望郷の宇久島讃歌(24)
第2章 宇久島紀行
18日――壽賀子姉ちゃんとの宇久島巡り
私は早朝に起きて、川端様、宮崎様、羅様の三人を桟橋で見送った。わざわざ私の宇久島取材に時間とお金を費やして同行して頂いたことに心から感謝した。
10時ころ、壽賀子姉ちゃんがホテルに迎えに来てくれた。壽賀子姉ちゃんの車で、16日の島巡り――時計回り――とは逆に、反時計回りに島めぐりを開始した。まずは、スゲ浜海水浴場に行った。有難いことに宇久島滞在中は連日の五月晴れだった。特にこの日は好天に恵まれた。私は折角の機会なので素足で砂を踏みしめたいと思った。壽賀子姉ちゃんと一緒に裸足で砂の上を歩きながら、桜貝を拾い集めた。孫たちへのお土産だ。童心に帰ったようで楽しかった。桜貝のみならずマキガイや砂までも拾ってビニール袋に入れた。孫たちに、ジイジのルーツである宇久島の砂を触らせたいと思った。
スゲ浜海水浴場を出発して、海岸沿いに約1キロメートル西に走ると、長崎鼻の突端に着いた。ここは宇久島の最西端にあたる。長崎鼻から海を越えて20~30キロの彼方には、平戸島と生月島が霞んで見えた。また、長崎鼻の北北東約2キロの沖合には古志岐島が見える。古志記島は、本瀬、ヘタの瀬、沖の瀬の3つの島から成り立っており、磯釣りのメッカとしても知 られている。宇久島と生月島・平戸島の間の五島灘――志々伎灘とも呼ばれる――の行路の安全のために、長崎鼻灯台と古志岐島灯台が設置されている。
古志岐島は拙著『宇久島奇談』にある通り、鯨が往来する道筋の上にある。古志岐島は、伝説に出てくる紋九郎鯨が南下した道筋の上にある。
紋九郎鯨の伝説とは、宇久島の鯨組(捕鯨組織)であった山田組は三代目の紋九郎の時に起こった大きな遭難事故のことだ。師走も押し迫ったある晩に、紋九郎の夢枕に立った子連れの鯨が「私は、これから大宝寺(五島の南の端にある弘法太師ゆかりの大きな寺)へ参るのだが、子供を連れているので、どうぞこのたびは見逃してください」と哀訴した。紋九郎は部下たちにそのことを告げ出漁を禁じたが、不漁続きで焦っていた配下の者たちは、山見小屋からの「古志岐島付近に鯨発見!」との報に接し、紋九郎のいうことも聞かずに鯨捕りに向かった。母子の鯨を網にかけ捕獲しようと懸命になっていた山田組の捕鯨船団は予期せぬ大嵐に遭い、72名の遭難死者を出した言われている。
長崎鼻の草原には和牛が放牧され草を食んでいた。昔、子供の頃には、私の家にも和牛がいて、学校から帰ったら、牛を引いて、1・5キロほどの山道を歩いて城ケ岳の麓の松林に連れて行き、その中で放牧したことを思い出した。私が携帯電話を宿に忘れてきたことが分かると、壽賀子姉ちゃんはわざわざ自分のカメラを貸してくれた。
壽賀子姉ちゃんが道すがら「宇久島には優れた方がたくさんおられて文化祭などで活躍されていますよ。絵画、手芸、書道、切り絵、ちぎり絵、花道、舞踊や太鼓、また学生のブラスバンドがすごいんですよ。ただ、現在では残念なことに子供の数が減少してしまい本当に寂しい宇久島になってしまいましたね」と言われた。少子高齢化の影響は島の文化活動などに暗い影を落としはじめている。
