望郷の宇久島讃歌(8)

第1章 望郷の宇久島

●鴨釣り ‐狩猟に格別の興味

小学校5年生の時の国語の教科書に『大造じいさんとガン』という題で、椋鳩十という動物作家が書いた作品・童話が載っていた。老いた猟師の大造じいさんと、じいさんが「残雪」と名付けたガンのリーダーの関り――いわば人と鳥との〝交流〟――を描いた作品であった。そのあらすじはこうだ。
 
〈大造じいさんは、栗野岳(鹿児島県姶良郡湧水町)の麓の沼地を狩場としてガンを猟銃で捕っていたが、翼に白い混じり毛を持つ「残雪」がガンの群れを率いるようになって、一羽の獲物も仕留められなくなっていた。

そこで、大造じいさんは手を変えて、ウナギ用の釣り針にタニシを付け、その紐を杭につないだ罠を仕掛け、初日に1羽を生け捕りにしたものの、後は無残にも一羽も捕れなかった。学習能力の高い「残雪」が仲間にタニシの丸呑みを禁じ、釣り針から引き抜いて食べるように教えたものと判断した大造じいさんは、その知恵に感嘆の唸りを上げる。

翌年、大造じいさんは夏から俵1杯のタニシをかき集めた。大造じいさんはタニシを撒き餌として、ガンの群れをおびき寄せて、隠れ小屋から狙い撃ちにする算段だったが、「残雪」に魂胆を見破られて失敗した。

3年目、大造じいさんは初年に捕らえたガンを囮にし、残雪の群れをおびき寄せることにした。決行当日、ガンの群れは、ハヤブサに襲われたが、「残雪」の機転で飛び去った。そして、逃げ遅れた大造じいさんの囮にハヤブサが襲い掛かった。あわやと思う刹那、健気な残雪は囮を救おうと舞い戻って来て、ハヤブサと戦う。

大造じいさんにとっては「残雪」を射止める絶好のチャンスが到来したが、何故か一度向けた銃口を下ろした。大造じいさんが、格闘する2羽に近づくとハヤブサは逃げたが、深手を負った「残雪」は血まみれのままじいさんを睨み据えていた。大造じいさんは、命を張って囮を助けようとした「残雪」にいたく感動した。

じいさん傷ついた「残雪」を保護することにした。そして、傷が癒えた残雪を放鳥する日を迎えた。じいさんは飛び立つ残雪を「ガンの英雄」と称えつつ、飛び去るまで見送った。〉


昭和22年生まれの私が物心ついたころは、大勢のアメリカ人が佐世保から船に乗って、宇久島に雉を撃ちにやって来ていた。私の村の近くの野や畑では、猟犬のポインターやセッターが走り回って薮の中から雉を追い出すと、アメリカ人が散弾銃で「ズドーン」と撃ち落とす様子を何度も見た。彼らが去った後には、赤や黄色の散弾銃の撃ち殻薬莢と虹のように美しい羽が落ちていた。撃ち殻薬莢を拾って鼻に当てると、独特な刺激臭がした。私は、この刺激臭までも雉猟の風景の一部として今も覚えている。
 
そんな体験からか、私は物心ついたころから狩猟に殊の外興味を持つようになった。だから、「大造じいさんとガン」の話は、教科書の勉強というよりも、趣味・興味の対象として、ことさら面白く読んだものだった。
 
それに加えて、偶然にも、小学5年生の時の担任の宮崎久巳先生が狩猟をされる方だった。先生は散弾銃2丁を持っている他、猟犬のポインターを飼っておられた。先生は授業の合間にも、鴨や雉などの習性や猟の様子などについて話してくれた。先生は私をとてもかわいがってくれ、時々雉や鳩撃ち猟に連れて行ってくれた。だから、宮崎先生の国語の授業で読んだ「大造じいさんとガン」の物語は僕にとっていっそう印象的で興味深く、何度も何度も繰り返し読んでは感動したものだ。
 
