起業で3度の倒産危機、夫婦で月給9万円。絶望の中で生み出した「在庫分析SaaS」と支え続けた家族の物語
「浪人したくないから、高3の一年間はセルフ浪人や!」
在庫分析クラウドサービスを開発するフルカイテン株式会社CEOの瀬川直寛は、ぶっとんだ考え方をする少年だった。その半面、目標に向かって緻密な計画を立てられる執念も持ち合わせていた。とにかく、負けず嫌いだった。
“セルフ浪人”を決断したきかっけは、高1の頃放送していたドラマ『振り返ればやつがいる』を観たこと。織田裕二と石黒賢が本気でぶつかり合う様子を目にし、「医者ってかっこいい!」と思ったからだ。ただ、いろいろ調べてみたら、医学部は浪人して進学するものだと知った。でも、生家には浪人させてもらえる余裕はない。
「それなら、2年で3年分の勉強を終わらせ、3年生になったら受験勉強だけすればええやん」。セルフ浪人生活の始まりだった。高3からは学校に通わず、自宅で受験勉強に没頭した。担当教師から「出席日数が足りひん。これ以上休んだら卒業でけへんぞ。」と告げられても、進学実績を上げようと必死だった学校側の事情を見透かして「受ける大学は全て合格してみせます。」と啖呵を切り、卒業を認めてくれるよう直談判した(余談だが、この交渉術が就職後の営業スキルに存分に活かされることになる)。
合格発表の日。合格者の受験番号一覧を目で追ったが、無情にも不合格で医学部には合格できなかった。しかし瀬川は、後悔は一ミリも感じなかった。セルフ浪人までして全力で努力し切ったという実感があったからだ。決して負けず嫌いから来る強がりではなかった。27年経った今思い出しても、悔いは全く感じないという。何はともあれ、教師と約束したとおり8校の大学に合格するという圧巻の結果を残し、瀬川はストレートで慶應義塾大学理工学部に入学した。
慶應理工からスター営業へ
大学では、上には上がいることを思い知らされた。周囲の同級生は異次元の優秀さを見せ、「お前、なんでこんなことも分からんの?」と言われる始末。必死に勉強して理解に努める自分を尻目に、難しいことをいとも簡単に理解していく同級生たちの頭の良さに愕然とした。
だから、周りの同級生たちと勝負して自分が研究者として身を立てていくイメージが全く湧かなかった。失意、違和感、劣等感・・・。そうした気持ちは、熱力学系の研究室に入って実験チームに配属されてからも収まらず、実験に全く興味を持てずにいた。教授がそんな瀬川を見逃すはずもない。わずか3日で“クビ”を言い渡される。そして教授は「君は天然ガスの熱力学性質に関する研究をしなさい」とテーマを与えた。そして瀬川は統計やAIに着目し、「天然ガスがどんな温度や圧力でどんな状態変化を起こすかを予測するモデル開発の研究」にたどり着いた。研究室でこのテーマを研究するのは瀬川のみだ。
しかし、この時学んだ予測の仕組みや統計変動などの知識と教養が、後に起業した際、3度もの倒産危機を乗り越える突破口となるのである。
そんな瀬川だったので、大学院進学ではなく就職の道を選び、しかも畑違いのビジネスサイドで営業職を志望した。新卒入社したコンパックコンピュータ(現ヒューレットパッカード)では、持ち前の「ぶっとび力」を発揮するまでに1年ほどかかった。
1年目はOJTで目標設定もなかった。明確な目標がないと頑張れない性分であることも災いし、先輩の経費精算を手伝ってお小遣いをもらうという、どうしようもない時間を過ごしていた。営業配属2年目からは数値目標を持つことになり、俄然やる気が出た瀬川。先輩たちと比較して劣る営業力をどう補うかを考え、翌日の商談準備を念入りに行うルーティーンを始めた。
商談前日、「お客さんはこんな課題を抱えてるやろな」と仮説をいくつか立て、この仮説を顧客にぶつけた時の反応はこれとこれだと思うので、この反応の場合はどう話すか、といった商談のストーリーを条件分岐の数だけ考えた。それらを毎夜考えては丸暗記し、商談に臨むようになったのだ。