長崎鼻から1・5キロほどにある大浜海水浴場に向けて、岸沿いの道伝いに車を走らせた。途中、陸上自衛隊の水陸機動団の先遣部隊が大浜海水浴場北端の一角に大型の天幕を幾張りも展張して宿営準備をしていた。壽賀子姉ちゃんは大浜海水浴場を横断して、最北端にある100メートル程突き出た小さな岬で車を止めた。岬の頂きの野芝の広場の上で壽賀子姉ちゃんが持参しくれたリッチな昼食を頂いた。宇久島の海で捕れた最高の鮮魚を使った握り寿司がメインディッシュで、デザートとしてリンゴ、オレンジの果物に加え草餅とかんころ餅――サツマイモを薄く切って天日干しした〝かんころ〟とモチ米で作ったもちの一種――など心の籠ったご馳走だった。壽賀子姉ちゃんのご厚意に胸が熱くなった。
野芝の上で大浜海水浴場の白い砂浜と青い海を眺めながら頂くランチの味は最高だった。それは、もちろん壽賀子姉ちゃんのお陰であるが、私は、それに加え、大天使ミカエル様のお計らい、あるいはご先祖のお導きかもしれないと思い、感謝を捧げた。
贅沢なランチが終わると、大浜海水浴場の北方約2キロにある対馬瀬鼻(岬の名前、宇久島最北端)に向かった。対馬瀬鼻の先端付近には対馬瀬灯台が見えた。対馬瀬は、その名の通り、北方約100キロの海の彼方には対馬がある。行く先々で、壽賀子姉ちゃんが携帯電話で私のスナップ写真を撮ってくれた。
対馬瀬から海岸沿いの道路を約1キロ南方にある三浦神社に向かった。作日も眺望したが、三浦神社からもう一度乙女ノ鼻を眺めた。昨日も同じ景色を見たばかりだったが、今度は新たな発見があった。伝説では、乙女が身を投げた場所は乙女ノ鼻だったという話だが、前日見た限りでは身投げする場所がないと思った。
そこで、壽賀子姉ちゃんに頼んで、もう一度乙女ノ鼻に行ってみることにした。乙女ノ鼻を歩き回って調べたら、十分な高さの崖があることが分かった。三浦神社から見ればそれほど高くは見えないが、現場の崖の上に立ってみると、投身自殺するには十分な高さがあることが分かった。地名の通り、悲嘆にくれた乙女が身を投げたのはまさしく伝説の通りに、この乙女ノ鼻の崖の上からであったに違いないと思った。
乙女とヤマトの恋に思いをはせているうちに、私は〝もう一つの恋〟を思い出した。私が小学校5年生の終わりごろ、弟の博(当時3年生)の担任だった富田靖子先生が島を去るので、〝お別れ遠足〟と称して、私の担任の宮田久人先生の発案で、二人の先生と私たち兄弟の4人でここ三浦神社に来たことがある。その様子は、『宇久島奇談』でも紹介した。私と弟は、二人の先生の〝大人の時間〟を作るために小一時間付近の砂浜にハマボウフウを採りに行ったものだ。
私は〝時効〟だと思い、そのことを壽賀子姉ちゃんに話した。私が、「富田先生は別嬪さんだったですよね。子供心にも宮田先生と男女の恋があったのではないかと勘繰ったんです」と話した。すると、壽賀子姉ちゃんは、「宮田先生は男前で、当時6年生だった私達女の子たちは皆憧れていたとよ」という思わぬ話をしてくれた。あの頃、私たちは、まさに〝青春〟が始まる時だったのだと、二人で納得したものだ。
昨日と今日の二回にわたり島巡りをして感じたことがある。それは宇久島の自然環境が激変したことだ。宇久島は島の中央に聳える城ケ岳――標高258.6メートル、流紋岩系(デイサイト)の鐘状火山(トロイデ)――を中心に広がる火山島である。島ゆえに水田は限られ、私が子供のころまでは島中に段々畑が広がり麦や薩摩芋が栽培されていた。これらの畑は島民が何代にもわたり、長い年月をかけて、汗水たらして、営々と開墾したものであった。それが一転して、戦後の高度成長を機に島の人々の多くが仕事を求めて島外に去り、島の人口は減少した。その結果、農業をする人が激減し、畑作は放置され、自然の為すがままに廃れてしまった。耕作を放棄した畑は照葉樹に覆われ、今や島の景観は一変していた。昔は、今頃であれば、まさに麦秋の季節で、黄金色の麦が島中を覆っていたものだ。
