ハーバード見聞録(32)
「ハーバード見聞録」のいわれ
本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
アメリカはなぜ超大国になれたのか(8月22日の稿)
1989年に冷戦構造が崩壊し、ソ連がロシアに変わる過程で、ウクライナやバルト三国などがソ連から離脱し、ロシアの国力が大幅に低下する中で、アメリカは相対的に従来にもまして世界の超大国として君臨するようになった。
アメリカが超大国になりえた要因はその政治、軍事力、経済力、資源、国土の広さ(日本の約25倍)、文化・教育・科学技術、人口など様々あり、これらを総合したものであろうが、真に超大国たる所以を一つだけに絞ればそれは軍事力だと思う。
アメリカの軍事力は、陸・海・空軍及び海兵隊が保有する「通常戦力」と呼ばれる「非核戦力」と「核戦力」により構成される。アメリカは「通常戦力」も「核戦力」も世界最強であることは異論の無いところであろう。
「通常戦力」と「核戦力」のいずれも世界最強であるとは言え、アメリカが超大国であるための重要な決め手は矢張り「核戦力」が他国を圧倒しているからだと思う。もし仮にロシアの「核戦力」がアメリカに勝っていれば、アメリカの「通常戦力」が優位であったとしても、軍事面では究極的にはロシアのほうが優位を占めることになると思われる。また逆に、もしロシアが「通常戦力」で勝っていたとしても、アメリカが「核戦力」で優位であれば究極的にはアメリカが戦略的に見て優位を占めることになると思われる。
アメリカの「核戦力」は「TRIAD」と呼ばれる核兵器の「三本柱」により成り立っており、これによる「核抑止体制」が構築されている。
「核抑止体制」とは、相手国(ソ連など)が核兵器で攻撃してきたらそれを上回る反撃(報復)が出来ることを相手に納得させ、相手に先制攻撃をさせないようにする仕組み(システム)である。もっと分かり易く言えば、相手が一発ビンタを叩いたら、こちらは三発もお返しできることを理解させ、相手に先に手を出させないやり方のことだ。
「核戦力」の「三本柱」とは
①地上配備の大陸間弾道ミサイル(ICBM: Intercontinental Ballistic Missile)
②海中配備の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM: Submarine-Lunched Ballistic Missile)③空中配備の戦略爆撃機搭載の空中発射巡航ミサイルのことを指す。このように陸上・海中・空中に分散することにより、万一ロシア(旧ソ連)や中国が奇襲的に先制核攻撃をしても、これから生き残って報復できるように配備していることが分かる。
因みに、「核戦力」の「三本柱」を保有している国はアメリカとロシアのほかには無い。中国はICBMとSLBM(目下開発中で、実戦配備されているのは原潜一隻分の10数基のみと見られる(2005年当時))はあるが、戦略爆撃機搭載の巡航ミサイルは保有していない。また、英国、フランスはSLBMのみで、ICBMと戦略爆撃機は保有していない。
アメリカの「三本柱」は、ICBM550基(ミニットマンⅢ型500基、ピースキーパー50基)、 SLBM432基(トライデントC-4型192基、トライデント D-5型240基がオハイオ級原子力潜水艦18隻に搭載)、戦略爆撃機114機(B-2:21機、B-52:93機)となっており、陸・海・空でバランスよく構成され、ロシア以下の核保有国を圧倒している。
しからば、アメリカはいかにして、他国を圧倒する核戦力を構築しえたのであろうか。私は、その最初の決め手は、第二次世界大戦中の核兵器(原子爆弾)開発のスタート段階において、ソ連、中国、日本、ドイツなどの他のライバル国の機先を制して、これらに先んじて僅か2年半程度で新兵器を開発し得たからだと思う。また、この原子爆弾開発成功の陰にはナチスドイツから逃れ、ナチスの恐怖を身を持って知るユダヤ系物理学者たちの形を変えた「ヘッドハンティング」による人材活用が少なからず貢献しているものと考える。