ここまで緻密なルーティーンが結果を生まないはずがない。3ヶ月で6億4000万円を売り上げ、堂々のトップセールスを記録した。
次の転職先では「売り物なし、エンジニアなし、瀬川だけがいる状態」と、後に冗談めかして振り返るほど事業基盤が何もない状態からビジネスを立ち上げた。3年間で年商15億円の事業を創り出し、大手メディアに取り上げられた。
3社目では営業10人体制の中、1人で全社売上の9割を稼ぎ、さらにその次の転職先ではSaaS事業なのに1回の商談で2億円も売り上げるなど、常識外れの結果を残していく。
スタートアップ4社で抜群の営業成績を残す。絵にかいたようなサクセスストーリーであった。
「俺の仕事は数千円の風船ギフトに負けている」
もちろん、マジメ一辺倒ではなく、羽目も外した。1社目のコンパックでのこと。数億円の契約がかかった商談の前日、上司と飲み行ったあと一緒にカラオケに繰り出した。酔いすぎて、そのままお店で寝てしまった。朝になり、そのまま商談に向かったが、鞄を開けたら中に分厚いカラオケ本が!しかも、あろうことか見積書はカラオケ本に押しつぶされてハリセンのようになっていた。
普通の人間なら血の気が引いて右往左往してしまいそうな場面だが、瀬川は「すみません、間違えました。出直してきます!」と急いで帰ってしまった。こんな失敗があっても、仕事は極めて順調だった。
営業マンやスタートアップ勤務者なら誰でもこんな人生を歩んでみたいと思うだろう。しかし瀬川は、誰にも言えないある苦悩を抱えていた。
「俺の仕事って、誰かを幸せにできているんやろうか…。」
企業相手のシステム開発の仕事は、信頼性や拡張性以外に業務効率などいろんなニーズがあるが、10年以上続けてきて「結局これって誰か喜んでる人いるの?」というモヤモヤをずっと抱えていた。小学生から熱中していたサッカーのFWのごとく、契約を取るという狩猟民族的な手応えはある。でも、もっと根源的な「誰かの役に立つ」という人間的な手応えが全然なかったというのが、瀬川の偽らざる本音だったのだ。
4社目に勤めていた会社でのある日、起業するきっかけになる「風船事件」が起こる。
瀬川は、部下の誕生日にサプライズで、会社の本人の席に配達されるようバルーンギフトを手配した。部下が箱を開けると大きな風船がオフィスの宙を舞い、同じフロアにいた他部署の社員たちも含めてみんなが大爆笑していた。
瀬川は彼らの笑顔を眺めていて、はたと気付いた。「これまで自分がしてきた仕事は、この風船ぐらいお客様を笑顔にしたことがあるのだろうか。自分がバリバリ働ける時間は後どれくらい残されているのか。もう35歳なのに誰かを幸せにしているか実感がないモヤモヤした生き方をしていて良いのか」と。「この風船のようにお客様を笑顔にできる仕事がしたい。自分の人生の時間をそういうことに使いたい。」
瀬川が起業を決意した瞬間だった。ウソのような本当の話だ。実際問題として完全に初期衝動に駆られて会社を辞めたので、どんな事業をするかは全く決まっていなかった。
これが、今に続く波乱の人生の幕開けになろうとは、この時の瀬川は知る由もなかった。
半年で資本金の大半を溶かした
起業すると決めてから、まず食器の通販を始めた。今からおよそ10年前の2012年5月。ハモンズ株式会社という社名は、あのバルーンギフトが由来だ。「笑顔が波紋のように広がるように」。こんな想いを込め、会社のロゴマークは風船をモチーフにした。
この時、瀬川は新婚で、妻は妊娠7ヶ月。
朝から晩まで、美濃焼の窯元を車で回り開拓し、夜中に出荷準備。しかし最初は待てど暮らせど注文は無く、初めてのお客様はかつての同僚だった。やることも無いのに、ただただ不安でずっと事務所の椅子に座る日々。
寝る時間ももったいないと思うほど、瀬川夫婦は追い詰められていた。
