記録としてのTwitter/SNS
駄文。ポエムと読み替えてもらってもいい。
インターネット上に存在する個人というのは、実際にプライベートな個人であれ、企業によって運営されている個人であれ、企業/個人によって企画されたキャラクターとしての個人であれ、インターネット上にある人格のようなものになっている。
僕も現実の僕とインターネット上の僕とは違う存在でありつつも切っても切り離せない存在という自覚はある。10年以上もインターネットで生きてきたらそれはそうだ。
その上で。
新潟と縁の深いニパ子が、今日惑星コウグへ帰っていった。
それと同時にTwitterも運営のゴッドハンドに返し、ニパ子としてのツイートは全て消えた(これから消えていく)。その是非について言えば、決してGHやニパ子の判断を責めることはできない。正当な権利であり、その決定自体は間違ってはいない。ニパ子の説明も理解はした。大人の事情も色々あることは分かってる。
その上であえて言うけど、やっぱりツイートは消して欲しくなかった。できるならアカウントの名前を変えて、無期限更新停止状態にしてほしかった。会社のアカウントは別で作ることもできたんじゃないのか。
ニパ子は元々Twitterでの活動で名前が売れたのが半分以上ある。もちろん様々なコラボや売り込みもかなりしていたはずだ。だけど、ニパ子という存在に魂を与えていたのは確かにTwitterでの活動だった。
そのTwitterが、記録が、全部消えちゃうってことはさ、もう記憶の中にしかもう残ってくれないんだよ。
これはニパ子に限った話じゃないんだけど。というかそもそもインターネットの問題でもあるんだけれど。
元々、インターネットは無限に情報が残る場所だって言われていた。だけど、じわじわとそんなことはないって僕らは理解し始めた。
一番分かるのはジオシティーズの終了で多くのサイトが消えたことかなあ。あれでなくなった古いホームページ、いっぱいあったはずよね。
Twitterだって十数年生き延びてるけど、十数年後にTwitterというサービス自体が生きているか分からない。このnoteというサービスだってそう。だからこの文章は矛盾している。分かっている。
だから、インターネットに安定した永遠を求めることはできないんだって僕たちは理解しなきゃいけない。
でもさ、僕たちの脳は理解できないんだよな。インターネットは永遠で、いつか僕たちが死んだ後にも僕たちの生きてきた記録がインターネットのどこかに残ってくれるって、信じてた/信じてる。でも実際はそうじゃない。
インターネットとの関係について、その距離感について、インターネットが生活の大部分に影響を与えている僕たちは、ちゃんと考えないといけない。
いつか、百年後、千年後にこの時代について調べようとする未来人に、僕たち、インターネット人の記録がちゃんと伝わってくれればいいよな。
あとわがまま言うけど、できるならニパ子に限らず引退する人のTwitterやYouTubeなんかは残してあげてくれよ。わがままだって分かってるけど。
インターネットに彼/彼女たちが生きてきた証残してあげてくれ。頼む。
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