望郷の宇久島讃歌(23)

第2章 宇久島紀行

5月17日――宇久島の人たちとの出会い

●浜方ふれあい館訪問
この日の早朝の船便で竜口氏は島を離れた。私は宮崎氏と川端氏と一緒に竜口氏を桟橋で見送った。一期一会の出会いかも知れないが百年の知己を得たような気持ちになった。

今日最初の訪問先となる浜方ふれあい館は、平の町の中にあり、 海士(あまんし)の歴史をはじめ、捕鯨文化、そしてサザエなどの缶詰を製造していた宮﨑缶詰所などの産業の歴史を、「見て、聞いて、感じる」ことができる島唯一の体験型観光施設である。海士が使っていた道具や当時獲れた巨大なアワビの殻などの展示を通して海士の歴史に触れることができ、さらに鯨のヒゲや捕鯨船の模型など宇久島の捕鯨文化も理解できる。

私たちの訪問に合わせ、捕鯨船の砲手だった松阪潔氏(私と同年)がわざわざ浜方ふれあい館おいでになり、捕鯨やアワビ捕りの話をしてくれた。松阪氏のご尊父は宇久島で史上ナンバーワンのアワビ捕りの名人だったそうだ。

展示された写真を見るに、松坂氏のお父様(故人)は真っ黒に日焼けしたいかつい「熊」のような大丈夫だ。こんな体格の人だからこそ過酷な潜水を続けることができたのだろう。生涯5トン余のアワビを採取した記録が残されていた。

松坂氏は「中学を出たら一刻も早く仕事について覚える――というのが漁師の子弟の鉄則で、高校進学など念頭になかった。最初は、捕鯨船の飯炊きから始め、その後苦労して砲手に上り詰めた」と話された。松坂氏は背が高く男前で精悍な相貌でまさしく「宇久島男児」という印象だった。捕鯨船団の成果を左右する砲手だった面影が今も残っていた。

大洋漁業やニッスイの捕鯨船団のキャッチャーボートの砲手が宇久島から多数輩出したのは、山田紋九郎の鯨捕りの歴史があり、島民のDNA中にそれが残されていたからではないだろうか。

●島興しのリーダー達との面談
 島興しに取り組んでいる商店主の宮家邦夫氏と旅館主の井野耕治氏と面談した。半世紀以上も前に故郷を出た私に島興しのリーダー達が会ってくれるとは夢にも思っていなかった。このような機会を恵まれることに内心驚き、感謝した。これもミカエル様のお導きだろうと思った。

当初は、宮﨑泰三氏のアレンジで宮家氏が経営しているコンビニを訪問した。私はコンビニで、その夕方に予定している陸上自衛隊水陸機動団の慰問のために、宇久島の芋焼酎「城ヶ岳」」を買う目的もあった。お店で偶然に宮家氏のお母様にお目にかかった。有難いことに、お母様は私の本の愛読者だった。忙しい宮家氏とは挨拶を交わすだけの予定だったが、期せずして島の将来が話題になった。すると邦夫氏が「私の同志が近くにいますので一緒に来て島興しについてのご相談に応じていただけないですか」と言われた。

案内されて行った先は井野旅館だった。そこには井野恒司氏がおられ、膝ずくめで島興しについて語り合った。

井野氏がこう言われた。

「今日午前中に宇久小学校の全児童が校庭で22日に予定されている運動会のためにソーラン節の踊りを練習していました。全校生徒数はたったの23人ですよ。これを見ていると島は急速に人口が減少することを実感しました。今のうちにこの島を興す術を考え実践することが大事だと思います。有志とそのことについて語り合い、実行しようと思います」

私も井野氏に応じた。「日本には7000近い島がありますが、そのうち人が住んでいるのは200足らずです。いずこも少子高齢化が進み限界集落ならぬ〝限界離島〟になるのは時間の問題でしょう。私も今書いている小説『宇久島奇譚』で宇久を世に広めようと思い立ちました。水木しげる氏が『ゲゲゲの鬼太郎』で境港市を有名にしたように。その取材のため、今回宇久島に来ました。この本が出版され、島興しにつながれば、と思う次第です。宇久島出身者として、大恩のあるこの島に何かお役に立ちたいと考えていたところです。私もお仲間の端に加えていただきたいものです。