島の環境変化について幾つか紹介しよう。些細なことかも知れないが、私が最初に気付いた変化は、雉の姿が見えなくなっていたことだ。宇久島は雉の楽園で、今時分は、「ケン・ケーン」という雄の鳴き声が島中で響き、雛を従えた雌があちこちで見られたものだ。それが、このたびの帰省中には、雉は一羽も見かけず、その声も一度も聞けなかった。芭蕉が父母の位牌をおさめた高野山に詣でた時に詠んだ「父母のしきりにこひし雉子の声」という句が、まさに私の心情にピタリと合うと思っていたが、雉のいない宇久島は淋しいものだった。
その原因だが、平戸などから30キロ余りの海を泳いで渡来したイノシシが増殖し、雉の卵や雛を根こそぎ平らげたからだ――というのが私の仮説である。もう一つの理由は、島が山林で覆われたからかもしれない。昔の宇久島は畑が多かった。雉は山鳥とは違って密林には棲めないのだ。雉には畑や野原が必要なのだ。
雉がいなくなったのとは対照的にウグイスが増えた。その時期、島巡りのBGM(Back Ground Music)はウグイスの鳴き声だった。雉には不向きの照葉樹の密林は、ウグイスにとってはパラダイスなのだろう。今はウグイスにとっては恋の季節、全島でオスの鳴き声のコンテストが繰り広げられていた。
このような景観の中で、壽賀子姉ちゃんは「ふるさとの 山のウグイス 凛凛と 乙女ノ鼻や またここかしこ」という一句を披露してくれた。全島で木霊するウグイスの声と照葉樹林の新緑に覆われた島の情景を的確にとらえた句で素晴らしいと思った。
島を一個の生命体と考えれば、長い長い歴史の中で、島は時代時代で相貌を変え、住む人もまるで芝居の役者のように世代交代していく――なぜか、私の心の中に、そんな感懐が湧いた。メガソーラーや風力・波力発電の工事・建設が進められようとしている。島民にとっては一大事であろう。メガソーラー建設のために山林が伐採され、宇久島の自然・景観が失われ、土石流などの発生により環境が脅かされるリスクがある。とはいえ、人を養うことができる産業がないまま、少子高齢化が進めば、島の将来は拓けない。宇久島の人たちは、どうすれば島の未来を拓き、次の世代にリレーすることができるのだろうか。皆が先細りを心配し、それを克服する「島興し」の策について模索している。
島を担う世代の方々のご苦労を思うと、この島で生を享けた私も他人事として知らんふりはできない。私も、今後の余生で、何かお役に立ちたいと思わずにはいられない。それは、一緒に帰郷した宮﨑泰三氏も同じ思いだ。「ミカエル様、どうか良き宇久島の未来が拓けますようにお導きください」と祈るばかりだ。
乙女ノ鼻を一緒に散策していた壽賀子姉ちゃんが、「たかちゃん、私は少し疲れたので、車の中で少し休憩してますね。折角の機会だからあなたは一人で乙女ノ鼻から眺める絶景を楽しんでちょうだい」といい残して駐車場の方に戻って行った。
私は一人で乙女ノ鼻の中央部付近の草の上に座り、ボンヤリと空を眺めてた。ふと気が付くと、驚くなかれ、ミカエル様と乙女さんが私のボンヤリした顔を見て笑いながらそばに座っていた。
「ミカエル様、乙女さん。これは驚きました。これは夢なのですね」
「フ・フ・フ・フ・フ。たかちゃん何を言っているのだ。夢なんかじゃないのだよ」
