望郷の宇久島賛歌(1)

まえがき

文豪トルストイは、「幼年時代」という自伝小説で次のように書いている。
 
「しあわせな、しあわせな、二度とかえらぬ幼年時代!どうしてその思い出を愛し、いつくしまずにいられよう?その思い出は私の魂をさわやかにし、高め、私にとってこよないたのしみのみなもとになっている。」
 
 私にとっても、故郷の宇久島――五島列島最北端の島――で中学3年までを過ごした幼・少年時代の思い出は、トルストイと同様に、尊く愛おしいものだ。そんな私が、幼・少年時代の思い出を書いてみようと思い立ったのは、次のような経緯からだった。

私は30代後半、陸上自衛隊の最高司令部である陸上幕僚監部の防衛部防衛課で「中期防衛力整備計画」策定の激務の中で〝燃え尽き症候群〟に陥り挫折した。そんな時、誰が教えてくれたのかは思い出せないが、「自分の過去を振り返り、素直に自分史を書くことで心の歪みを治し、燃え尽き症候群を克服できる」と聞いた。

 私は、文章を書く術を知らないまま、藁にもすがる思いで、原稿用紙に向かって、頭の中に湧き出でる思い出を書き綴り始めた。島で育った幼・少年時代の思い出は鮮明に蘇った。宇久島は海に囲まれ他の地域と明瞭に隔てられているため、故郷の輪郭が判然としている。大袈裟に言えば、島全体の一木、一草、一石に至るまで往時の情景が蘇る程だ。また、私を中心に同心円状に広がる父母・弟妹・祖父母をはじめ村人や小中学校のクラスメートなどは、都会に比べて広がりが少なく、その限られた人々についての記憶は濃密だった。私は幼・少年時代の記憶のひとコマひとコマを丹念に印画紙に焼き付けるように回想録を綴った。

そんな執筆作業を通じ、当時、そこにある自分の原型――良し悪しは別として――は宇久島で育つ過程で形成されたことが自然に納得できるようになった。都会への劣等感や、田舎育ちゆえの人間関係の不器用さなどに行き詰まりを感じていた私は、幼・少年時代の思い出を綴るうちに、改めて自分という人間を育ててくれたのは、宇久島という天が与え給うた自然を舞台に、父母、祖父母をはじめ島に住む多くの人々であることを、感謝のうちに痛感した次第である。執筆作業を続けるうちに、当時の幸福な思い出に浸るとともに、瑞々しい心を取り戻すことができたような気がした。そして、いつの間にか、精神的な迷いの淵から抜け出すことができた。

私は、その思い出を綴ったメモを「椰子の実随想」と題してまとめた。宇久島出身の私には、自身の人生が、まるで藤村の詩「椰子の実」に詠われた海に漂う一個の椰子の実のように思えてならない。神浦中学校を卒業し、宇久島・平港の岸壁を離れ、九州・本州・北海道、果ては韓国やアメリカへと漂い、60年程の歳月が流れた。幾つになっても故郷・宇久島のことが頭から離れない。それどころか、望郷の思いは年ごとに募って行くような気さえする。死後は宇久島に散骨してもらい、島の土に戻ることを願うのみならず、宇久島を「我が墓標」にしたいとさえ考えている。

最近、故郷の宇久島では少子高齢化が加速度的に進んでいる。やがて無人島になることさえも危惧されている状況だ。2024年現在の島の人口は1800名ほどで、毎年数十名の高齢者が亡くなるという。人口減少の実例として、小学校の学童数を例にとれば、戦後、島の人口がピーク時(昭和35年、筆者が中学生の頃)には、島の地域ごとに大小5つの小学校があり、トータルで2011名の小学生がいた。それが今日では宇久小学校一校に統合され(4校は廃校)、生徒数は23名――ピーク時の約百分の一――に激減しているのだ。わが故郷・宇久島にとっては、島興しが喫緊の課題である。

私は、中学を卒業して島を出たために、事実上「故郷を捨てた」という贖罪意識・トラウマがある。故郷に対して、何も恩返しができなかったという〝負い目〟がある。年を取るにつれ、故郷の宇久島のために何かしたいと思うようになり、せめてもの恩返しとして宇久島にちなむ書籍などで「故郷を世に紹介したい」という情熱が湧いてきた。水木しげる氏が『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』などで鳥取県の境港市を世に広めたように。そのような目的で、一作目として『宇久島奇談』を世に出した。

その後も、宇久島にちなむエッセイを思いつくままに書いて、不定期にSNS(ソーシャル-ネットワーキング-サービス)に投稿している。『望郷の宇久島賛歌』は、いわば『宇久島奇談』の続編である。


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