今、陸上自衛隊の水陸機動団が宇久島に上陸演習に来ております。自衛隊OBとして、宇久島と自衛隊との繋がりを深めることを模索してみたいと思います。富士演習場に米海兵隊の演習管理部隊が配置されているように、できれば、陸上自衛隊の演習場管理部隊を宇久島に配備することを関係者に打診してみたいと思います。また、戦略的に見て宇久島は朝鮮半島有事には重要な防衛拠点になる島です。小値賀(県営空港跡あり)と共に我が国防衛の最前線になる重要な位置を占めます。中国の脅威が高まっている南西諸島のみならず、朝鮮半島経由の脅威に対処するためには宇久島を筆頭に五島・壱岐・対馬が重要になります。さらに言えば、アメリカの極東戦略上、米海軍佐世保基地は極めて重要であり、その防衛のためには宇久島を含む五島列島は重要な防衛線になります。宇久島には国策として自衛隊・施設の配備が必要だと思います。関係者に働きかけたいと思います」

これに対し、二人はこうも言われた。

「何卒よろしくお願い致します。日本一のメガソーラー事業が実質始まっており、旅館は工事関係者でほぼ満室です。また、空き家も買い占めが始まっています。こうなると、仮に島に移住しようと希望する者がいても、住むところが見つかりません。島民は、『メガソーラー事業は当初期待していたようなものではない。地権者と佐世保市にはメリットがあるが、宇久島全体の住民にはメリットが少ない』と思う人達も多いようです。メガソーラー事業は、宇久島の住民を分断しつつあります。
このように、宇久島は今、大きな岐路に差し掛かっています。福山さんも宇久島のOBとして、島の将来を一緒に考えていただきたい」

 私はそれまで自分は島からは疎外されていると思っていた。だが、それはまさに私の思い違い、僻みであった。私は、思いもかけず故郷・宇久島との関りを頂いた、という思いを新たにした。これを機に、「微力ながらお役に立ちたい」と思うようになった。私は「これもミカエル様のお導きに相違ない」と思わずにはいられなかった。

●宇久高校訪問
 前夜、あられ茶房で偶然に出会った宇久高校の平塚校長を同校に訪ねた。すべてのアレンジは宮﨑氏によるものだ。全生徒18人を19人の教職員で教育・指導しているとのこと。マンツーマンの教育だ。その成果は如実で、九州大学への進学者が出たほか就職でも立派な成果を挙げている由。

 校長曰く「私は島外の出身ですが、宇久島の人たちは礼儀正しいですね。良い伝統習慣が定着しています。少子化で生徒は減るのですが、このような良い環境を利用して、島外から生徒を募集する運動を展開しはじめました」。
 私は「及ばずながら、何かお役に立てれば嬉しいです。例えば、生徒たちのモティベーションや将来の進路などに役立つ講話など、必要があればインターネットで実施します」と校長に申し出た。

●水陸機動団慰問
 5月19日と20日に大浜海水浴場で上陸作戦を訓練するために来島していた水陸機動団の先遣部隊を慰問した。宮家氏から頂いた銘酒「城ケ岳」を差し入れた。広報班長の永翁3佐と谷口1尉に水陸機動団長の梨木陸将補に伝言(陳情)を依頼した。伝言の骨子以下の通り。

■宇久島は朝鮮半島有事などでは戦略的な要地。この島に部隊を配備することが必要だと思う。最小限、上陸演習を実施するための管理のための小規模部隊を配置していただけないか。さらにはイージスアショア――イージス弾道ミサイル防衛システムの陸上コンポーネント――の配備や対艦ミサイルなどの配備ができないか、検討をお願いしたい。

■島は少子高齢化で先行き不安。演習で訪れた水陸機動団の隊員達が島の活性化に一役買ってもらいたい。演習終了後、隊員に島の人達と触れ合い、お土産を買う機会を与えてほしい。

■将来永続的に訓練をするなら、協定を締結し、ウイン・ウインの関係ができないものか。島のインフラが老朽化すれば、それを整備するアシストができないか、ご検討願いたい。
 陸自OBの先輩として、厚かましいお願いかも知れないが、故郷の「島興し」について陳情することは許される範囲だと、勝手に解釈した。

●懇親会
 翌日は私を除いて早朝に島を離れる予定だ。宇久島ツアー一行の解散式の意味で懇親会を催した。会場は「おおきに」という居酒屋だ。青潮鮮魚店の中山代表と宇久島離島活性化協議会副会長の宮田氏が参加された。中山代表がイセエビ、アワビ、サザエ、オコゼ、イサキなどなど宇久島の海の幸を刺身にして提供して下さった。美味しい刺身を頂きながら聞いた中山代表の話はとても印象深かった。

〈自分は、父親から自分が物心つくころから繰り返し「お前は長男だから、親を最後まで見てもらわんといかんばい」と諭されていた。そんな訳で、一度は宇久島を離れて都会で働いていたが、父の言葉が頭から離れず、宇久に戻ってきた。