その間も銀行口座残高は無常にも減っていき、創業時には615万円あった資本金が、7ヵ月後の年末には200万円に激減。当時、瀬川夫婦以外に2人の社員がおり、人件費や仕入れの支払いを考えると、あと4ヶ月しか資金繰りが持たない状況だった。
夫婦の月給は二人合わせてわずか計9万円。本当に肝を冷やし倒産を覚悟した。藁にも縋る思いで、経営者の代わりに金融機関に連帯保証する公的機関である信用保証協会にたどり着いた。お金を借りるのは初めてなので怖かったが、それ以外に道はなく、最終手段だった。
大人2人の男泣き事件
年が明けた2013年2月。大阪市内の瀬川の事務所(妻の実家)で保証協会審査官の男性が声を上げて泣いていた。
向かいに座る瀬川も嗚咽を漏らしている。生まれたばかりの長女もいる中、夫婦で9万円の月給では生活も苦しく夫婦喧嘩が絶えない。「倒産」の2文字が瀬川の頭をよぎる。
2人の男泣きには理由があった。EC利用客からのレビューコメントだ。審査官は型通りの質問を終えた後、瀬川にこう問いかけた。「社長、会社を作って良かったですか?」
瀬川はレビューページを見せながら答えた。「もちろん良かったですよ。だってこんなにお客様から喜ばれる仕事ができてるんですから」
志とは裏腹に売上は低迷し、615万円あった資金は10ヶ月で400万円超が消えたのは前述のとおり。妻には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
そんな瀬川を支えていたのがレビューだった。「毎日心が折れそうになるんですけど、そんな時はいつもこのレビューを見て気持ちを奮い立たせてるんです。自分はこうして人に喜んでもらえる生き方がしたいから会社を作ったんだ、と。本当に今苦しいですけど、それでも起業して良かったと思ってます」。そう言った途端、目から涙がこぼれ落ちていた。
実は審査官も来社前にレビューを読み、「利用客から喜ばれている」と感銘を受けていたのだ。瀬川の話を聞きながら「こんなに実直な社長さんは久しぶりに見ました」と言って声を上げて泣いた。
何とか涙を拭った審査官は「(保証希望の)満額を通せるよう頑張ります」と言い残して事務所を出たのだった。
審査結果は満額。瀬川はこの融資で息を吹き返し、事業は急成長した。そして勢いに乗ってベビー服ECに参入した。しかし、ここからが本当の苦難の始まりだった。
在庫の山を抱え、塗炭の苦しみ
ベビー服ECはあれよあれよという間に会員数が増え、売上も毎月増える中で、さらなる成長を求めて取扱商品数を増やした。狙い通り売上は急拡大したが、瀬川はしばらくして異変に気付く。
「利益はこんなに出てるのに現金はどんどん減っていく。なんでや?」。預金残高とは対照的に倉庫にしている自宅の一室は在庫の山。仏間にまで段ボール箱があふれ返る始末で、妻と幼い長女の3人で在庫と在庫の間で寝るような状況だった。
「とにかく在庫をお金に換えなあかん」。そう考えた瀬川は、初めて不良在庫をセールすることにした。
しかし、どの商品がセールの対象とすべき不良在庫なのかが分からない。思案している間も現金は無情に減り続け、焦りが募った。とうとう、2カ月後には従業員の給与を払えなくなるところまで資金繰りが追い込まれる。
正月休み、瀬川は食卓で3歳の長女に「パパがいつも忙しいからお正月なのにどこにも行かれへんくて、ごめんな」と語りかけた。妻が定期預金を崩して会社にお金を入れるなど、家計に余裕がないのが本当の理由だったが、父親として、夫として子供にそんなことは言えなかった。しかし・・・。
「パパは誰よりもお仕事頑張ってるやん!無理せんでいいで」
長女の屈託のない一言で、瀬川の涙腺は決壊した。それくらい苦しかった。
そんな時、瀬川は起業した理由を思い出した。「しんどいという理由で事業をやめるなら、会社なんて作ったらあかんやん。絶対に諦めるな。俺は絶対に勝つ」と何度も自分に言い聞かせた。
