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シンプルさと混沌と

きょうは朝から大人編、夜に子ども編の読書作文指導。

作文の手順に、取材っていう過程があります。

字の通り、テーマに対して感じること、主張を論じるための材料を取ってくること。
たとえばカレーの材料なら、スーパーに行って、たまねぎ、にんじん、お肉、カレー粉を買ってくる。好みの材料を選んでくる。そういう材料は可視化されているし、傷んでないかなと匂いを嗅ぐこともできます。手に持って、重さを感じることもできる。

作文のときの材料って、自分の頭の中にあったり、心で感じたりすることなので、可視化されていないし、匂いもしないし、触れることもできない。本当にその考えはあるの?その気持ちはあるの?って、疑いだすと「あること」自体薄まっていきます。

ここがとても大事で、だからこそ、というか、何かを感じたことをきちんと「ある」って受け止めること。それがあることを実感したら、どういう体感があるのかを、本当にあるように感じてみること。

大人編では、「私は何を言いたいのだろう」「中身がない気がする」っていう虚無感のようなものを語る場面があるなかで、やっぱり大切にしていることを語るときのその人は、とってもイキイキとしているんです。

その感覚!その感覚はあなたしか持っていません。他人に何と言われようが、私の中に確かにあるこの想い。それを感じて、まとめていく。まとまったと思ったら、また広がりだしたりして、それもまた面白いところ。


子ども編では、動物図鑑の好きなところを読んでくれて、その動物のどういうところに興味をもったかを作文で書いてくれました。作文に書いてあることは、確かに手短でした。そこに出ている言葉を道しるべにして、それぞれの言葉について感じること、思い出を語ってもらいました。子どもは体感が豊かだから、今それを感じているかのように話してくれて、臨場感があります。

細かく書くと果てしないのだけれど、今回、子どもの洞察力、つぶさに観察する力のもつエネルギーの大きさに圧倒されました。そんなこと考えたことなかったな~と。
動物の体の特徴を見ているようで、生物としてのヒトである自分との比較を通して、実はヒトって、自分って何なのかということを語るときもありました。とにかく自分が発見したことがあふれ出てきて、止まらないという感じで言葉がたくさん出てきます。

大人編で話した内容が、今つながったので書くと、赤ちゃんや動物という言語が伝わらないものが対象のとき、ヒトはものすごく相手のことを感じ取ろうとしているけど、言葉を獲得したとたん、突然に言葉による完全な説明責任をとらせようとします。言葉というものは絶対で完璧なもので、記号としてゆるがないもの。そういう側面もありながら、表出しているそのことばは本当にその人が感じていることの一端でしかなくて、それを前提に持ってお話をしたり、聴いたりすることができると、きっと温かい関わりが生まれるんだろうなと思いました。

作文で、大人はたくさん言葉で語ろうとして、核にある想いがわからなくなるときがある。思いはシンプルに、堂々とそこにあるんだけど、言葉がかえって複雑さや混沌とした状態にしてしまう。

子どもは少ししか書かないけど、たくさんの思いや気づきがあって、頭の中が混沌としていて、表現したい!という欲求が強い。

どちらもやっぱり、それを受け取ってもらえたとき、嬉しそうだなということが、今日の1日で感じたことです。


カンガルーの写真を探して、お!いい感じ!と思ったらワラビーでした。でもかわいい。


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