旅館と漁師を兼業しながら一度も島を離れず親の面倒を見てくれた弟には頭が上がらない。弟は、現在も私の鮮魚店に海の恵みの新鮮な魚を釣って提供してくれている。

数年前、弟と共に両親ともに見送ることができた。父親の葬儀の時に、漁師の皆さんが、涙を流しながら焼香を上げている様子をみて、父親がいかに皆様から慕われていたかが分かり、嬉しく、誇りに思った。自分もそうありたい〉

中山代表の言葉は私の胸に突き刺ささった。私も長男として両親を見るべき立場なのに、それが出来なかった。中山代表はさらに続けた。

〈宇久島では、相互に挨拶することを重んじ、小さい頃から「言葉に銭いらぬ」と教えられました。また、親の意見を大事にする気風があり、「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」と指導されてきました。この意味は、ご承知の通り、「親が子どもに対する意見は一つとして無駄がなく、すべて役に立つことばかりだから、心して聞くべきだ」ということですね。私は、このことを親から徹底して教え込まれました。私たちの教育は、学校だけでなく、親の教えが大きなウエートを占めていました〉

私にとっても母の教えは貴いものだ。子供の頃、麦の土入れをしながら聞いた母の言葉は今も耳の底に残っている。「百までは人並み(あまり目立ちすぎるな)」や「実るほど頭を垂れる稲穂かな(立派な人ほど謙虚な姿勢である)」など、人としての在り方など、いわゆる修身の授業は母から農作業の合間に教えてもらった。中山代表は酒を飲みながらさらに続けた。

〈ひと昔前は、島民の生活を支えた主なものがアワビ漁でした。現在はそのアワビの収穫高が激減し、アワビ漁の後継者不足を嘆いている状況です。自分はアワビ捕りについては苦い思い出があります。自分が小学生の頃は、少しの小遣い銭稼ぎに、同級生と何人かで、海に潜ってアワビ漁をしていたところを漁師の大人に見つけられ、追いかけまわされてひどい目に遭いました。そんな思い出があるので、今さら後継者育成と言われてもそれに賛同する気がしません〉

子供の頃の苦い体験から、アワビ捕りの後継者育成には消極的だという中山氏の思いはよく分かる気がする。

〈宇久島はいつも公共事業ばかりやっています。宇久島ツアーで見られたとおり、農道を含む全ての道路も海岸もコンクリートなどで覆われています。港にはテトラポットの製作所とマリコン(海洋関係の土木工事・港湾施設・建築の建設工事を中心とする建設業者)の船があります。あれで波消しブロックを作っています。
福山さんは元自衛官だそうですが、週末には佐世保から来た水陸機動団の上陸演習があります。宇久島と自衛隊の結びつきが強まるのは島の活性化に役立ちそうに思えます〉

 農家の息子だった私にも、猫の目のように変わる政府の農政や農協の振興策などに両親が振り回されるのを目の当たりにした苦い記憶がある。葉タバコや福原オレンジの栽培、和牛の子牛生産など次々に奨励策が導入されたがどれも永続しなかった。宇久島の土地のスケールでは特産品を生み出すのは難しいのかも知れない。

宇久島では特産品が生産されないのをカバーするために、公共事業を行い、日雇い労働などで生計を支える構図があるのだろう。中山代表が「宇久島はいつも公共事業ばかりやっています。宇久島ツアーで見られたとおり、農道を含む全ての道路も海岸もコンクリートなどで覆われています」と言われたのがその証左だ。私が佐世保の高校に行けたのも父と母が土方をして貰った日銭が大いに役に立ったのだ。

●壽賀子姉ちゃんからの島めぐりのお誘い
懇親会が終わり宿に戻った。明日はいよいよ川端様、宮崎様、羅様は私を残して早朝に島を去り、私は一人になってしまう。そう思うと、なんだか寂しい気がした。そんな折、壽賀子姉ちゃんから電話があった。明日、私を島めぐりに車で案内してくれるというのだ。壽賀子姉ちゃんは私の母の叔母(私の祖母の妹)の長女で、私よりも一歳年上だった。子供の頃は同じ福浦部落に住んでおり、私は「壽賀子姉ちゃん」と呼んでいた。壽賀子姉ちゃんは宇久島の中心都市である平に嫁がれていた。

宇久島に帰りつくづく思ったのは、私自身が〝浦島太郎状態〟であることだ。世代交代が進み知っている人はほとんどいなかった。平で私が知っている人と言えば壽賀子姉ちゃんくらいだった。そんな壽賀子姉ちゃんから島めぐりをお誘いいただくなど思いもしないことだった。絶妙なタイミングでの壽賀子姉ちゃんからの島巡りのお誘いに、改めてミカエル様のお慈悲を思わずにはいられなかった。


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