乙女が続けた。
「たかちゃん、すっかりお爺さんになったわね。たかちゃんがミカエル様と最初にここに来たのはまだ佐世保北高の生徒だった頃だものね。あの頃は、まだ初々しくて可愛かった。坊主頭だったけど、黒髪がしっかりと力強く生えていたものね。それがなんとこんなに禿げてしまって。人間とは本当にかわいそうね」
「乙女さん、そんなにからかわないで下さいよ」
「今度の里帰りの目的は何なのですか」
「主な目的は、ミカエル様がこの至らない私をお導きくださったことを記録にしておこうと思い立ち、昔の思い出を確かめるためです。ただ、島に帰ると少子高齢化が深刻なことが分かり、私は島のご恩に報いるために微々たる力しかありませんが島興しをお手伝いしようと思うようになりました」
「それはいいことね。ミカエル様もきっとお導きくださると思うわ。ねえ、ミカエル様」
「フ・フ・フ・フ・フ」
「私も及ばずながらお手伝いするわ。『三浦神社に参拝すれば良縁が見つかる。また、家族が幸せになる。恋人同士が結ばれる。』――と、こんな風に三浦神社の乙女の霊力をたかちゃんお得意の文章で宣伝して頂戴ね」
「はい、今のお言葉は有難く頂戴します。今、『宇久島奇談』という本の原稿を書いていますが、その中で紹介させて頂きます。」
乙女さんとの話の途中に突然「ピーヒョロヒョロ」という鳶の鳴き声が聞こえ、私は目を覚まし現実の世界に引き戻された。私は、草の上で微睡んでいたのだ。不思議なことだが、ミカエル様と乙女が座っていた場所の草にはその痕跡が明らかに残っていた。
私は「よいしょ」と声を出して立ち上がった。老いて足腰の衰えた私は、立ち上がる時に「よいしょ」と声を出すのが習わしとなってしまった。乙女ノ鼻を貫く一本の小道を壽賀子姉ちゃんが待つ駐車場に向かった。
乙女ノ鼻を後にして、5キロほど西にある火焚崎に向って車を走らせた。火焚埼に着くと壽賀子姉ちゃんは「私は車の中で待っているから、たかちゃん一人で行ってらっしゃい」と言うので、私は一人で火焚崎に向って歩いて行った。
そこには、火焚崎近くの宮の首集落の古賀勇吉氏が建立した「力の鐘・力の輪」があった。そのモニュメントを見ていると再びミカエル様が私の傍に現れた。
「アッ、これはミカエル様。またおいでいただきましたね」
「フ・フ・フ・フ・フ。私一人だけではないよ」
そうおっしゃって手を差し伸べると、そこには素盞嗚尊様とブハウォストス大佐が立っておられた。
ブハウォストス大佐が私の方に手を伸ばして握手を求めた。
「たかちゃん半世紀ぶりの再会だね。それにしても若かりし陸軍少尉も今ではお爺さんか!『歳月人を待たず』とはこのことだなあ」
「私の老いは当然ですが、大佐はちっとも変わりませんね。今では私よりも年下ですね」
「冥界に入ると老けないんだよ」
「アンナさんともう一人の安奈は今どこにいるのですか」
「アンナはアメリカのワシントンで、安奈もここ宮の首で疾うに亡くなったよ。今私は、いつでも二人に会えるよ」
「それは、大佐にとって良いことなのか悪いことなのか」
「良いことに決まっているじゃないか。それが人間の宿命・摂理なのだよ」
「大佐の今の心の拠り所は何ですか」
「それは、こうやって火焚崎に建てられた「力の鐘・力の輪」のモニュメントの場所から夕陽を眺めながら、故国のサンクトペテルブルクでの在りし日を思い出すことだ。地元宮の首出身の古賀勇吉氏が亡き父親の力氏を供養して建てたこのモニュメントは私にとっても鎮魂の場所になっているよ。