瀬川は目の前の在庫の山と向き合った。倒産危機でお金がないから自分で考えるしかなかった。すると在庫分析に対する興味が急激に湧いてきて、一気に没入していった。やがて、目星を付けて売っていくうちに光明を見出す。在庫が多い商品でも、日々コンスタントに売れているのなら不良在庫とはいえない。逆に1つしか残っていなくても、全く売れていないのなら不良在庫かもしれない。
そんな疑問がヒントになった。学生時代に勉強したAIや統計の理論、AIには限界もあるという知識も役立った。そして不良在庫を炙り出すロジックに辿り着いた。そのロジックに沿って不良在庫をセールした結果、現金を取り返して1度目の倒産危機を乗り切った。
売上拡大を目指したら2度目の倒産危機
「これでもう会社はつぶれへん」
不良在庫をお金に換える力を付けたことに瀬川は自信を深めた。
しかし小売業は甘くなかった。その後もわずか1年余りの間に、過剰仕入れや価格戦略の失敗で、さらに2度も倒産危機に直面したのだ。
最初の倒産危機の際に生み出したロジックで、在庫問題の解決に自信をつけていたが、2度目の倒産危機は音もなく近づいていた。在庫を消化する力を身に付けたので、仕入れを強化して一気に売上拡大を目論んだのだ。
売上は伸び、在庫の消化も順調で会計上は利益が出ていた。それなのに現金残高はどんどん減っていく。理由は単純だった。仕入れ量が支払い余力を超えていたのだ。「利益」はキャッシュインを伴わない見かけ上の黒字に過ぎなかった。気付けば、2か月後には資金がショートするという状況。短期間で経営が悪化したため社内の雰囲気は最悪だった。
瀬川とそりが合わない従業員が同僚を扇動し、讒言が横行して長く働いてくれた従業員でさえも嫌気が差して辞めていった。会社が内部崩壊しそうになった。そんな中でも瀬川は、なぜ仕入れ量を毎回間違えてしまうのか必死になって考えた。
その結果、発注点を変動させる手法を編み出した。それまでは、取扱商品数が多いなかで欠品を防ぐために発注点を固定して仕入れをしていた。このルールは発注点が固定されているので、その商品が一定のペースで売れ続けることが前提になる。
しかし実際はどんな商品にも売れ方に波がある。それに対応して発注点を変動させることにしたのだ(下図)。
仕入れ量が適切になっていくと、少ない在庫でも売上を立てることができるようになる。つまり、在庫回転率が向上するということだ。実際、衣料品の小売としては驚異的な年17回転を超えるまでになった。
しかも、不良在庫を突き止めるロジックを既に突き止めていたので、在庫が増えてくればセールをして資金をある程度は取り戻した。そこに仕入れ数量の適正化が加わり、まさに鬼に金棒の気分だった。
ここで瀬川は大きなブレイクスルーを体験した。商品は「売れる」「売れない」の二択だけではなく、その中間のいわばグラデーション部分があることに気付いたのだ。中間の商品の在庫リスクをたどっていくと、ほとんどが元々は売れ筋商品だったことに気づいた。理屈は簡単で、新商品が登場すると販促担当は新商品にお金と時間を使うので、売れ筋商品の販促が手薄になって在庫リスクが悪化する。そういう商品が中間の商品に多数存在することが分かった。そして、もともと売れ筋商品だったのだから、もう一度販促すれば結構売れることも分かった。このようにグラデーション状態の商品を対象に販促を強化すれば、「売れる」商品に回復する。売れる商品は、無駄に値引きする必要が無い。これが大きなブレイクスルーになり、トップラインの売り上げも伸び、売れ残っていた在庫の整理もできた。
これで瀬川は、ますます在庫と小売経営への自信を深め、事業は急成長した。
「今度こそ、もう会社は潰れへん」
しかし、およそ半年後、瀬川の鼻っ柱はいとも簡単にへし折られた。
送料無料ラインを引き下げたら3度目の倒産危機
