#8 ただ一点、常に本質を見据える。核心にある革新を求めて
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攻撃的なのに論理的。
熱っぽいけど、突き放す冷たさもある。
意見の発信はさながら散弾銃だ。
どれもが無関係なように見えて、意外とそうでもない。
——そんな、難易度の高い対談だった。
でも、彼の軸は一貫している。
本質は何か。そのエッセンスが示すものとは?
重ね合わせ、結びつけた「違い」が描き出すものを、求め続けている。
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自己紹介:yamamoto hayata 山本 隼汰
共創サークル『不協和音』と、このメディア『対岸』のオーナー。
自己紹介:小林 大志さん
データサイエンティスト。学生時代から野球やビートマニアのデータ分析を行い、ニコニコ生放送などネット上で論を展開。盛り上がったり叩かれたりしていた。司法試験を受験し、その勉強法をブログで発信していたことも。「100人の"偉人"に会う!」との目標を立てるも、現在はちょっと停滞中。
(連絡先:Twitter)@robo_taisho
データサイエンティスト:小林 大志さん
突き抜けた一流だけが持つ「本質」を見抜く審美眼
どんな分野にも「一流」とされる人がいる。
知識、技能、経験などが揃った一握りの存在だ。
だが、彼らを他と決定的に隔てるものがあるとすれば、それは意外と言葉で言い表せない不思議な何か、なのかもしれない。
小林さん:山本さんは、審美眼ってあると思います?
山本さん:あると思いますよ。もちろん、何を以て美を審らかにするか、という点では、いろんな価値判断の軸があるでしょうけど。
小林さん:僕、突き抜けた一流の人って本能的な審美眼を持っていると思うんです。それは、物事の本質、エッセンスの芯を理解しているとも言い換えられる。
山本さん:突き抜けた一流の人?
小林さん:たとえば、1990年代に「AIがプロの棋士に勝つのはいつだ?」と、日本将棋連盟がいろんな棋士にインタビューしたんです。大部分の人たちは「そんな日は来ない」「2100年頃になれば起こりえるかも」「絶対に無理だ」と答えていた。でも、羽生善治さんの回答は「2015年」で、森内俊之さんは「2010年」。実際には、2012年に開催された第2回将棋電王戦でAIがプロ棋士に勝ち越しを収めました。この人たちはトップレベルの棋士であってAIの研究者ではない。それでも、当時から本質を見抜いていて、未来まで見えていたんだと思ってる。
山本さん:それって、突き抜けていないとダメなんですか?
小林さん:経験上、そう思う。たとえば僕はビートマニアというゲームが昔から好きで、ニコニコ生放送で顔出しして分析を発信したりしてたんです。好き勝手なこと言ってたけど、トップレベルの人たちはおもしろがってくれたんですよ。「ある一面では、彼の意見も本質を突いてる」とか言って。
でも、少しランクの下がるギリギリ全国ランカーくらいの人たちは、すごく怒ってた。たぶん、僕と意見を戦わせて論破するほど持論がなくて、怒る以外の対処ができなかったからなんじゃないか…って言ったらすごく性格悪そうだけど(笑)
山本さん:僕は、本質を見極めるのって大事だと思うんですよ。でも確かに、本質を突かれると差が明白に顕在化して、不都合を感じる人もいるでしょうね。ネット上でそういう発言しちゃうと、叩かれませんか?