ただ残念なのは、プーチンがウクライナ侵攻をしたことだ。いつの世も、為政者の狂気で命を贖うのは兵士達だ。一日も早く停戦がなされることを祈っているよ」
素盞嗚尊様も言葉を発せられた。
「この度たかちゃんが宇久島に戻り、島興しを手伝うことを発願されたのは嬉しいことだ。神々もこぞって島興しを手伝うよ。自信をもって進んでくれ。島の人達にもそのように伝えてくれたまえ」
「素盞嗚尊様、島の再興のこと何卒よろしくお願い申し上げます」
この時、後ろの方から「たかちゃん」と呼ぶ壽賀子姉ちゃんの声が聞こえた。その瞬間、ミカエル様、素盞嗚尊様、ブハウォストス大佐の姿は消えた。私は急いで車の方に走り出した。
私たちが次に向かったのは、宇久ダムを経て神浦地区だった。私が子供の頃、神浦は平に次ぐ「都」で、様々な商店が並び栄えていた。それが、今では店もほとんどなく錆びれていた。栄枯盛衰という言葉は知っているが、何たる世の変わりようだろうか。神浦に住んでいた数十人のクラスメートは今いずこに。人生の寂寥をしみじみと味わう。
壽賀子姉ちゃんが運転する車は、私の母校・神浦中学校の前で止まってくれた。私が通っていたころの神浦中学校(昭和22年開校)は、満州で財を蓄えた郷土の先輩である神田藤兵衛翁が私財を投じて建ててくれた木造校舎だったが、今ある校舎は立派な鉄筋コンクリート製だった。
少子化のために、宇久島では繰り返し小・中学校の統廃合が行われたという。私が学んだ木造の神浦中学校は昭和41年には飯良中学校と統合した後、城ケ岳の麓の平古原に新築された校舎に移転した。それに伴い、神浦小学校、小浜小学校の二校が神浦小学校として統合され、神浦中学校跡の木造校舎に移転した。その木造校舎は昭和54年に火災で焼失し、翌55年にコンクリートの立派な校舎が落成したという。
それから36年後の平成28年には宇久小学校――島で唯一の小学校――に統合され、コンクリート製の立派な校舎は廃校となり今に至っているのだ。私は校内を巡回し、草ぼうぼうの校庭も歩いてみたが、私が中学生だった頃の木造校舎時代の面影は全くなかった。
啄木の「その昔. 小学校の柾屋根に.我が投げし鞠. いかにかなりけむ」という短歌が身につまされる思いだった。この廃校の校舎こそが宇久島の少子化を雄弁に物語る物証なのだろう。
神浦中学校の次は、すぐ近くにあるお寺だった。その寺とは我が家の檀那寺で、子供の頃は祖父母に連れられて昔足しげく通った日蓮宗の妙覚寺だった。カトリックに改宗した私はもはや信徒ではないが、懐かしく思い、訪ねた。玄関に行って声をかけたが誰もいなかった。本堂に入り先祖の霊に向かい手を合わせ、お賽銭をあげた。
子供の頃、この寺に通った折の記憶がよみがえった。当時、仏教は私の身近にあった。夕方は、家族で仏壇の前に座り、法華経を唱えた。小学校前に、私は経文を諳んじてしまった。私は小学校に上がる前は、祖父母が月に一度か二度はお寺に連れて行ってくれた。我が家の菩提寺の妙覚寺は、3キロほど離れた隣村の神浦にあった。
妙覚寺住職の小口上人は宗教画がとても上手で、本堂の壁には何枚もの恐ろしい地獄絵図が貼ってあった。当時、電気のない宇久島では、薄暗い本道の照明は蝋燭だった。蝋燭の灯りで見る地獄絵図は、子供の私には、この上もなく恐ろしい光景で、思わず祖母の懐に逃げ込んだものだ。
