美しければ美しいほど
沖縄と日本本土の関係は非対称である。戦後、平和憲法を手に後者は経済成長を遂げたが、その間前者に米軍基地が集中した現実から目を背けてきたからだ。いや、高江のヘリパッド問題に見られるように、本土の人間が沖縄を直視せず、その声に耳を貸さないのは、今も変わらない。この歪な関係性は、いったいいつまで続くのだろうか。
埼玉県の「原爆の図丸木美術館」で「美しければ美しいほど」展が開催されている。沖縄県生まれのキュレーター、居原田遥が、まさしく沖縄の「声」に注目して企画した。展示の中心は、同じく沖縄県出身の嘉手苅志朗と埼玉県出身の川田淳による映像作品。それらに加えて、丸木夫妻の《沖縄戦の図》を所蔵する佐喜眞美術館の館長、佐喜真道夫が同作について解説した音声や、居原田と協力者の木村奈緒が沖縄の基地問題をめぐる各種の報道を検証したパネルも展示された。
事実、会場には、音声であれ文字であれ、さまざまな「声」が充満している。とりわけ本土の人間は耳が痛い。とはいえ本展のねらいは、沖縄の立場から沖縄と本土の非対称性を告発することではない。それは、沖縄の人間であれ本土の人間であれ、ともに共有しているはずの人間の想像力に強く働きかける点にある。
嘉手苅の作品《interlude》は、沖縄で活躍するジャズシンガー、与世山澄子の顔だけを映し出したもの。航空自衛隊那覇基地の周囲を走行する車内で、ジューン・クリスティによる同名曲を口ずさんでいるが、口元はフレームから外されているので、私たちの視線はおのずと彼女の眼に注がれる。その鋭い眼を時折染めるオレンジ色は、おそらく基地の照明だろう。そこはかつて米軍の空軍基地だったから、彼女のまなざしには米軍に占領され、返還後は日本本土に支配されている沖縄の哀しい歴史が映っているのかもしれない。
感覚の分断と再構成。あるいは視覚と聴覚の分裂から想像力への統合。本展に通底しているのは、そのような想像力の働かせ方である。
川田の《終わらない過去》が見せているのは、沖縄で戦没者の遺留品を捜索している国吉勇が発見した定規を、川田が遺族の元に届けようとした過程。音声の内容は映像とは無関係だが、だからこそ私たちは見えない現実を想像することを余儀なくされる。戦争の記憶を内包した定規をあくまでも直接手渡すことにこだわる国吉と川田の思いは、着払いで済まそうとする遺族のもとには、ついに届かない。双方を取り次ぐ役人の鈍感さにも怒りが募る。「定規」が象徴しているように、戦争という過去との埋めがたい距離感を目の当たりにするのである。
むろん両者の作品は沖縄と日本本土との非対称的な関係性を打ち砕くわけではない。だが少なくともそれを自明視して疑わない者に、感覚の裂け目の只中で、非対称な現実を想像させることはできる。来るべき未来は、その先に現れるのではないか。
初出:「沖縄タイムス」2017年3月22日18面
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