●宇久島と鴨
 
五島列島最北端に位置する宇久島には、冬になると数も種類も多くの鴨が渡って来た。島の東端に長崎鼻という名の岬がある。この岬の両側(南と北側)には「大浜」と「スゲ浜」という1キロメートルほども続く砂丘と砂浜が広がっており、宇久島の代表的な海水浴場・キャンプ地となっている。今日、この二つの砂丘や海浜から、縄文時代の鏃(やじり)が沢山出土している。なぜ鏃が見つかるのだろうか。その理由を想像逞しく考えてみた。
 
鴨は、夜間に島の川や沼地で餌を食べ、昼間は海浜や海上で憩う。おそらく、縄文時代当時には、この砂丘や海浜には何千羽もの鴨が羽を休めていたことだろう。「都合の良い状況」を表す言葉に、「鴨が葱を背負って来る」があるが、今も昔も鴨は人間にとって格好の獲物――美味しい食料――である。縄文時代の宇久島の住人達も、鴨は冬場の貴重なご馳走として狩りの対象になっていたことだろう。

縄文時代の鏃

鬚モジャモジャの縄文人の男達が、リーダーの合図で、灌木や砂丘の背後などに隠れながら「大浜」や「スゲ浜」の砂丘や海浜に憩う鴨の大群に向って一斉に忍び寄る。男たちは、あらかじめ定められた至近距離まで近づくと、リーダーの合図で弓を引き絞り、奇襲的に空中を目掛けて一斉に矢を放つ。男たちは、一羽一羽の鴨に狙いを定める必要はなく、鴨がひしめき合う群の中心に矢が落下するように勘案して、空中に向けて放て矢を放てばよいのだ。放たれた数十本の矢は弾道を描いて鴨の群れを目掛けて飛んでいく。
 
突然の矢の襲来に驚いた鴨達は「ガア、ガア」と鳴き騒ぎながら一斉に空に飛び上がる。きっと、空が暗くなるくらいの大群だったことだろう。そして、運の悪かった数羽だけが矢に当たって砂丘や海浜に取り残され、縄文人の食糧となったことだろう。たまたま、矢の先端から外れ落ちた鏃が永い時の流れの後、砂の中から発掘されるのだろう。いずれにせよ、島とは言っても、水鳥の好む湿地や干潟が比較的多い宇久島には、太古の昔から、冬になると鴨が沢山渡って来ていたのは事実であろう。
 
鴨は、昼間は人間、イタチ、猫や鷹などの敵から身を守るため、波の穏やかな入り江や海浜などで群を作って羽を休めている。夕方になると海上・浜を飛び立ち、島の水田や沼地に向かう。田圃の中に残っている落ち穂や雑草の種、さらには土の中に潜り込んで冬眠中のドジョウなどを食べるのだろう。
 
「鴨の敵は猫」と書いたが、これについて納得しかねる向きもあると思うので、実例を紹介しよう。私が、小学生のころ、我が家には「鴨捕り猫」と呼ばれる野良猫が居付いていた。この猫の名前は、夜の間に鴨を捕らえ、我が家に運んで来てくれたことに由来する。水の中に入るのを嫌う猫が、どうやって湿田の中にいる鴨を捕らえられるのか分らなかったが、とにかくこの猫が、我が家に時々最高の御馳走となる鴨をプレゼントしてくれていたのは事実だった。
 
 私が生まれた福浦集落には、島では珍しく広い水田が拓かれていた。福浦の「浦」の字の通り、昔は深い入り江(幅200メートル、奥行き1キロほど)があり、鯨が入り込むことがあったという。

江戸時代中頃、この入り江を干拓して福浦干拓地と呼ばれる水田が出来上がった。当時最先端の干拓技術として、入り江の入り口に潮止めのための大きな堤防を作り、この堤防の一部に「唐戸」と呼ばれる灌漑施設を取り付けた。「唐戸」は満ち潮になるとその水圧で閉じて潮の流入を封じ、引き潮になると福浦川の水を海に放出する仕掛けになっていた。これにより、福浦干拓地の水田は潮に浸かることも、福浦川の水に溺れることもない。
 
