「狸だな!」と叫ぶと音は止んだ。
英雄さんの祖父も同様の音をよく聞いたそうだ。木を切る音が聞こえるがそれらしい様子は見えない。そのうち太鼓を叩く音が聞こえ始める。こんな所で太鼓を叩くのは狸くらいだと納得した。
「最近の狸はチェーンソーの真似もする」と英雄さんは言う。誰もいない森の中からチェーンソーの音だけが響いてくるのだ。「斧からチェーンソーに山仕事が変わってきたら、いつの間にか狸もそれを真似るように」なったという。しかし実際に狸の姿を見た訳ではない。
英雄さんと同じ地域で林業に携わる高堰幸一さんは「チェーンソーの音は聞こえるよ」と同意する。誰もいないはずの所からチェーンソーの音が聞こえてくる。それに続いてメキメキ、ドーンと大木が倒れる音まで聞こえてくる。そこにいた作業員全員が聞いたそうだ。
福島県の南会津町の森でも、数年前の放射能測定中に誰もいない場所からチェーンソーの音が聞こえた。
「今日はこの辺で作業している奴は誰もいねえはずだぁ」
「じゃあ、何だあの音は?」
結局、森林管理署の人たちにも分からなかったそうだ。
秋田県の消防士、山田尚樹さんも山でチェーンソーの音を聞いたことがある。
「あれ?チェーンソーだな、あの音は」
耳を澄ますと静かになる。しばらくすると、再び辺りに響き始める。だがそんな筈は無いのだ。なぜならそこは世界自然遺産の白神山地であり、許可がないと入れないからだ。まして木を切るなどあり得ない場所である。
山田さんは「ああ、これが狸の仕業か」と思ったそうだ。
山形県の湯殿山近く、田麦俣の松原英俊さんは「不思議なことは何も無いと思いますよ」と言う。松原さんは横浜から田麦俣へ移住して鷹匠になった人だ。
「山の中で声?聞いたことはありますよ。何だと思いますか?あれはね、移動販売の拡声器とかお知らせの放送が山の下からいろんな所を伝わって、すぐそばで何か言っているように聞こえるだけなんです」
不思議なチェーンソーやおばさんの話し声も、遠くの音が伝播して来て近くのように聞こえるのだろうか。
ではそれが夜中に聞こえる場合はどう解釈すればよいのだろう。
兵庫県豊岡市の猟師、岡居宏顕さんは生態系の調査もしている。冬眠中の熊を調べる為に山へ入り、露営したときだ。夜、目が覚めると二人の女の子の話し声が聞こえた。
「一人はまだ小さい子で、もう一人は少し大きい感じのハスキーな声」だったという。耳を澄まして内容を聞くと、
“だから、あの時さあ”
“うん、うん”
“スズメがね”
“そうだよねえ、スズメがねえ”
こんな会話がずっと聞こえたそうだ。2月の極寒期の深夜、場所によっては積雪が2メートルもある山の中でどういう訳だか女の子が雀の話ているのである。いくら何でも幻聴ではないか。しかし聞こえたという心象体験は事実なのだ。
岩手県の西和賀町でマタギをしていた高橋仁平さんが体験談を語る。昭和22年頃と古い体験ではある。
仁平さんが山形県の鉱山で働いていたとき、真夜中に木を切っている者がいる、と炭焼き小屋の親父が訝しがる。しかし、ただでさえ危険な伐採作業を真夜中に行うはずがない。
「そんな馬鹿なことがある訳がねっ!」
と仁平さんは正体を確かめるべくその炭焼き小屋に泊まる。すると夜中に音が聞こえてきたのだ。
「しょ〜っしょ〜っ、こんこんこんこん、鋸を使ったり斧を振るう音なんだな、これが。それからぱりぱりぱりぱり、ド〜ンって倒れて行く音まではっきり聞こえるんだ」
それは遠いような近いような、実に不思議な感じの音だったそうだ。人間の仕業ではないと思った仁平さんはオッチョという罠を仕掛けた。重い天板が獲物を押し潰す仕掛けである。
数日後、罠からはみ出るくらいの巨大な狸が捕まった。それからは真夜中の音は聞こえなくなったと言う。
実際のところ、狸にそんな物真似ができるのだろうか。
鷹匠の松原さんは出来ると言う。
「狸やカケスは物真似が上手なんですよ。よく山の中で赤ちゃんの泣き声がするんですが、あれはカケスですね。木を切る音ですか?ああ、狸なら真似るでしょうね。よくあることだと思いますよ」
カケスというのはカラスの仲間の鳥だ。ウィキペディアその他によれば、物真似が巧みだという。
ネットで少し調べてみたが、カケスや狸がチェーンソーや赤ちゃんを真似る音声は見つけられなかった。そもそもチェーンソーなどの機械音を出すことが生き物に出来るのだろうか。
ところがコトドリという鳥は出来るのだ。コトドリは見た目や大きさはキジに似ているがスズメの仲間だ。
コトドリの物真似の正確さたるや、まさに驚愕である。いったいどんな発声器官を持っているのか。テレビでよく見る、オウムや九官鳥の物真似とは次元が違う。YouTubeやTwitterの幾つかの動画で聞くことができるがそれでも信じられない。検索して聞いてみられよ。まさにチェーンソーのエンジン音や斧を振るう音、鋸を引く音、木が倒れる音そのものに聞こえる。カメラのシャッター音やクルマの防犯アラーム音、スピーカーから聞こえるアナウンス音声も真似る。赤ちゃんの激しい泣き声も真似る。これを森の中で聞いたら、さぞかし不気味だろう。
BBC EARTHの番組では、コトドリの傍らで解説するナレーター、デビッド・アッテンボローの話し声をすぐさま再現してしまう。声色やイントネーションはそっくりなのに、鳥の物真似だから単語の細部は聞き取れない。それがかえって不気味だ。
しかしコトドリはオーストラリア東南部に生息する鳥だ。日本には飼育している動物園もないらしい。コトドリ、英語名でLyrbirdはオーストラリアの国鳥で10セント硬貨にも刻印されている。
コトドリがいる森では子供の名前を呼んではいけないと言われているそうだ。コトドリが真似る声に誘われて、子供が迷子になるからだ。
一方で日本にはヤマドリという鳥がいる。キジの仲間で日本の固有種だ。警戒心が強く、姿を見ることが難しい。野鳥愛好家でも写真撮影に苦労するらしい。ヤマドリは物真似はしないが、「ドラシング」と呼ばれる羽ばたき行為でバイクのエンジンのような音を出すという。
不思議な音の一部はヤマドリが出すのかも知れない。
日本にもコトドリのように物真似ができる鳥獣がいれば、それが不思議な音や声の正体になり得るだろう。しかしコトドリは様々な種類の短い物真似声を次から次へと続けて出す。その合間には本来の鳥の声も混じるので、姿は見えなくても鳥の物真似だと推理できるはずだ。猟師たちが聞いた不思議な声や音は本当に鳥獣が鳴いた声なのだろうか。
不思議な音の正体をひとつだけに決めつけるのは無理なのかもしれない。