特定の属性を嗤うコンテンツへのモヤモヤ
ショート動画を見るとはなしに見ていて。
その動画は所謂、“陰キャ”の容姿や特徴的な仕草を特定のキャラに落として“披露する”動画で、細部までトレースされたその“芸”自体にはすごく感心したし、少し笑ってしまったのだが、同時に心がモヤっとした。
その動画を攻撃することが目的ではないし、あえて取り下げよ、と言う気もないので、その個別性については触れないが、類似的なものを挙げるとすれば、『友近』のネタだろう。
ただ、『友近』のネタが友近さんが出会い、面白いと思ったのであろう特定の人物をトレースし、その上で抽象化した“芸”であるのに対し、
その動画の“芸”は“陰キャ”という属性一般を特定のキャラクターに落とし込み、披露している、というように私には感じられた。
個別の人間の面白さに普遍性を持たせようとする前者に対し、後者はある属性を面白いものとして規定しにかかっている、そのような感じだ。
回りくどく書いているが、何を言いたいのかというと、その動画は明らかに“陰キャ”を嘲笑う要素を孕んでおり、それは、嗤う存在と嗤われる存在のパワーバランスを感じさせるものであった。
ある人間をある属性に押し込め、(蔑むべき存在であるように)嗤う、というのは構造的な部分で言えば人種による差別や、性自認による差別と同じだと思う。
20年前くらいまでは“おかま”(差別的表現であるが、ここでは敢えてこう表記する)は確実に嗤いの対象として扱われていた。
“おかま”の芸が面白い以前に“おかま”という属性そのものが笑える、そんな有り様だったように思う。
現在においては、“おかま”をそのように扱うことは、減ったように思う。なんなら、それは炎上の対象となるだろう。
上記では敢えて、人種のような生得的なものと、“陰キャ”のような生得的だけではない要素を含むものを並べている。ので、一概に同じだとは言えない。しかし、では、生得的でない、後天的な要素なら、その要素を属性化して笑ってもよいのか?
わからない。今のところ、その個別性(あくまで、その個人)を笑う分には悪かないのだろうが、それが集団的属性に派生するようなら少し考えものだと思う。
(アインシュタインの稲田さんが
『僕はプロのブスです。
だから何を言われても大丈夫ですが間違っても一般の人に、アインシュタインの稲田に似てるなんて絶対に言わないでください。』と言っていたのが思い起こされる)
あるいは、ある属性を笑う立場の人間が、同時にかつ、同様のパワーバランスで笑われるような関係性であるなら、まだよいのかもしれない、とも思う(差別はパワーバランスの偏りによって生じる)
笑い、は難しい。
様々な要素で笑いは構成されているが、その中に確実に、上記で挙げたような、“ある属性を下に見る”ような笑いもある。
コンプラ至上主義の世の中で、それらは一概に否定されるものなのか。何が許され、何を許さないのか、そこは見極めていきたい。(下野)