A glass of water
おなかを下にして、足を丸めてじっとしていると、あたたかい。12月の昼間のほかほかしたひざしが窓から射しこんで、背中もあたかかった。
タワーの一番高いところに避難したのは、部屋の空気がぴりっとしてきたからだ。一瞬、飼い主の足にすり寄ってごろごろしようかと思ったけど、やめといてよかった。怒ってコップを倒しでもしたら、水をひっかぶって、毛のふわふわが台無しになる。
「いや、HSPがとかそういう問題じゃないから」
いらだった口調でつぶやいた飼い主は、さっきからテーブルの上のグラスをもてあそび、中の水をたぷたぷ揺らしている。それだけでこぼれるほどたくさんは入っていない。淡いブルーのグラスは、飼い主と彼女が旅先で買ってきた。そのグラスで飼い主はいつも水を飲み、彼女は夏になるとアイスコーヒーを飲む。
彼女は時々遊びに来る。でも、そんなに頻繁ではない。だから、わたしはこの部屋を飼い主とわたしの部屋だと思っている。彼女のことは嫌いじゃないけど(おもちゃやおやつを買ってきてくれる)世話をしてくれるわけじゃないから。わたしが近寄れば抱き上げてくれるけど、すぐに下ろされてしまうし。快も不快もない人、でしかない。
今日、彼女が着ている紫色のモヘアのセーターはもふもふで、わりとすぐに毛が抜ける。わたしの毛に似てるけど、抱かれた時の意外と硬い感触があまり好きじゃなかった。洗濯しすぎてくたくたにやわらかくなった、飼い主のTシャツの方がいい。だから、今日、わたしは飼い主の味方をしようと思っている。
「でも、事実、私にはわかれへんから」
声に半笑いをにじませて、彼女は応戦する。ぴりっとした空気の糸をさらに張ろうとしているみたいだ。わたしは右前足に顔をぺたんとあずけて、黙って情勢を見守るつもり。
「うそでしょ。めっちゃくさいじゃん。鼻ヤバくない?」
「知らんし。っていうか、気づけへんねやったら、それに越したことはないやん。気づいてまうから困るって話やん、さっきから」
「気づかないのが理解できないって言ってんの、俺は」
たぷたぷたぷたぷ、水が揺れる。飼い主は全然飲もうとしない。
でも、わたしには、飼い主の気持ちがわかる。わたしも水は好きじゃない。くさいから。鼻がツンとする。飲むときにひげが濡れるのもいや。こぼして水がかかるのもいや。
「あれやん、沸騰さしたらええやん」
「それはもはや水じゃなくてお湯だろ?」
「冷ましたらええがな」
ふたりは小さな丸テーブルに向かい合って座っている。そこにあるのは、水の入ったグラスだけ。殺風景なテーブルの様子は、この部屋の何もなさそのものだった。この部屋には物がない。厳密にいえば、飼い主の物がほとんどない。キャットタワーとトイレ。わたしのおもちゃ。ソファもベッドもテレビもない部屋が、わたしの世界のすべてだった。走り回るのはあまり好きじゃないから、飼い主がいる時もいない時も、わたしはたいていタワーでじっとしている。甘えたければ飼い主のところへ行くし、おなかの上で寝てしまうのも好きだけど、わたしは意外と慎重型で、高い場所から世界を見下ろしている方が安心できる。
「っていうか、別に沸騰させなくてもいいんだよね。冷やしたり、ペットボトルに入れて振るだけでもカルキ臭は飛ぶんだから」
「なら、やったらええやん」
「俺が言いたいのは、そういうんじゃないんだって」
さすがのわたしも、なら何やねん、と、彼女に同調してしまった。
無言のまま、彼女はリュックからペットボトルのコーヒーを取り出し、悠長に飲み始めた。カルキ臭なんて無縁の、真っ黒な液体。飼い主はコーヒーにも紅茶にも牛乳を入れて飲むけれど、彼女はいつもブラックコーヒーをかばんにいれている(のを、わたしは知っている)。飼い主は忌々しそうにそれを見ると、グラスの水を飲もうとして、やめた。
「塩素はさ、水の安全性を担保するのに重要なわけじゃん」
「…」
「日本って恵まれてるよな、水道水をぐいぐい飲めるんだから。ザンビアだったら、夢のようだよ」
話が急に突飛な方向に行ってしまうのは、めずらしいことではない。そんなこと知り尽くしている彼女は、だから何も言わない。
飼い主が停戦にしようというフラグを立てたようなので、わたしはタワーを下りることにする。ほんとは、ここから床までかっこよく飛び降りれるけど、わたしはあえて一段ずつ下りて行った。前足を伸ばして下の段に着けて、次は後ろ足。ゆっくり動く方が、猫らしい優雅さが映えると知っているから。すとすとすとと歩いて、彼女の足元を通り過ぎ、テーブルの下の飼い主の足元へ。飼い主は、冬でもいつもはだしだ。彼女はネイビーブルーの靴下をはいている。
彼女はなおも返事をしない。テーブルの下にいるわたしには見えないけれど、気配だけで、飼い主がグラスの水を飲んだことがわかった。わたしは、飼い主の大きなくるぶしにほっぺたをこすりつけながら、にゃあにゃあ鳴いてあげる。なぐさめるほどではないけど、わたしはなんとなく気持ちわかるよ、と伝えたかった。
「…ザンビアって、どこやねん」
ようやく口を開いた彼女の声にはやわらかな笑いが混じっていて、今日も彼女の負け、なのだった。
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