絵画の様式論(六)
「やるだけのことはやったのだ、留置場でそう思っただろう。ここまでやったのだからもう森山は自分が絵を描くことの免罪符を手にしたと言ってもよい」*1
美学校の前代表・今泉省彦は「集団蜘蛛」について回顧するなかで、裁判闘争に前後する森山安英の心情をこのように推し測った。この推察がどこまで真実を突いているのか、正確にはわからない。だが、森山の絵画を一瞥すれば、彼が今泉の言う「免罪符」を決して大上段に振りかざさなかったことだけは明らかである。むしろ、それをひそかに胸の奥にしたため、大切に抱えながら、ひとり、支持体と対峙していたにちがいない。なぜなら、そこには「集団蜘蛛」の狂乱的なハプニングとは真逆の、じつに理知的で誠実な思考のプロセスが伺えるからだ。破壊的で破滅的な反芸術パフォーマンスから内省的で思慮深い絵画へ──。その様式上の振り幅の大きさにこそ、余人を持って代えがたい、森山ならではの「様式」が潜んでいるのではあるまいか。
*1 今泉省彦「『集団蜘蛛』のこと」、照井康夫編『美術工作者の軌跡 今泉省彦遺稿集』海鳥社、2017年、p216
2018年に北九州市立美術館が開催した「森山安英 解体と再生」展は、森山が「集団蜘蛛」で表現をみずから解体した後、絵画をとおしてその再生を果たした長い軌跡を、絵画はもとより数々の写真や資料をもとに、ていねいに追った好企画であった。同館学芸員の小松健一郎によって整理された展示を見ていくと、「芸術の魔の手」を払いのけながら反芸術パフォーマンスを突き詰め、やがて「自死」を遂げた森山が、少しずつ絵画を描く自らを許していく過程を追体験できたほどだ。事実、菊畑茂久馬をはじめとした「九州派」の美術家や、中西夏之、高松次郎ら、反芸術パフォーマンスから絵画に回帰した美術家は少なくないが、森山が彼らと明確に一線を画しているのは、その贖罪の意識の濃度であるように思う。過激なラディカリズムを他の追随を許さないほど極限まで突き詰めたからこそ、森山は絵画にすんなり転向できるはずがなかった。芸術を否定したからこそ、論理的にも倫理的にも、そうやすやすと絵画を肯定することはできなかった。そうするには、それなりの手続きと段階を自らに課すことが、どうしても必要だった。
絵画の白紙還元──。その手続きと段階を要約するとすれば、こうなる。森山は絵画を再開するにあたり、80年代当時に流行していたニュー・ペインティングに相乗りすることはなかったし、あるいは「集団蜘蛛」以前に描いていた絵画を改めて継続するということもなかった。そうではなく、おそらく彼は「絵画とは何か?」という根源的な問いを自らに突きつけるところからはじめた。「集団蜘蛛」以後、芸術を放棄したはずなのに、なぜ絵画は自分をこれほどまでに惹きつけるのか。その魔術的な魅力の正体とは、いったい何なのか。これらの問いを真摯に検討するために、森山は絵画というメディウムを改めて分解したにちがいない。やや乱暴に要約すれば、絵画とは、平面の上に絵の具を添加したり浸潤させたりすることで色や線、かたちを表現する、きわめて人為的な行為である。ただ、この定義をもう少し踏み込んで分析するならば、支持体であれメディウムであれ、何かしらの特定の物質で構成されていることがたちまち判明する。すなわち絵画とは、事後的にさまざまな意味や効果が付与されることはあるにしても、何よりもまず物質の集合である。このもっとも基本的な原理に立ち返ることによって、森山は自らの絵画の道を再び歩み出したのだ。
たとえば最初のシリーズ《アルミナ頌》(1987-92)は、キャンバスの表面に砂やモデリングペーストで凸部を形成し、それらの上に銀色の絵の具を流し込んだもの。メタリックな表面と触覚的なマチエールがめざましい。ただ、方法としてはきわめて禁欲的である。絵の具を含んだ筆を支持体の上で振るうという描写の身ぶりは一切なく、森山の描写の大部分は重力、つまり自然の摂理に委ねられているからだ。後に森山はこの手法を発展させて、絵の具をある程度コントロールした《ファインダーレポート》(1994-95)というシリーズを手がけているが、それにしても、いわゆる「描写」という身ぶりとはほど遠い。支持体という物質に絵の具という別の物質が接着していることに違いはない。けれども、何かしらの具象的なイメージが現前化しているわけではないし、抽象的な秩序が視覚化されているわけでもない。見る者の視線に焼きつけられるのは、それゆえ、ただ表面の物質性なのだ。森山が志していたのは、本人の言葉を借りれば、「物質状絵画」ないしは「絵画状物質」、すなわち「オブジェとしての絵画」だった*2。
*2 「森山安英インタビュー」、『森山安英——解体と再生』grambooks、2018年、p218
興味深いのは、その後の展開過程である。絵画のタブラ・ラーサによって物質を基点にした森山は、その構成要素をひとつずつ取り戻してゆく。続く《光ノ表面トシテノ銀色》(1991-93)では光や視覚を、《ストロボインプレッション》(1996-97)や《レンズの相克》(1996)では輪郭や形態を、そして《非在のオブジェ》(1997-98、2001)ではついに脳裏のイメージを現前化する、つまり描画することに挑んだ。ここにおいて森山は、わたしたちが通常意味する、絵を描くという身ぶりをようやく身につけたと言ってよい。事実、《非在のオブジェ》以後の森山は、絵画がどんな要素によって構成されているかを検討する段階から、どんな絵画を描くべきかを考察する段階へ移行する。《光/遠近法ニヨル連作》(2002-08)では線遠近法を、《水辺にて》(2008-10)や《幸福の容器》(2011-13)では具象性を、そして《窓》(2013-17)では抽象性を、それぞれていねいに取り込んだ。森山にとっての絵画のタブラ・ラーサを絵画のオーバーホールと言い換えれば、《非在のオブジェ》より前を「分解期」、それより後を「再構成期」と整理することもできよう。