「たかちゃん、わーるかことばせればこの絵のごっ、地獄に落ちって、釜で煮られたり、針の山の上ば裸足で歩かされたり、血の池で溺れたりするとばい。そいけん、よーか子供にならんばいかとよ」と、祖母は言った。地獄絵図は、私の心に深く恐怖心を植えつけた。
地獄絵図の脅迫はこれだけでは済まなかった。小口和尚は、大人向けの読経・説法の後には子供達に紙芝居を見せた。紙芝居は地獄絵図を模倣した創作話だった。和尚の手にかかると、紙芝居は、地獄絵図を上回る恐ろしいものになった。だから、お寺から帰ると、怖さが募り、夜は一人で屋外の便所にも行けなかった。そんな記憶も、今は昔のことになってしまった。
お寺の後は、母の実家がある下山部落に向かった。最初に母の実家を訪れた。数年前に叔父が亡くなった後、残された叔母は広島に引き取られ、実家には誰もいない。無人の家には、鉢植えのアマリリスが一輪咲いていた。侘しいものだった。
その後、母の実家から50メートルほど離れた奥山千松君――小中学校同級生――の家を訪問した。奥山家は壽賀子姉ちゃんのお母様と私の母方の祖母の実家に当たる。壽賀子姉ちゃんと私にとってはいわばルーツなのだ。
千松君の家は素晴らしいたたずまいだった。奥様のすみ子さんがパッチワークの至芸を家中に展示し、まるで美術館のようだった。庭には様々な草花が植えられ、手入れが行き届いていた。
千松君が亡き御父上の万松(ばんしょう)氏が残されたという手書きに家系図を見せてくれた。万松氏は徴兵された折、軍の文書の書記を任されるくらい能筆の人だけに実に見事な家系図であった。驚いたことに、その中には私の祖母や母のみならず私の弟妹の名前まで克明に記されていた。ちなみに、千松君のご子息は九州大学医学部を卒業したのち、博士号を取得し、今は名古屋のある大学で教授を務めておられる由。
過疎化に因んで、千松君が面白い話をしてくれた。
〈今日からウニやサザエ捕りの解禁となる磯開きなので、夫婦で海中に入って頑張ったよ。この広い下山部落に割り当てられた磯に来てウニなどを採るのは全部で僅か4人だけだった。贅沢と言えば贅沢なことだ。昔であれば何十人も来てひしめき合うほどで、競争してとったものだが、今ではゆっくりマイペースでのんびりとウニやサザエを捕れるよ。ハ・ハ・ハ・ハ〉
千松君は捕れたばかりのトコブシの茹でたむき身を大皿に盛って進めてくれた。磯の香りのする絶品だった。帰り際に、すみ子夫人から100個ほどの桜貝と巨大なサザエの殻をお土産にいただいた。宇久島が一段と身近に感じた。
下山部落の最後の訪問先は、母の妹が嫁いだ磯谷の空き家だった。磯谷の叔父と叔母は老齢のために既に博多に引き取られ留守だった。入口も窓も板で塞いでいたがもう叔父叔母が帰ることもあるまい、と思った。
壽賀子姉ちゃんは車でホテルまで送ってくれた。二度目の島巡りも素晴らしいものだった。私が宇久島を身近に感じるうえで極めて意義のある旅だった。何よりも、ミカエル様、素盞嗚尊様、ブハウォストス大佐、乙女との再会が出来たことは嬉しかった。壽賀子姉ちゃんには心から感謝したい。
●廃屋の我が家を見る
壽賀子姉ちゃんから、ホテルに送ってもらったが、まだ一つ心残りがあった。私は廃屋となった実家を訪れたかった。日暮れまで3時間ほどあった。陸上自衛隊の普通科(歩兵)鍛えた葦ならば福浦部落まで30分もあれば行ける。すぐにホテルを出た。日差しが強いので熱射病予防に傘を持参した。