瀬川は客数を増やすため、送料無料ラインを7000円から2000円に下げた。当初の計画では、客数が1.4倍になればペイする計算だった。しかし、蓋を開けてみれば1.2倍に留まった。「バナーのクリック率が改善しても、遷移先ページの離脱率が上がる」といった課題が発生し、どんなに改善しても1.2倍にしかならなかった。
そして困り果ててたどり着いたのが、クーポンや値引き系の施策だった。
しかし、ただでさえ送料無料ラインが2000円と低いため、クーポンや値引きの施策に対して大きな手応えはなかった。
これにより、客単価が2000円弱になってしまい、出荷する時点で赤字だった。客単価が下がろうと、運送会社に支払う運賃は大きさと距離で決まり下がらないので、売れば売るほど赤字が膨らんでしまうのが原因だ。
無料ライン引き下げから4ヶ月目で限界が来た。このままでは資金が底をつく。送料無料ラインを7000円に戻す苦渋の決断をし、顧客にメールでお詫びの連絡を取った。
お客様からは11件の返信があった。このうちお𠮟りのメールは2通のみだったが、残りの9通は「送料無料ラインが高いこのお店で買うと、他の子と被らないからよかったのに。」と思いもよらない反応だった。良かれと思って行った送料無料金額の値下げが、全く喜ばれていなかったのだ。瀬川は商売の難しさを痛感した。
送料無料ラインを下げたことで、客層は値段だけに響く人たちに変わってしまったと瀬川は気付いた。しかし後の祭りだ。無料ラインを7000円に戻したら客数は見る見る間に減っていった。
この間、クーポン配布を止め、導線やクリック率の改善も打ち切った。しかし、不思議なことに売上も利益も減らなかった。送料無料ラインを7000円以上に戻した時は、客単価が6900円程になり、単月黒字は達成した。この出来事で客単価の凄さに気づき、客単価に対する探究心がふつふつと湧いた。瀬川はこの時期、人生で一番グラフを書く経験をした。
すると、客単価を下げる商品と上げる商品があることに気づき、セットで購入されると客単価を上げる商品を見つけることにも成功した。
この気づきをもとに客単価を上げてくれる商品を中心とした販促を行った結果、客単価は1ヶ月で500円近くも向上した。まさにV字回復と言えるだろう。
夫婦で深夜に公園を散歩しクールダウン
1度目の倒産危機の時は欠品を恐れすぎて「不良在庫」とは何かがみえなくなっていた。2度目の倒産危機の際は、売上を増やしたいがために仕入れ量が過大になっていた。そして3度目は、販売数量の罠にはまっていた。
小売業で考え得る限りのパターンの失敗を重ねた瀬川。当然ながら、仕入れ担当だった妻との喧嘩も絶えなかった。クールダウンするためにほぼ毎夜、夫婦で公園を散歩した時期もあったほどだ。後に瀬川はこの時の状況をこう語った。
「あと数ヶ月で資金がショートする恐怖、借金を返せなくなるのではないかという恐怖、それらを生まれたばかりの子供を育てながら体験してるわけです。しかも夫婦が同じ会社で働きながらこの恐怖と闘っているわけです。会社の時間とプライベートの時間なんて分けられるはずもなく、食卓も毎日暗い雰囲気でどちらかが言葉を出すと喧嘩になる毎日でした。その横で子供はずっと泣いていて…。だけど仕入れや出荷があるので毎日夜の12時回ってもずっと二人で働いてました。そんな毎日の中で互いに気持ちをクールダウンするために公園を散歩してたんです。二人でベンチに座ってアイスクリーム食べたりもしてました。」
「来年どうなってるか分からへん人生は楽しいで。会社員の時は3年後、5年後もどうせ同じことしてるって分かりきってたやん。そんな人生はつまらんし退屈やわ。」
妻はベンチの隣に座る瀬川に語りかけた。思い詰めている瀬川へ妻が発した言葉は、瀬川の心の奥底まで染み込んだ。
毎日喧嘩していても、やはり夫婦。人生の伴侶からの励ましに瀬川は何度も勇気づけられた。
もう1つ、常に心を支えていたのは、お客様からのレビューだった。瀬川には忘れられない1通のレビューがある。