アメリカはこの核戦力の優位の座を守るため、巨額の予算を投じてその強化・拡充を推進し、ソ連に勝る「核戦力の三本柱(TRIAD)」構築してきたが、これについてもユダヤ人以外にも外国人の「ヘッドハンティング」が大いに役に立った経緯がある。
本稿においては、アメリカの核戦力の開発・発展に貢献した外国人について紹介したい。最初に、核(原子爆弾)開発に関する話から始めたい。
(出典:THE LOS ALAMOS PRIMIR(ロスアラモス入門書)、ROBERT SERBER著)
原子爆弾に直接繋がる「核分裂」についての発見をしたのはオーストリアのユダヤ人女性物理学者リセ・マイトナーとドイツの二人の化学者、オットー・ハーンとフリッツ・ストラウスマンであった。この発見は第二次世界大戦がヨーロッパで始まる僅か9ヶ月前の1938年末のクリスマスシーズン中であった。ドイツのハーンは「実験」により核分裂の証拠となる放射性物質を生み出したが、理論的な説明ができなかった。
ハーンと共同研究していたユダヤ人女性物理学者リセ・マイトナー(ナチを恐れドイツからスウェーデンに亡命していた)はハーンからそのことを手紙で知らせてもらい、甥で物理学者オットー・フリッシュの協力を得て「理論」によってそれぞれ「核分裂」により「入力エネルギーの五桁(1万倍)以上もの物凄い発熱現象」があることを突き止め、この反応を説明する理論を提唱した。それは世界の長い歴史の中で見たことも無い全く新しいエネルギー源であった。マイトナーとフリッシュは相談し、この現象を、生物学の細胞分裂(CELL DIVISION)などの用語をヒントに「核分裂(FISSION)」命名した。
後に、ハーンが発表した論文には、共同研究者のマイトナーの名前はなかった。マイトナーは当時のナチスの状況から、連名ではなかったことに対して理解を示していたという。
この新発見に対する関心は高く、日本はもとよりドイツ、アメリカ、ソ連、英国など各国は「核分裂」が新兵器に応用しうることに注目した。
最初ドイツで軍事応用の研究が始まった。1939年4月29日、ライヒ教育相が秘密会議を開き、開発計画を指導すると共に、ウランの輸出を禁止した。ドイツの計画は1942年に他の軍事研究に優先権を奪われ、日の目を見なかった。
日本もドイツとほぼ同時期に陸軍が軍事応用の研究を始めたが、研究の域を出ないものであった。
ソ連は1939年、物理学者イゴール・クルチャトフの進言で開発の必要性を認めるようになったが、1941年6月のドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)によりその研究は遅れたものの、1943年初頭からモスクワで控えめな研究が開始された。
イギリスは1939年に最初の精査を始めたが中止し、1940年初頭、物理学者のオットー・フリッシュなどからのメモランダムにより、再び本気になって取り組み始めた。
アメリカでは、ユダヤ人でハンガリーから亡命してきた物理学者のレオ・ジラードを中心に、ナチスドイツが原爆の開発を進めているものと確信し、ナチスが先んじて開発に成功すれば、核兵器を使って連合国側を打倒するかもしれないという極めて深刻な危惧を有しており、アメリカ政府にこの懸念を伝えることを決めた。レオ・ジラード、エドワード・テーラー、ユージン・ヴィグナーの三人は、当時既に有名だったアインシュタインからルーズベルト大統領宛の手紙(1939年11月11日付)という形で、ドイツの核開発の懸念について大統領に訴えた。
当初、ルーズベルトは関心を示さず、単に検討委員会を設ける程度であった。しかし、1941年、イギリスからユダヤ人物理学者オットー・フリッシュ(前述リセ・マイトナーの甥)とルドルフ・ペリルが書いた「核エネルギーの兵器応用のアイディア」を伝えられ(筆者注:チャーチルの指示によると思われる)、核兵器として実現の可能性が高いことを知ると、ルーズベルトは1942年6月、巨大国家プロジェクトとして研究に着手することを決断した。
このプロジェクトは「マンハッタン計画」と呼ばれ、1943年3月から本格的に着手され、ニューメキシコ州のロスアラモスに建てられた研究開発施設で、5000人を上回る要員(1945年8月の時点)と当時の価格で約20億ドルの巨費を投入し、約2年半で原子爆弾を開発した。1945年7月16日最初に核爆発実験が行われ、直後の8月6日に広島、9日に長崎に投下されたことはご承知の通りである。