小林さん:めちゃくちゃ叩かれますよ、もちろん。
山本さん:それでも発言する真意を知りたいというか…単純に、叩かれるリスクを負ってまで、小林さんが意見を発信する理由を知りたいですね。
小林さん:まずは、とにかく自分の意見を言いたいだけ。僕は基本的にマニアックでオタク気質だから、好きなものについて語るのを誰かに聞いてほしい。リアルよりネットの方が、親和性の高い人に出会える確率は高いしね。
あと「叩き=注目の証」とも思っていて、そもそもあまりネガティブに捉えてもいない。無視される方がはるかにつらいし。どのみち、全員が同意する価値観なんてないし、あったとしても、それってものすごくつまらないと思うんですよね。むしろ、叩かれた後って「あいつはそういうキャラだから」ってはっきりして、何でも自由に言えるようになるメリットすらあると思っています。
否定も批判も恐れない。
真逆の意味を見出す世界観も存在しているのだ。
本質はどこにある?揺らがず、屈しない芯の在り処
山本さん:もともと、ネットでいろいろ発信されたりつながりを増やしたりされていたんですよね。
小林さん:うん、2ちゃんねるで、音ゲーとか野球とか大学受験とか司法試験とかいろいろ。そこで知り合ってつながった友達がすごく多いです。
山本さん:そうだ、司法試験も。
小林さん:今はちょっとあきらめちゃっているんですが、予備試験を3年間受験していました。僕、昔から勉強法を考えるのが得意というか、自分で納得した勉強法じゃないと一切勉強できなくて。同じことを大学受験の時にもやってたんです。それで今回も、司法試験の本質は何か、どうやったら受かるのか…って考えて、何千文字とブログで発信しながら試験勉強に励んでいました。
山本さん:わかりましたか、本質は。
小林さん:自分なりにはわかりましたよ。弁護士の知人に話して「一面では本質を突いていて正しい」と言われました。
でも、世の多くの人たちは、司法試験に受かっていない僕がどんなに本質を突いた勉強法を紹介しても、「だったら受かってから言えよ」という見方をしますね。合格しているかどうかをものすごく重視している。
それって変だと思いませんか?ウサイン・ボルトが世界記録を樹立したレースの前後10秒やそこらで、彼の走法やスタンスは本質的に何も変わらない。僕が考えついた勉強法の本質も、司法試験が合格だろうと不合格だろうと何も変わらないのにね。
山本さん:叩かれるのもそうですが、今の話って小林さんが何かを言われる側の感覚ですよね。逆に、小林さんが言う側の場合、どんなスタンスなんですか?
小林さん:まさしく今の話の裏返しで、「誰が言うか」より「何を言うか」を大切にしたいってことですね。相手や状況によって態度を変えない。それすごくダサいと思うし。
要するに「この人は知り合いだから、ちょっと高く評価しよう」みたいなことはしない。僕はデータサイエンティストで、分析が好きだし生業にもしているからこそ、そういう姿勢は分析に対して不誠実な気がするんです。相手が誰でも、どんな状況でもフラットでいたい。正しければ正しいし、正しくなければ正しくない、と言いたいってことかな。
山本さん:明快ですね、スタンスが。審美眼の話にも通ずると思うんですけど、結局のところ本質を貫いていたら、どんな状況だろうと相手が誰だろうと揺らがないってことだと感じました。
どんな事実を重視するかは、人それぞれ価値観が異なるもの。
自分とは違う人がいて当然だ。
そこに生まれる差異にさらされても、ぶれない芯を自覚しているか。
それが、その人の強さを醸し出す。
埋まらない「違い」を自覚したら、世界が変わって見えた
内容の本質よりも発言者を重視するのが、人間。
それが自然だと肯定したうえで、大切にしたいものを守ることもできる。
山本さん:一方で、おっしゃっていた通り「誰が言うか」を重視する人っていっぱいいます。そもそも何でそういう発想があるんでしょうね。
小林さん:人類学の観点では、人間が「何を言うか」を重視していた時代って歴史的に存在しないんですよ。それこそ「誰が言うか」の方が本質的にはるかに重要だった。なぜなら、物事の正しさを判断する拠りどころとして、社会的地位が高い人や権威のある人の方が説得力があるしわかりやすいしね。「何を言うか」を重視していそうな科学業界でさえ、ノーベル賞は以前にノーベル賞の受賞歴がある研究室から出やすい。知名度から優秀なタレントが集まるという側面はあるとしても、それもやはり実績のある「誰か」を重視していると言えるでしょうね。
元来「誰が言うか」を重視しているのが人間で、「何を言うか」を大事にする方が無理な話なんだと思っています。