私の家は、福浦干拓地の水田の直ぐ側にあったが、夕方になると海の方から鴨が群をなして飛んできた。夕日が水平線に沈む頃、我が家の庭に出て薄明るい空を見上げていると、「ヒュッ、ヒュッ」と空気を切り裂く羽音が聞こえ、鴨の黒い影が数羽ずつ連れだって島の内奥方向に飛んでゆくのが見られたものだ。鴨は相当重い鳥だが、首をまっすぐに伸ばし、ジェット戦闘機のように編隊を組んで直線的に早いスピードで飛んで行くのだった。

私が小学校に上がる前までは、父の妹の茂子叔母が同居していた。茂子叔母は島の小学校の先生で、学校から帰ると私と一緒に童謡を歌ってくれたものだ。叔母が教えてくれた童謡の中の一つに「里の秋」があった。その歌の二番目はこんな歌詞だった。


明るい明るい 星の空
鳴き鳴き 夜鴨の渡る夜は
ああ とうさんのあの笑顔  
栗の実 食べてはおもいだす

 

「鳴き鳴き 夜鴨の渡る夜は」という歌詞は、冬の夜に我が家の上を、「ヒュッ、ヒュッ」と空気を切り裂く羽音を響かせて、鴨の群れが飛んでいく様子を見たことがある私には、よく理解できる情景だった。
 
この歌は、終戦直後の1948年(昭和23年)に童謡歌手の川田正子が歌い、日本コロムビアよりレコードが発売されたと聞く。この歌を叔母と共に歌っていると、終戦直後の、秋の静かな夜に、囲炉裏端で、兵士として南方戦線に出征した夫が無事に復員することを幼い娘と共に祈る母親の心情が、子供心にも、おぼろげながら分かるような気がした。
 
夕食後、夜も更けて、家族が囲炉裏端で団欒していると、すぐ近くの田圃の中から、「ガア、ガア、ガア」と鴨たちが鳴き騒ぐ声が聞こえたものだ。私は、家族との会話には気もそぞろで、鴨の様子が気になった。「あの賑やかな鳴き声は、運動会でもしているのか、あるいは、ご馳走がいっぱいあるので歓声を上げているんだろう。」と想像をたくましくしたものだ。
 
そんな騒がしい夜の翌朝、鴨たちの鳴き声がした田圃に行ってみると、鴨たちが〝運動会〟や〝宴会〟をした後の水田の水たまりはすっかり濁っており、あたりには水掻きの縁取りのある無数の足跡や白っぽい糞、あるいは抜けた羽毛などが散乱していた。当時の私は、この有様を見ただけで、昨夜の鴨たちの盛り上がった様子を鮮明にイメージできる不思議な能力があったような気がする。
 
●鴨釣りに挑戦 
ところで、「大造じいさんとガン」の物語の中には、大造じいさんがウナギ用の釣り針にタニシを餌に付けて雁を釣る場面が出てくる。「魚を釣るというなら分かるが、本当に鳥を釣るものだろうか?」と訝る向きもおられるだろう。実は、「鳥を釣る」というのは本当なのだ。私が生まれ育った宇久島でも鴨を釣り針で釣っていた。
 
小学校5年生の時だったろうか、私は鴨を釣ってやろうと思い立った。二つ年上の梅田和吉君のお父さんから仕掛けを教わった。梅田の伯父さんは、色々親切に教えてくれたが、最後に「鴨は頭のよか鳥ばい。そいじゃけん鴨よりの頭のよか人間しか釣りきらんとたい。人間が仕掛けたことを鴨が解らんようにせにゃならんとたい。たかちゃんは利口もんじゃけん釣れるかも知れんね」と励ましてくれた。私はその励ましが嬉しかった。そしてなんだか釣れそうな気がしてきた。
 