このように、アメリカは、瀬戸際において、ドイツやソ連などの機先を制して核兵器(原子爆弾)の開発に成功した。このことがその後のソ連との核兵器開発・配備競争において優位を占める基を確立したものといえよう。
既に述べたように、アメリカの原子爆弾開発の契機(ルーズベルトの決断)となったのは米国に亡命してきたレオ・ジラードなどの手紙(アインシュタイン名)とオットー・フリッシュのメモランダムによるものと考えられる。
二人は、いずれもユダヤ系物理学者である。また、マンハッタン計画にはナチスに追われた多くの亡命ユダヤ人物理・科学者などが参加していた。これらユダヤ人たちは、原子爆弾開発がナチスドイツに先を越されると、ユダヤ人にとって壊滅的な結果をもたらすことを身にしみて自覚しており、ユダヤ人の生き残りを賭け、恐らく全身全霊で開発に尽力したことだったろう。
それにしても、1939年初め頃、核分裂による巨大なエネルギー放出が兵器に応用できる可能性が発見されたものの、いまだその実現性も確たるものではない段階で、ルーズベルトが開発を決断してから僅か3年足らずで原子爆弾を開発・使用したアメリカの底力を我々は忘れてはならないだろう。
このように見てくれば、アメリカの原子爆弾開発の成功の一部には亡命ユダヤ人物理学者などの「ヘッドハンティング」が功を奏したことが分かる。勿論「ヘッドハンティング」とは言っても、アメリカが積極的に行った訳ではないが、ナチスドイツによるユダヤ人迫害がこれを助けたのは勿論のことである。いずれにせよ、当時のアメリカの国家体制自体が、たくまずして、これら優秀なユダヤ人物理学者達を惹きつけつる力・魅力を持っていたのは確かであろう。このような形の人材獲得も「ヘッドハンティング」と呼べるのではないだろうか。
「ヘッドハンティング」と言えば、ミサイル開発の分野で、もう一人の重要な亡命外国人の存在を忘れることは出来ない。その人物こそ、ナチスドイツ下で中心となってV2ロケットなどを研究開発し、敗戦直後、意図的・計画的に500名もの部下を引き連れてアメリカに投降したフォン・ブラウン(1912~1977)であった。
フォン・ブラウンがロケット開発に情熱を燃やすようになったきっかけは、彼が5歳か6歳の頃、母親からキリスト教の堅信礼を受けた日に望遠鏡をプレゼントされた時から始まる。
フォン・ブラウンは、1060年、NASAがアラバマ州に新設したマーシャル宇宙飛行センターの初代所長(1960~1970)に就任した。マーシャル宇宙センターの最初の仕事は宇宙飛行士を月まで運ぶサターンロケットの開発であった。1969年7月16日、サターンロケットにより打ち上げられたアポロ11号の月面着陸成功により、フォン・ブラウンは少年時代からの宇宙旅行の夢を現実のものとした。
1957年ソ連はICBMの実験と世界初の人工衛星スプートニク1号の実験成功により、米ソのロケット技術を巡る開発競争が激化した。このような状況の中で、フォン・ブラウン指揮の下に開発したサターンロケットの成功は、アメリカのミサイル開発に大きな進展をもたらし、現在配備している核戦力の「三本柱」の二つICBM及びSLBMの技術開発にも多大の貢献をしたものと思われる。例えば、ミニットマン・ミサイルシステムの飛行コンピューターの設計は、アポロ計画の月面着陸船と司令船に使われているものと同様のものといわれている。
このようにフォン・ブラウンも自発的投降という形の「ヘッドハンティング」により、アメリカに来て、ソ連との核ミサイル開発競争に大きな功績を残したのは事実であろう。
日本人の中にもアメリカの核戦力開発に大きな貢献をされた方がおられる。それが、マサチューセッツ工科大学名誉教授の増淵興一博士(今年81歳)である。博士ご自身が「日本造船学会誌第875号(平成15年9月号)」に投稿された記事からその御功績の一端について紹介したい。
