会話が自ら歩き出す
合同会社逍遥学派の共同代表をしています。
福崎です。
日常に雑談をおくというプログラムをやります。
雑談の時間が面白くて、もっと日常にあったらいいじゃない?でも意外とオンラインだと目的とか時間が決まっててやりづらいよね。というところから企画が生まれたのですが、
プロジェクトメンバーの記事を読んでいたら詳しく背景が書かれていたので、
僕は雑談をどう捉えているかについて考えている記事を書きます。
メンバーの。
場が考える
共話という言葉は、ドミニク・チェンさんの『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』で初めて知りました。
その後対話と比較する形で以下の図が示されます。
「発話の主体が曖昧になる」「互いの主体性が交わる」
というところがとても重要だと思っていて、つまり雑談とは自分が考えるのではなく、場が考えるようなコミュニケーションのありようなのではないかと思うのです。
場が考える、というのは福崎の身体的な感覚です。場で考えるのであれば、例えばファシリテーターがいたり、フレームワークがあったりするのかなと思いますが、雑談は基本そうした作法がありません。(共話的なことが起こるための空気感はありそう)
過剰に脱線し続けた先に突然出口が見える
作法がないので、話題は簡単に着地しません。なんとなく話し始めたテーマがあったとして、そこから脱線することばかりになります。でも、その脱線を話の本筋にもどず、さらに脱線させる・・・ということをひたすら重ね続けることになります。ここでビビらないことが重要です!
何を話していたか忘れるほどに、とんでもないところへと飛んでいきますが、それらは伏線になります。閾値までいくと創発し急にはじめのテーマに紐づいてきます。
そうした当初思いもよらなかった結論に辿り着いてしまう。
雑談とはそんなものなのではないかと思うのです。そして閾値まで辿り着くには日を跨ぐこともあります。
会話が自ら歩き出す
大学時代に教わった中島先生の文章がまさに・・・と感じていて引用しました。有料部分にもう少し核心に迫ることが書いてあるのですが、今回は冒頭を。
これは自分も何かを作ることに自分自身に起こっていることだと感じているのですが、雑談の場でも近いことが起こっていると感じているのです。
何か結論を出すための会話ではなく、結論を手放しながら、どこにいくかわからず、「会話」自体が歩き出してしまい、その「会話」にエネルギーを与えるようにして話者が話題を重ねていく。
これが雑談の時に自分が感じている、場が考える感覚、言い換えれば会話が自ら歩き出す感覚です。
こういう時間は関係性や余裕があってこそ生まれると思いますが、
今回は実験的にそれらがあまりない場でもできないだろうか・・・という試みになります。
プレイベントは来週の12/18(水)の19:30〜21:30。ここでは雑談が生まれるのかを実験します。
そして来年は8ヶ月間、毎月1回集まって雑談をする場を作ろうと企画しています。
どうぞご参加いただけると嬉しいです。