WINGCUP終幕と映像の再販と講評を踏まえての振り返りと
2020年度のWINGCUPの後夜祭(授賞式と講評会)が先日、
ウイングフィールドにて行われた。
私の主催する団体の[フキョウワ]はおかげさまで優秀賞をいただくことができた。(最優秀賞受賞は該当なし、優秀賞は猟奇的ピンクさん、シイナナさんと同時受賞)
感染症の真っただ中(公演日の1月は緊急事態宣言下であった)で、それでも最後までやりきれたのはひとえに、関わっていただいたすべての人の力あってのことだと改めて思う。感謝しかない。
優秀賞受賞を受けて、映像の再販を決定した。
https://fukyowa.stores.jp/
上記のサイトより、1,000円にて販売しているので、
少しでも興味が沸けば、見ていただけるとすごくうれしい。
(2/28までに購入いただいた方は、同じアドレス・パスワードで再度見れるようにしています。再度購入の必要はありません。)
授賞式のあとで、個々の作品への講評会が行われた。
以下はその講評会を受けての振り返りを書いていこうと思う。
(以下、作品のネタバレを含みます)
正直、悔しかった。
最優秀賞に届かなかったこと。それはもちろん悔しい。
最優秀賞に推すだけの「コレ」と思わせる何かが無かったということ。
それも、講評会を聞く限り、[フキョウワ]に関しては、あと一歩届かなかった、というレベルではなく、あと数歩、いや数十歩届いていなかった、という印象を受けたので、なおのこと悔しかった。
けれど、本当に悔しかったのはそこじゃない。
改めて講評会の要点をまとめると以下のようだったと思う。
①:作品全体としての(特にスタッフワークの)完成度は高い。
(目立った欠点は見当たらない)
②:前半と後半のつながりの説得力がない
→主人公の男と女の関係性が描き切れていない
③:母娘関係と母息子関係をパラレルに配置するのは無理がある
(母娘関係の問題の複雑さを母息子関係にも適用するのは雑)
④:男が女を代理戦争の道具にするのはキツさがある。(男は自分自身で戦わなければならなかったのではないか)
⑤:欠点はないが驚きもない
(理解不能でも心を揺さぶるような何かがない)
⑥:散りばめられた要素が展開しきれていない
⑦:美術は秀逸だが、それを使いこなせているとは言えない
⑧:90年代的なココロの問題を扱った作品であるが、そこにイマ性はあるのか
⑨:内容が内側に内側に向かっていく分、絵的には外に広がっていくものがあってもよかったのでは
⑩:小道具の配置や登退場の工夫があってもよかったのでは
だいたいこんな感じだったろうか。
①に関しては素直に嬉しく感じた。
第一回公演の際の反省点はずばり、各スタッフとの連携がうまくいかなかったことで、これに関してはワード3ページ分くらいの反省文を書いたし、それを踏まえて今回取り組んだのでその成果がある程度出たのだと思う。
もちろん、すべてすべてうまくいったわけではなく⑦や⑩の講評はその通りだったと思う。
③に関しては難しいとこだな、と思った。実際、そこをパラレルにするのは一般的に受け入れられないだろうなぁ、という予想はありつつ、一方でパラレルにできる普遍性もあるはずだ、という個人的感覚に頼りすぎた感はある。
問題は②だ。
今回、ある程度やりきったと感じていた。
完全とはいえないし、反省点も多々あったけれど、自分が表現したいことは表現できたと感じていたし、それはある程度届くものだと考えていた。
けれど、講評会を聞く限り(あるいはお客さんの反応を聞く限り)
その表現は届かなかった。
先の振り返りでも書いていたが
男が自我を保てず女を取り込んだのは「ナニモナイ・ナニモノデモナイ」という90年代的ニヒリズムのせいではない。
男が自我を保てなかった真の原因は「ナニモノカデアルこと(劇中では母の愛を受けていたという過去の事実と現在の心性におけるギャップ)を受け止めきれなかったこと(自分は“享受”している存在なのにそこに応えきれなていないと感じていること)」であって「ナニモナイ・ナニモノデモナイ」的90年代的ニヒリズムはむしろ、認知的不協和に陥った男の酸っぱい葡萄的偽の理由であった。(90年代ニヒリズムすらある意味では自己存在を肯定するための憧れの対象となる。)その受け止めきれない自分の弱さを、限りなく似た存在であるところの女に共有したことで女が自殺に至った(と感じた)。そこで、男は「母に愛されていたという記憶(アルバム)と女を死に追いやったという記憶」を自分と女をごちゃまぜにすることで封印した。そうやって自ら作り出し隠蔽した記憶に向き合う、そういう話を作りたかった。
以上のことを脚本・演出的に表現したつもりであったが、
それはやはり、そう伝わるようには表現できていなかった。
つまりは、脚本・演出としての力量不足でしかなかった。
そのことを思い知らされた。ひどく痛感した。
このことがひどく悔しかった。
実際、12月中盤までは
「ナニモナイ・ナニモノデモナイ」男がそれを苦にして女を取り込むという、実に90年代まっしぐらな話だった。
12月中盤に、「ん、そうじゃないぞ、俺がやりたいのは」と気づいて
そこから修正を図った。前半と後半のつながりの必然性については、稽古場でも再三議題にしたし、そこで出た意見も踏まえて修正できた、と思っていたけれどそこの判断が脚本・演出として甘かったと言わざるをえない。
改めて、本当に上記のような表現をしたかったのなら、もっと効果的な表現を取るべきだったのだと思う。稽古場により客観的な目線を入れるというのもありだろう。(今回はコロナの関係でそれも難しかったが)
⑤に関しては、何とも言えない。
これは狙ってできるものなのだろうか。あるいは、人生としての経験をもっと積む、とかそういうことなのかもしれない。
纏めると、今回の一番の課題は
「自分が表現したいと思い、作ったものが、どれだけ効果的に通じるのかの目を養い、またそれを判断するための仕組みを作ること」
だと思う。
私は割と“できない”タイプの人間だ。(周囲からは“できる”人間だと思われがちだが。)これは昔からそうだ。できないこと・うまくいかないことがたくさんある。
一方で、それらを一つ一つクリアしていく人間でもあると思っている。
これも昔からそうだ。
一歩ずつ、進んでいくしかない。