 鴨釣りの仕掛けについて話そう。当時、糸は漁網(刺し網)補修用のナイロン製の茶色い細い糸を使った。この糸は強くて柔らかいものだった。堅いナイロンの道糸だと、鴨が餌を口にくわえた時に、糸の存在に気付いて吐き出してしまう恐れがある。また、糸の色も、田圃の泥の色に似ており、カモフラージュになる。この糸を約2メートルほどの長さに切って使った。それ以上長くすると、鴨が釣り針にかかった際、十分な加速度をつけて飛び上がり、糸を切られてしまう恐れがある。
 
釣り針は鯛などの比較的大型の魚に用いる丈夫なものを使った。これらの仕掛けを、釣り竿の代わりに長さ50センチほどの杭に結びつけた。餌は、薩摩芋で、これを厚さ1センチくらい、一辺が1.5センチほどの菱形に切ったものを釣り針に付けた。
 
 ある寒い冬の夕方、私はこれらの仕掛けを持って、前夜、鴨達が大宴会を開いた跡が印された田圃に向かった。畔道伝いに田圃に入って行き、鴨たちが今夜も宴の食卓に選ぶと思しきあたりに、仕掛けを結びつけた杭を、稲の刈り株の側に、長靴で杭の頭が土の下10センチくらいまで踏み込んだ。そして更に杭の頭が刈り株の真下に来るように横に動かした。こうしておけば、杭は鴨からは見つからないし、鴨が針に掛かって、杭を引き抜こうとしても、杭の頭が刈り株に引っかかって抜けにくくなる。
 
釣針の付いた芋の餌は、鴨が見つけやすいように稲の刈り株の上に置き、釣り針が露出した部分や道糸は刈り株の中に隠れるように細工した。残りの道糸は、鴨が餌をくわえた時ピンと張って感づかれないように全体にたるみを持たせ、小枝などを使って、柔らかい泥の中に数ミリ埋め込んだ。釣り針の付いた本物の餌の周りには薩摩芋の細切れを〝撒き餌〟として散布した。最後の仕上げに、私の足跡を丁寧に消して元の状態に戻し、「完全犯罪」の手はずは整った。
 
 鴨釣りは、まるで探偵と知能犯の関係に似ていた。私は、何度も鴨=知能犯にしてやられた。警戒心が強く頭のいい鴨は、私の仕掛けを見破り、釣り針の付いた餌だけを残し、撒き餌は全部平らげる有様だった。何度も失敗を重ねたが、その度に教訓を得て、工夫を凝らし、私は知能犯攻略に執念を燃やした。
 
 そしてついに成功の時が訪れた。仕掛けた場所は、私の家から150メートルくらい離れた水田だった。毎朝目を覚ますと「今日こそは」と期待に胸をときめかせながら、仕掛けた場所がよく見えるタブの巨木の側の便所小屋(我が家の便所小屋はおも家から離れた所に建てられた瓦葺きの小さな小屋だった)付近から眺めたものだ。
 仕掛けて三日ほどは失望の朝が続いた。便所小屋から確かめるだけでは満足せず、福浦川の土手伝いに仕掛けのすぐ近くまで行って鴨が釣れていないかどうか確認する念の入れようであった。

鴨は、種類によって羽色が違う。マガモの雄は「青首」と呼ばれるが、名前の通り首の回りが虹の青色に似た美しい光沢がある羽毛に覆われ、胴体の部分には白い羽毛が生えているので、田んぼの中でも比較的見つけやすい。しかし、マガモの雌とカルガモ(雄も雌も)はいずれも枯れ草のような地味な色なので、便所小屋から見る距離では鴨の姿を見逃してしまう恐れがあった。

 仕掛けて四日目だったと思う。もう諦めかけていたその朝、例のごとく、便所小屋の側から、仕掛けた場所を眺めてみた。なんと、白い羽毛のようなものが散乱しているでなないか!「ひょっとしたら、鴨が掛ったとじゃなかろうか」一瞬胸が高鳴った。