「お腹の赤ちゃんが女の子と分かり、生まれたら着せてあげようと決めて買った服を本当に着せることができました。この子を大切に育てよう、と心から思いました。」
レビューは3ヶ月おきにメーカーにも共有した。少しでも良い商品を作ってほしかったからだ。それくらい「人の役に立つ仕事」に本気だった。
瀬川は倒産危機のたびに何枚も何枚もグラフを書き直して考え抜き、ついには在庫問題の本質的原因にたどり着いた。大学時代の素養が、ここで役に立ったのだ。そして解決策を、サラリーマン時代に身に付けたスキルを活かしてシステム化していった。その甲斐あって、合計3度の倒産危機を全て乗り切ったのだった。
妻が「これは世の中の役に立つ仕事や」と背中を押す
苦労してたどり着いた在庫問題の解決策は、それまで小売業で常識とされていた考え方とはほぼ正反対の考え方だった。これには瀬川も心底驚いた。
一方で、3度の倒産危機を乗り越える過程で開発したシステムであるからこそ、今後はEC事業を安定して継続できると考えていた。「人の役に立っている」と実感できるECをずっと続けられる、と。実際、在庫回転数は17回転を超えるまでになり、在庫で悩むことはなくなった。
ところが、瀬川の妻は違った。「在庫は小売業の社長ならみんな悩んでる。本当に人の役に立ちたいのなら、このシステムを他の会社にも使ってもらうべきやで」と外販を強く主張したのだ。妻は取引先と仕入れや在庫の苦労話をよくしていて、システムについて説明すると「それ欲しい!絶対に売った方がいいですよ」と言われていたのだ。
しかし瀬川は渋った。システム開発の仕事では人を笑顔にできないと思ったのが、ECで起業した理由だったからだ。夫婦は何度も反発しあった。
それでも妻は諦めなかった。「在庫の悩みを解決できることは、自分の会社で実証済みやんか。こんなに人の役に立ちたいと思って歯を食いしばって頑張ってきたのに、なんで自分の倒産危機を3度も救ったこのシステムが世の中の役に立つと思われへんの?」妻の言葉に、瀬川はぐうの音も出なかった。
ともに苦境を乗り越えてきた妻は、ベビー服EC独特の事務系業務に時間を取られる瀬川を見て歯がゆさを感じていたようだ。「相手の課題を見つけて解決する夫の能力は、BtoBの世界でこそ発揮されるべきや」
背中を押された瀬川は2017年の年明け、システムの販売に会社の舵を切る決断をしたのだった。
これがフルカイテン株式会社が提供する在庫分析クラウドFULL KAITENの始まりだ。
揺るぎない自信を胸にVC突撃訪問
その後、瀬川はコネもゆかりもないベンチャーキャピタルへ飛び込んでいった。事業計画を一から説明し、半年後には最初の資金調達(増資)を実現。さらには上場企業との間でEC事業のM&Aを成功させ、経営資源をFULL KAITENへ集中させた。
それまであった売上がゼロになり14名いた社員は3名になったのだから、瀬川は不安だった。次女を授かったという事情もある。
しかし、3度の倒産危機を乗り越えた経験と家族への厚い信頼から来る自信が不安を上回った。「何が起きても絶対に乗り越えられる」と。
FULL KAITENを事業化してからも、いばらの道だった。
2017年11月にFULL KAITEN「ver.1」をリリース後、2ヶ月で7社と契約することができた。ところがそのほとんどが大企業だった。ver.1は中小企業をターゲットに開発していたので大企業の多すぎるデータ量が原因でシステムが重くて動かなかった。
ベンチャーキャピタルから資金調達した直後だったが、瀬川はお客様の笑顔以上に大切にするものはないので、2018年1月から営業活動を一時停止する決断を下し、Ver.2の開発に着手した。
ver.2の開発でも苦渋を舐めた。
たった3人のチーム(エンジニアは1名)で、あり得ないデータ量を高速に処理するシステムを開発するのは知見的にも体力的にも難しく、また営業を止めたことで売上がない中でエンジニア採用を進めることも難しく、最終的に5名(エンジニアは3名)のチームでver.2の開発を進めた。
