公演の振り返り①(作品全般編)
[フキョウワ]第二回公演『足掻き(あしかき)』及び、
公演にまつわる話の振り返りを行っていく。
今回は作品に寄せられた感想で特に気になっている点について。
この作品を上演するにあたり、稽古段階から常に警戒していた懸念点。
それは、前半の“女”の話と“男”の話がリンクせず、全く別々のものに思えるのではないか、ということだった。
この点になるべく注力して、いろいろな解決策を脚本や演出で付けてきたつもりだったが、終演後のいくつかの感想を見るにつけ、それは半分は成功し半分は失敗してしまっていた、ように感じる。
作品はあくまで、上演されたものを観たお客様の解釈によるもので
作者がいかに「こういう作品だった」と言っても
それは何の意味をもたない、と私は考えている。
ただ、根本の部分がうまく伝わらなかったことについて
どうすべきだったのかを考えるために、以下のことは書いていきたい。
そもそも『足掻き(あしかき)』はどんな話だったのか?
(以下、上演後の作者による無粋なネタバレがあるので、
苦手な方は戻るボタンをお願いします。)
まず、作中での重要な出来事を時系列で並べる。
①:男と女が電話で互いのこれまで自分に降りかかった
出来事、思いなどを共有する。
②:女が家族関係や彼氏・友達との不和、その他諸々で心理的に追い詰められ、精神科に通うようになる。
③:男は昔のアルバムを読み、そのこと(自分は愛されていたという事実)を女に電話で伝える。
④:アルバムのことを話して以来、女から男への電話が途絶える。
⑤:女は男からの電話を受け、女が一番欲していた「母からの愛」を唯一の理解者だと感じていた男が享受していたことを知って絶望し、自殺を決意する。
⑥:男はもしかしたら、自分がアルバムのことを伝えたことが女を死に追いやったのではないかと思い、アルバムに関する記憶(アルバムの内容とアルバムの内容を女に伝えたこと)を抹消する。
⑦:⑥以降、男は解離性障害の症状を見せるようになり、ある日、母親をフルーツナイフで刺し、精神病院に入ることになる。
⑧:男は精神病院で女に関する物語を書き始める。
何度も書く中で、自分のことを女だと思い込む。
⑨:何百回目かの試行の末、自分は女とは別人で、抹消したアルバムの記憶を取り戻し「僕じゃない私」を書くことを決意する。
だいたいこんな感じ。
作中ではこれを意図的に時系列をバラバラにして進めている。
というか、男が女の物語に自分を部分的に
投影しながら進む構成になっている。
そのため、時系列というのは語弊があるが
作中の進行を無理やり当てはめると
⑧→(①・②)→⑦→③→④→⑤→⑨みたいな順番になる。
(⑥に関しては、抹消した状態として作中全体で見える構成)
前半60分くらいかけて
男が書いている小説の登場人物としての女の話が展開される。
この女の話というのは、男が自分の話と女の話をごちゃまぜにして作り上げたもので、女と男は悩みや苦しみを大部分で共有していることになる。
具体的には
・母からの無償の愛を受けられていないと感じていること
・自分の願望を押さえつけ、褒められるため(構ってもらうため)に
“良い子”を演じるようになったこと
・小中学校を経て、対人関係がうまくいかず自分を“透明な存在”だと感じるようになったこと
・神様が信用できないこと
・誰かに自分という存在を“見て”欲しいということ
こういった部分だ。
前半語られる“女”の物語のエピソードは部分的に“男”のエピソードでもある。もちろん、妊娠や彼氏がいることは女の個別の物語だが、その他の部分に関しては男の話なのか女の話なのかをかなりボカシて展開させた。
しかし、前半の女を主軸にして展開される話が男の物語でもある、ということが理解されないと、この作品は後半出てくる男の存在が途端に薄くなり
「なにこれ?」となってしまう。
終盤、男が「僕には何もなかったから君になろうとした」的な発言をする。
ここだけを切り取って男を「自分には何もない男」(女のような悩みを共有していなかった人物)と取ってしまうと、かなり厳しくなる。なにせ男の「何もない」ということについては作中何も語っていないからだ。こう取ってしまうと、「その“何もない”ことをもっと突き詰めて話してくれよ」となる。
「僕には何もなかったから~」を補足すると「僕には君と同じような悩みがあったが、君のような劇的なことは何もなかった。劇的であれば、誰かに見てもらえるから僕は君なんだと思い込むようになった」という意図だったのだが、そこがうまく伝わっていない感じがする。
寄せられた感想を読むに、男と女のエピソードを混ぜ込んで解釈した人と、分離して解釈した人は半々だったのかな、という気がする。
前半の女を主軸にして展開される話が部分的に男の物語でもある
ということを伝えるために取った手法としては以下の通りだ
・女の回想を男と女でほぼ交互に読み進める
・女の一人称をところどころ“僕”に変えている
・男側での出来事が女や他の人物の台詞に反映される(あくまで、女の話は男の創作物だということの強調)
・男が「創作なんで、色々混ぜこんで書いてますけどね」と発言する
・男が「どこからが男でどこまでが女なのか分からなくなるくらい同じだったんだ」と言う旨の発言をする
・後半の男パートの女のシーンのリフレインで男に関することを抽出している
これらの手法である程度理解されると考えていたが、
男と女のエピソードを分離して考える人が一定数いた。
原因を考えるに・・
・ジェンダー差(特に妊娠・堕胎や仕事でのセクハラ・結婚問題)
の印象が強すぎた
・前半での男の印象が弱すぎた(脚本的にも演出的にも)
いまのとこ、この辺かなと思っている。
抜本的な解決法として、「どこまでが女の話でどこからが男の話なのか」を後半、記憶を取り戻しつつ語らせるということも考えていた。こうすれば、前半の女の話が部分的に男の話であったことが確実にわかる。
ただ、今回どうしてもこれをしたくなかった。
どこまでも、
「どこからが僕で、どこからが私」なのかがわからないように作りたかった。これは作者自身が抱える“現実に対する不信感”に直結する部分で
自分とう存在の揺らぎを最後まで明確にしたくなかったのだ。
どうすれば、この部分がうまくいったのか。
今後の創作の為にもいろんな人に話を聞きに行こうと思う。
そもそもどのように感じたのか、その上でどのようにすべきだったか・・・
4/3追記
WINGCUP講評会を受けて
改めて感じたことを追記。
男が女を取り込んだ原因に関して
『“何もない”から取り込んだ』
というのは、作者的には認知的不協和に陥った男が作り出した偽の原因(酸っぱい葡萄)で、
真の原因は
人一倍“ナニモノかでありたい(愛されたい)と思っていたにも関わらず、母から愛されていたという事実を知ったときに、それを受け入れきれずどこかで負い目に感じていたこと
そして、その事実を唯一の理解者のように感じていた女に話したことが女を殺してしまった(と思い込んだ)ということ
であり
それを表現したつもりだった。
まさにずっと問題にしていた男と女の関係性に迫る部分で
理性的にはそこを十分に伝えられる表現になっていなかったのだと理解してるし、そこを受け入れて改善すべきだと考えてる反面
感情的には、それは読み手の問題であって
作者としては傲慢にあればいいんだ
と叫んでる部分もある
しばらくは、このフワフワモヤモヤした
状態で過ごすことになりそうだなぁ