 急いで家から駈けだし、田圃に向かった。近づいてみると、なんと、散乱した羽の真ん中あたりに、鴨が長い首を伸ばして、横たわっているではないか。鴨の嘴には仕掛けのナイロン製の茶色い糸が付いており、釣り針にかかったのは明らかだった。
 
全体の状況から判断して、鴨は前半夜に釣り針に掛かり、暴れまわっているところをイタチに襲われたようだった。無残にも胸の肉が少し食われており、その周りの羽が抜けて、一面に散乱しているのであった。羽には肉片が付いたり、血糊がへばりついたものもあった。そして、イタチの足跡がそこいら中に残されていた。
 

 島には、肉食獣としては、飼い犬や猫を除けば、イタチのみで、狐の狸もいなかった。イタチは、島の中では我が物顔に振る舞っていた。時々我が家の鶏を襲いにやって来た。これを防ぐため、アワビの貝殻を、鶏小屋の周りに何個も吊るしたものだ。貝殻の内側が、キラキラ輝くのをイタチが恐れるのだと聞いた。
 
その昔、魚を釣って籠に入れ、暗い夜道を急いでいると、数匹のイタチが「チャッ、チャッ」と鳴きながら迫ってきたり、更に多くのイタチが「イタチのピラミッド」(島民はこれを「ネコダマキ」と呼んだ)を作って行く手を遮り、人を驚かせたと、祖母が囲炉裏の側で語ってくれた。
 
 鴨を取り上げてみると、目をしっかりと閉じ、冷たく固くなっていた。釣れた鴨の種類はカルガモではなかったろうか。かなり大型でズッシリと重かった。羽の色は褐色で大きさから見てオスのようだった。羽には、油がたっぷり塗りこめられ、水掻きは黄色で、足は思ったより細く、鶏のそれより貧弱だったのを覚えている。
 
 遂に私は、自分一人の工夫と努力、試行錯誤の末に、知恵のある獲物=鴨を手に入れることができた。これは、受け身で学習する学校の勉強よりも、より現実的な学習――目的・目標を達成するための自分自身が見つけるアプローチを学ぶ――になったのではないかと思う。陸上自衛隊の幹部となり、〝お家芸〟となる戦術を学んだが、その基本は「鴨釣り」に似ていた。私にとって、戦術は、自由意志を持った「鴨」を「敵軍」に置き換えればよかった。
 
私は、遂に鴨を釣ることが出来た嬉しさを堪えきれず、同様に仕掛けを見回りに来ていた仲間に「オーイ鴨ば釣ったよ」と大声で叫び、頭上に高々と鴨を揚げて見せた。我が家に持ち帰り、祖父母、父母、兄妹にも見せた。「大したもんたい。」と皆が誉めてくれた。弟の博と妹の静子は珍しげに鴨に触れ、兄の実力を認めてくれた。私は、それでも満足できず、鴨を教科書と一緒に鞄に入れて、学校にまで持
って行った。級友のみならず先生にまでも報告せずにはいられなかった。


  当時、村では、肉と言えば魚肉や塩鯨のほかには、たまに鶏をつぶして食べるぐらいだったから、鴨は珍しい御馳走だった。その夜は、ネギや白菜のどの野菜と一緒にすき焼きにして家中で食べた。その後も何羽か釣れたが、最初の時ほどの感激はなかった。
 

 佐世保の高校に入学するために島を出て以来、鴨は私の周りから遠ざかった。だが、陸上自衛隊を退官して東京の練馬区にすむようになると、カモが身近に戻ってきた。鴨は目白同様にこの大都会・東京に沢山生息しているのだ。我が家の近くでは、石神井公園、井草森公園の池、妙正寺川などには年中カルガモが多数生息し、春から初夏にかけて雛を育てる風景が見られる。また、冬になるとオナガガモやコガモが北の方から渡ってくる。私は、子供の思い出を蘇らせながら、今も飽かずに鴨たちの姿を眺めている。しんしんと冷え込む冬の夜更けには、ふと、少年時代に聞いた鴨の鳴き声が聞こえてくるような気さえする。

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