しかしそれでも本当に難しい開発で、スケジュールが遅延に遅延を重ねた。資金は2度も底をついた。その度にベンチャーキャピタルから資金調達をしてピンチをしのいだ。
2019年12月の3回目の資金調達の時はベンチャーキャピタルから資金が入金される前日の預金残高が20万円しかなかった。当時の社員数は8名だった。営業を止めていても問い合わせがなくなることはなく、契約が少しずつ増えていたのだが、開発が遅延に遅延を重ねたため、利用開始して頂くことができない。
だから瀬川は毎日のように各社を回って謝罪を続けていた。
怒鳴られることもあったし、解約されることもあった。中には「信じているから頑張れ」と勇気づけられることもあった。
もし自社の売上だけを考えるのなら、もっと早い段階でver.2をリリースすることもできたが、瀬川はその判断はしなかった。
もしその判断をしてしまったら、風船事件前の自分を肯定することになるし、そうすると起業してこれだけの苦しさを耐えてきた家族にも、会社の仲間たちにも顔向けできないと思ったからだ。
だからお客様を笑顔にするという信念を貫くこと、そのためなら頭を下げることも怒鳴られることもストレスもなんでも受けて立つと覚悟を決めた。
結局、ver.2も目指していたレベルのシステムは開発できなかった。
しかしお客様からは一定の評価を得ることができ、導入から5ヶ月でキャッシュフローが2倍になった企業や、売上高が昨対25%アップした企業、過去最高益を出した企業、在庫高が半分に削減できた企業などめざましい成果をあげた。
ただ大規模データに対するシステムの重さという課題はまだまだ残っており、ver.2リリース同日にver.3開発に着手した。この裏にはver.2開発で得た知見を活かせばver.3で課題を解決できる自信があったからだ。
ver.3開発はエンジニアチームを立ち上げながらの開発になった。
途中、コロナの影響で勤務体系がオンラインに変わったことで、コミュニケーションの問題が出て苦しい時期もあったが、どうにか遅延なくリリースすることができた。
2021年9月に入社したCTOの活躍もあり、現在は開発スピードも品質も大きな向上を見せている。
FULL KAITENは現在、大手アパレルやメーカー、楽天市場ショップオブザイヤー受賞店舗など、実店舗・EC両方に利用が広がっている。そして、ユーザー企業から寄せられる「FULL KAITENを使って本当に良かった」という声が、瀬川とフルカイテンを支えている。
「在庫で悩む社長さんたちの役に立ちたい」
当初はそれだけの気持ちでスタートしたFULL KAITEN事業だったが、営業先の大手企業の役員の言葉が、瀬川とフルカイテンの転機になった。
「FULL KAITENが広まっていろんな企業が在庫問題を解決していけば、世界中で今までのような商品廃棄が減らせるんじゃないかな。そうなったら資源の無駄遣いも減らせる。瀬川さん、FULL KAITENにはそんな可能性がありますよ」
瀬川の視座が一気に上がった瞬間だった。
「世界の大量廃棄問題を解決する」というミッション。これこそが究極の「人の役に立つ」事業だと確信している。
子供たちや将来生まれる孫たちの世代に今より良い地球を残す。瀬川が会社のメンバーたちとともに見つめる先には、そんな未来がある。
瀬川家のバースデーパーティーには必ず風船がある。
しかも浮かぶバルーンギフトまで用意して。
浮かぶ風船を見たら大人も子供も笑顔になる、それは今も昔も同じ光景。
いつかこの風船ぐらい、誰もが笑顔で暮らせる社会をつくりたい。
瀬川は風船を見る度にそう思いを馳せ、愛する家族と、起業のきっかけになった『風船』を見て、優しく微笑んだ。
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