このように増淵博士は、既に述べたNASAのフォン・ブラウンが担当したサターンロケットの燃料・酸化剤の貯蔵タンクのブローホールの発生など解決するための任務を担当し、溶接という技術の面でサターンロケットの開発、引いてはアポロ11号の月面着陸、更にはそその延長としてICBMやSLBMの開発に多大の貢献をされたことが窺える。
更に筆者としては、増淵博士はサターンロケットの開発のみならず、アメリカ海軍のオハイオ級原子力潜水艦の開発にも貢献されたのではないかと推測している。
増淵博士は既述の「日本造船学会誌」に次のように書かれている(アンダーラインは筆者による)。
オハイオ級原子力潜水艦は、ソ連が開発した射程約8000キロのSS-N-8や射程約6500キロのSS-N-18などに対抗するため開発されたもので、一番艦は1979年に米海軍に引き渡される予定であったが1981年まで遅れた。その後、年一隻ずつのペースで配備され、当初24隻建造を予定していたが、冷戦終結の影響により18隻で打ち切りとなった。
増淵博士がMITの教授に就任されたのは1968年であるが、恐らくアメリカ海軍は既にこの頃からオハイオ級原子力潜水艦の開発に向け準備を始めていたものと思われる。そして増淵博士が「日本造船学会誌」の中で述べておられるように、アメリカ海軍が博士のスポンサーになって研究費を支給しており、博士の溶接技術に注目・期待していた事実が窺われる。
オハイオ級原子力潜水艦は、全長約170メートル、水中排水量18750トンで、SLBM24基(弾頭92発)を装備し潜航深度は300メートル程度といわれている。これほどの巨船が高速で水中300メートルの凄まじい水圧に耐えながら航行し、なおかつSLBMの水中発射の衝撃にも負けないだけの船体の強度を持たせるためには高度の溶接技術が求められるのは当然のことであろう。
博士がオハイオ級原子力潜水艦の開発に係わられたという記録は見当たらないし、ご自身も話されることはなかった。けだし、博士が、「造船学会誌」で「前述のサターン5号ロケットは非常に大きなものであったが、実はその他にも私が関係したものは多くあった。しかしその大部分は企業秘密であった。」と述べておられるように、アメリカ海軍の「秘密保護規定」により一切公表できないものと推測される。
筆者の推測が正しいと仮定すれば、増淵博博士は旧制成蹊高等学校の学生の時代、潜水艦設計の権威である穂積海軍技術少将の勧めで溶接の世界を志し、その後アメリカで当時の穂積少将と同様に世界最高水準の潜水艦の開発に係わられたことは実に不思議な巡り合わせと思われる。
博士がオハイオ級原子力潜水艦の溶接技術分野で貢献されたという私の推測が正しければ、博士はアメリカの「核戦力の三本柱(TRIAD)」のうちICBM(大陸間弾道ミサイル)とIRBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の「二本の柱」を強化・拡充するうえで大きな貢献をされたことになる。
我が国は日米安保条約により「アメリカが提供する『核の傘』」に入っていることを考えれば、増淵博士は日本の安全保障にとっても功労者に当るものと確信する。
なお増淵博士は、1992年アメリカ溶接学会に「増淵賞」を、また2000年にMITに「増淵基金」を設立され、溶接学会の後進に対する支援と日本の技術の世界への紹介などに力を注がれておられる。
先日、ボストン総領事館のレセプションで増淵博士と文子夫人に始めてお目にかかったが、お二人とも穏やかで、気品のある優しい方であった。一見して、今まで述べた赫々たる御業績を残された様子など微塵も感じられなかった。
このように日本との同盟国アメリカの核戦力の開発・発展は、アメリカの巨大な底力によることは申すまでも無いが、日本人、ユダヤ人、ドイツ人など外国人の優れた人材が活用されたことも見逃せないと思った。これこそが多民族国家アメリカの懐の深さの所産なのかも知れない。そしてこのような外国人の人材活用は軍事分野のみならず、多くの分野において、過去も今も最大限行われており、このことがアメリカのたゆまない活性化・発展に繋がっていることは間違いないことと確信した。
【後記】増渕博士は、2016年に、アメリカで、92歳でお亡くなりになった。改めてご博士の冥福をお祈りしたい。