同展で初めて披露された森山絵画の変遷を目の当たりにすると、その過程が文字どおり「手続きと段階」だったことがよくわかる。また、同展を見ていなくとも、森山がその過程をゆっくりと、しかし確実に踏破してきたことは、彼が費やした時間の長さを知ればたちまち理解できるにちがいない。絵画を再開した1988年から転機としての《非在のオブジェ》までに限っても、10年あまり。さらに現在のところの最新作である《窓51(石内都)写真集『ひろしま』による引用》(2017)まで含めると、じつに29年に及ぶ。先に、森山の絵画は「内省的で思慮深」く、また「理知的で誠実な思考のプロセス」に貫かれていると書いたが、この果てしなく長大な時間の厚みを考えると、堅実というよりむしろ臆病と言ってもいいほど、慎重に慎重を重ねる森山の繊細な心情が伺えるのだ。いや、より正確に言えば、繊細というより生真面目というべきなのかもしれない。森山は尋常ではないほど生真面目だからこそ、絵画をラーニングする道のりを一歩ずつ地道に歩んできたのであるし、また、反芸術パフォーマンスにしても、その反芸術性を誰よりも真摯に追究したのだ。人糞を詰めたマッチ箱を商店街で道行く人びとに配ったのも、悪ふざけというより、きっと文字どおり糞真面目だったからにちがいない。
ただ、それにしてもなぜ森山は表現の再起を図るうえで「オブジェとしての絵画」を選択したのだろうか。それが絵画を再開するうえで絶対に必要だったことはすでに見た。だが、なぜ絶対だったのか。森山が圧倒的に生真面目であることは事実だとしても、なぜ回帰の先が物質でなければならなかったのだろうか──。
権力論やセクシュアリティの研究で知られるミシェル・フーコーは、マネの絵画の特徴を物質性に求めた上で、それを「オブジェとしての絵画」と評している*4。
マネが行ったことは(少なくとも、それがマネによって西洋絵画にもたらされた変化の重要な側面のひとつだと思うのですが)、いわば、タブローに表象されているものの内部において、絵画そして絵画の伝統がそれまでかわし、覆い隠すことを使命としていた、キャンヴァスの物質的特性、性質、そして限界を再び出現させたということなのです*5。
ルネサンス以後──フーコーの言い方にならえば、クアトロチェント以来──、西洋絵画は二次元の平面の上に三次元の世界を表象してきたが、それが平面という物質に由来しているという厳然たる事実をつねに忘却させていた。この伝統から反逆的に逸脱したのがマネである。たとえば、キャンヴァスは縦糸と横糸で構成される布地だが、フーコーによれば、マネの絵画においては画面の中でその構成が繰り返されているという。縦糸は垂直性として横糸は水平性として描写される一方、空間的な広がりを錯視させる奥行き感は可能な限り消去されている。それゆえ当然、マネの絵画には平面性が突出して表されているように見えるのだが、フーコーはむしろ物質性の強調こそがマネの絵画的核心であると指摘する。
*4 ミシェル・フーコー『マネの絵画』ちくま学芸文庫、2019年、p80
*5 フーコー前掲書、p28
現代美術の歴史が証明しているように、物質性は平面性や概念(ないしは観念)と並ぶ、現代美術にとって決して欠かすことのできない主要な構成要素のひとつである。「もの派」や「ポスト・プロダクト」というカテゴリーを見れば、物質性が現代美術の歴史を構成する座標軸としてかつても今も機能しているのがわかるだろう。物質に物心崇拝的に拘泥するにせよ、概念や参加を目指して物質から離脱するにせよ、あるいは物質を関係性の網の目の中に溶け込ませてとらえるにせよ、物質は現代美術の原点のひとつだった。
森山安英が表現の再起を「オブジェとしての絵画」に賭けたのは、絵画を再開するにあたって絵画の物質的条件に回帰する必要性があっただけでなく、現代美術の原点にも立ち返る必要性に迫られたからではなかったか。なぜなら、多くの絵描きたちと同じように、森山にとって絵画とはひじょうに特権的な表現形式ではあるが、同時に、多くの絵描きたちは認めていないとはいえ、「集団蜘蛛」のような反芸術パフォーマンスもまた、表現の一部であり、その総体こそが現代美術にほかならないと考えていたにちがいないからだ。したがって、「集団蜘蛛」で表現のラディカリズムを極限まで追究した森山が、絵画の究極的な条件である物質に立ち返ることは、論理的に完全に整合していた。前者と後者は相反する二極のように見えるが、表現という地平で両者をとらえるならば、その極限においては、じつはメビウスの輪のようにねじれながら連続している。その先端に到達したからこそ、否定の否定という実践を肯定に反転させることができたとも考えられよう*6。反芸術パフォーマンスという様式を内側から突き抜け、やがて身も心もボロボロになるまで燃え尽きた森山は、同じように絵画の内側の物質から再開することで不死鳥のように甦った。その前人未踏の道のりは、宇宙の果てに向かってまっすぐに伸びているが、じつはわたしたちが立つ足元につながっている。不可能を可能にする強靱な還元主義こそ、森山の「様式」にほかならない。
*6 福住廉「森山安英(集団蜘蛛)展覧会」オープニングイベントスペシャルトーク(GALLERY SOAP、2017年5月13日)
森山安英──解体と再生
会期:2018年5月19日~7月1日
会場:北九州市立美術館本館