山本さん:でもそうなると「何を言うか」を大事にしたい小林さんの気持ちとの間に、ギャップが生まれますよね。そこにある「違い」って、どうやったら埋められるんだろう。
小林さん:埋めることはできないし、埋める必要もない「違い」なんじゃないですか?以前、『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(ダニエル・カーネマン著)という本を読んだ時に”人間にはファストな脳とスローな脳があって、正誤判断はほとんどファストな脳で決めている”という意見にすごく納得したんです。スローな脳で吟味して意志決定することはほとんどない。だとしたら「誰が言うか」を大事にして当然だよな、と腹落ちしました。
あと、2000年頃のインターネットってまだ黎明期で、匿名が基本でリアルの社会と切り離されていましたよね。僕は当時、インターネットの世界こそ本質的な正しさをベースに議論が交わされる「何を言うか」が成立する場だと期待していたんです。でも実際にはFacebook然り、リアルの強者はインターネット上でも強者という世界になった。僕の期待ははずれたわけです。
この2つの事実から、社会は「誰が言うか」で成立していると納得できて、物事の捉え方も変わった気がしますね。折り合いをつけられるようになった。そのうえで、それでも僕は「何を言うか」を大切にしたいと思うのは僕の自由であり、社会一般とは違うかもしれないけど、違うものだと認めていればそれでいい、と、今では思っています。
相手を責めない、求めすぎない。自分起点を忘れない
山本さん:なるほど…埋めなくてもいいギャップがあり、存在することを認めてしまえばそれでいい「違い」があるってことですね。
僕は、誰かとの間に「違い」があった時に、違うからっていう理由だけで拒んだり切り捨てちゃったりする考えが好きじゃないんです。たとえ違和感があっても、相手を理解しようとしたいし、受け入れられる部分があるかどうかを探っていきたい。「違い」のなかに共通項が見つかったりすると、そこから相互理解を深められると思っていて、違っているように見えても歩み寄ろうとする姿勢を大事にしたいんです。
小林さん:僕自身は、違う人と仲良くするのが得意じゃないんですよね。今の場合の「違う」って、具体的に言うと、行動原理が一定じゃなくて予測できない人。たとえば「いつも人の意見に流されて意見をころころ変える人」って、意見を変えること自体が一定だからいいんです。普段は流されるのにいきなり意見を言って、しかもそのタイミングに法則が読めなくて…みたいな人とは、僕の価値観との間にある「違い」を埋める術がないって感じてしまう。
山本さん:そういう場合って、その人の存在そのものを認めてしまえばいいんじゃないですか?「違い」があろうとなかろうと、その人はその人だって認めてしまばいいのかな、って。
小林さん:それは、しっくりくる考え方ですね。世界を見渡せば、雨が降らないからって誰かを生贄にするような価値観の部族も存在するわけじゃないですか。僕たちには到底理解できない価値観だけど「そういう人たちもいるよね」と思ってしまえば、それでいいだけ。
ただ、その考え方も推し進めていくと、相互に不干渉になって分断するリスクもあると思うんです。わかりあう道が断たれるかもしれないし、そもそも「そういう人もいるよね」という考えをすること自体が、相手にも同じように相互に認めようよという価値観を押しつけるかもしれない。「私は相互に理解なんてしたくない」という価値観の人との間に生まれるアンビバレンスをどうにもできなくなる。
山本さん:確かに、自分の価値観を相手にも求めてしまうとつらいですよね。相手がどうであれ、僕はあなたを認めるし、あなたに変化を求めないと思えることが大事なのかな。あくまで自分にベースを置いて、相手の価値観や行動は関係なく相手を理解したいと思っていたいというのが、僕が大事にしたい考え方です。
小林さん:「違い」を受け入れにくいのも人間の本能だから仕方ないとは思う。怖いとか、ちょっと嫌だと感じてしまう気持ちを否定する必要はない。だけどその感情と、相手に対する行動を結びつけるのは違う。それはやがて排除や迫害を許容する発想になってしまうから、その線引きをできることが、「違い」との向き合い方なのかなと思いました。
知らずのうちに、良かれと思って。
故意の押しつけより、無意識の方が鋭いこともある。
埋められない溝をつくってしまう前に、大切なことを見つめてみるのが大切なのかもしれない。
イノベーションの源泉たる媒介者でありたい
山本さん:今って「100人の“偉人”に会う!」っていうプロジェクトをされているんですよね。実施されてみての気づきとかってありました?