炎天下、強行軍で福浦部落の自宅に急行した。農道含むすべての道路国税で舗装され、崖の部分も立派にコンクリートの壁で覆われていた。離島振興法の威力だ。今の季節沿道には栴檀の木が紫色の花を咲かせ甘い香りを漂わせている。また、真っ黒に熟れた桑の実が枝もたわわだった。三木露風作詞・山田耕筰作曲の「赤とんぼ」の一節〈山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、いつの日か〉を思い出した。父の妹の茂子叔母がよく歌ってくれたものだ。子供の頃その甘い実を頬張った記憶が蘇り食べてみることにした。傘を開いて逆さまにし、桑の木を揺すると大量の実が集められた。その実を口に入れると、子供の頃の味わいだけでなく懐かしい母や叔母の面影までも胸中に湧いてきた。
往年の歩兵は30分ほどで福浦部落に着いた。村は廃屋が多くひっそりとしていた。突然、隣の家の川上正彦君に出会った。彼の父親にそっくりだと思った。挨拶をしたが、先方は私を判別できず、けげんな顔をしていた。私は「浦島太郎」であることを強く自覚した。
実家は健気にもその姿をとどめていた。窓ガラスの内側にもカズラが侵入していた。屋内が植物に侵略・占領されるのは時間の問題だと思った。家の裏手に移動しようと思ったが、草木が繁茂し叶わなかった。窓越しに見ていると、屋内に父母や祖父母がいて、その声が聞こえるような気がした。無常を感じ涙が止まらなかった。
実家の傍の福浦川に向かった。私が5歳の頃、橋の上から濁流の中に転落して溺死寸前に助けられた場所だ。昔は土と石垣の土手だったが、今では土手も川底までもすべてコンクリート化されていた。水田には土を入れて底上げし、潮が満ちても冠水しないように作り替えられていた。昔は「唐戸」と呼ばれる水門があり、満潮になると自動的に閉じる仕組みがあったが、田んぼの底上げをしたために「唐戸」は撤去されていた。田んぼには早苗が植えられていた。浜辺まで土手の上を歩き、昔のことを様々思い出した。昔伝馬船があったところには船は無かった。神浦や下山の港に係留しているのだろう。
子供の頃、この浜辺の土手で悲劇が起こったのを思い出した。村の子供達が土手の上と下の砂浜に分かれて手作りの弓矢で合戦ごっこをやっている最中の出来事だった。ある少年が土手の上から放った竹の矢が、不幸にも当時3年生の山辺義幸君の左目に突き刺さったのだった。村中上へ下への大騒ぎになった。義幸君は船で平戸市の隣にある田平町の病院に行ったが、可愛そうに失明した。風の便りに、義幸君は数年前に亡くなったと聞いた。
浜辺に向かう時は、川の土手の上を歩いたが、帰路は田んぼの傍の道路上を辿った。沿道には桜が植えられ実がたわわに熟していた。捥いで食べたら桑の実と同様に子供の頃に戻った気がした。
私の小中学校時代の竹馬の友で車両修理工場を経営する竹森長行君の自宅を訪れたが留守だった。福浦川に転落し、溺死するところを助けてくれたのは、彼の父親の八郎小父さんだった。竹森君に会えず残念。
ホテルへの帰路の帰路の途中、高校のクラスメートだった千田広志君(故人)の実家を訪ねた。お兄さんの稔氏は防大の先輩だ。千田兄弟には大変お世話になったものだ。例に漏れず千田家も空き家だった。入口の倉庫の中にはミツバチの巣箱がありハチがせわしく出入りしていた。誰かが養蜂をしているのだろう。空き家と養蜂というアンバランスの組み合わせ、これも過疎化の一コマか。
歩兵らしく自力で実家を訪れたが、宇久島への里帰りの締めくくりとして有意義な時間だった。