小林さん:僕、人の話を聞く、インタビューするのがめちゃくちゃ下手だってことかな。でも、そもそも、ただ話を聞きたくてやってるわけじゃないんです。偉人の良い話を聞くだけなら、別に僕がやる必要はない。いろんな人たちの話を聞いて自分はどう思ったか、そこに生まれた自分自身の考えを発信することが、真の目的なんです。
山本さん:ありのままに話を聞くというよりは、解釈を加えて発信したいってことですかね。
小林さん:それもあるし、知識や体験談ってそれだけじゃ意味がないと思っているから。たとえばゴミ清掃員でも宇宙飛行士でも、体験は実際にやった人だけのものですよね、その状態だと体験はその人の中に閉じていて、ノウハウや知見を転用できない。それを一般化・抽象化すると、体験の価値をより広く伝播できるんです。さらに、一般化・抽象化した結果たどりつく本質が見えてくれば、それで体験のエッセンスを得られて他のことにも転用できるようになる。僕がやりたいのはそこなんですよ。
山本さん:やっぱり、たどりつく先は本質の見極め、なんですね。
小林さん:そこは変わらないよね。僕が求め続けるものなんだと思う。
アイデアって、ゼロから生まれるわけじゃないでしょう?どこかの領域での当たり前が、他の領域では画期的な可能性があって、移動させることや着眼するところがすごいポイントだと思うわけです。
山本さん:イノベーションを起こした意外なひらめきや思いつきって、当たり前の発想を変えただけで、別に技術や仕組みそのものに新しさはなかったりしますしね。普通を流用して移動させるというか。
小林さん:そうそう。そこに存在するのが「違い」だよね。存在している「違い」の本質を見つめて、それを他にマッチさせるように翻訳して伝達する。その結果、違っているからこそ価値が大きくなって、イノベーションが生まれたりする。逆に「違い」のない世界には、アイデアやイノベーションなんて生まれようがないと思っています。
山本さん:それを、小林さんは100名の偉人とお会いする中で模索してるってことですね。
今までのお話全般に言えますけど、小林さん自身ものすごく多様な分野に身を置かれているわけじゃないですか。それぞれの分野の本質を理解して、そのエッセンスを運び出したり、かたちを変えたりすることで価値を大きくしようとするのは、「違い」を認めたうえでより良く活用することなんだと思いました。
小林さん:確かに、僕が媒介になることで、ビートマニアと野球と司法試験とデータサイエンスが結びつく可能性が生まれているわけだしね。それだけの「違い」から、新しい価値を生みだせる人になりたいし、だからこそ「違い」はとても大切なものだ。うん、これが完全な正解だな(笑)
山本さん:「違い」って言っても、解釈の余地は広いですからね。今日はその広がりを楽しめて良かったです。あと、話の糸口はひとつでも思いがけない角度からどんどん展開していくのがおもしろかったです。いろんなところに火口がある火山の爆発を見ているみたいで(笑)今日はありがとうございました。
摩擦や衝突さえも抱きこむような姿勢には、「違い」を肯定してその先のチャンスを見つめようとする想いがあった。
違うからこそ生まれるものを求めている。
そこに開かれる新しい何かを知りたいと思うから。
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メディア『対岸』では、”違いって、おもしろい”をコンセプトとし、魅力的な個人との対話を通して、その人にとっての違いや、違いの楽しみ方を記事にして発信していきます。
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