望郷の宇久島讃歌(15)
第1章 望郷の宇久島
●虎蔵爺さん
母方の祖父の道下徳平は私が小学校に上がる前に亡くなった。徳平じいちゃんの思い出は二つある。一つ目の思い出は、私が4歳の頃だと思うが、徳平じいちゃんが私を抱き上げて農耕用の牛の背中に乗せてくれたことだ。牛の背中は広く、私の両足で牛の背中挟むことが出来ず、滑って落ちそうになるのを、じいちゃんが数十メートルにわたって支えてくれたのを、朧気ながら憶えている。
二つ目は、爺ちゃんが死んだ時の様子が微かに思い出される。私が後年聞いたことだが、じいちゃんは狭心症を患って死んだそうだ。私はじいちゃんの枕元に座らされた。母がじいちゃんの顔を覆った白い布を取り除けて、私に最後の対面をさせてくれた。じいちゃんの死に顔は覚えていないが、母が白布を取り除いた瞬間、じいちゃんの鼻から少量の鼻血がタラリ流れ出たのを今も覚えている。じいちゃんの死に顔を見て悲しいと思うよりも、不気味で怖いという思いの方が強かった、と思う。
じいちゃんは名前の通り、徳の備わった人で、村人から好かれたらしい。じいちゃんはまた、怪力の持ち主だったそうだ。母の話では、じいちゃんは伝馬船を背負ったことがあるという。徳平じいちゃんが早く亡くなったので、私は物心ついた以降、じいちゃんから可愛がられた記憶はない。
徳平じいちゃんに代わって私を可愛がってくれたのは祖父の兄の虎蔵じいさんだった。
当時、宇久島では、百姓の長男は家業を継ぐことが宿命だった。虎蔵じいさんは道下家の長男で、本来は百姓を継ぐ運命にあった。だが、虎蔵じいさんは宇久島で一生を百姓として埋もれてしまうのを嫌った。虎蔵じいさんは、ある夜、密かに伝馬船を漕ぎだして30キロほど離れた平戸島に出奔したそうだ。
平戸島に出奔した後の足取りは不明だが、虎蔵じいさんは最終的には東京に行ったそうだ。そこで見つけた仕事が潜水夫だった。虎蔵じいさんは宇久島で素潜りをしてアワビや魚を取っていたので、泳ぐことと潜ることに秀で、体力も抜群だった。そんな素地があったから潜水夫は最適の仕事だったに違いない。ただ、当時も今も、潜水夫は危険な仕事でもある。
虎蔵じいさんは、還暦を過ぎたころ、潜水夫を引退して宇久島に戻ってきた。私が小学校の4年生の頃のことだった。虎蔵じいさんの風貌も人となりもどことなく総理大臣になった田中角栄に似ていて迫力があった。虎蔵じいさんは、私を自分の本当の孫のように可愛がってくれた。虎蔵じいさんは、潜水夫という仕事について、繰り返し私に話してくれた。
「夜中に伝馬船を漕いで島から逃げ出したわしは、食うために色々な仕事をしたよ。学のない田舎者のわしが就けるのは〝きつい・きたない・あぶない〟仕事ばっかりだった。当時の仕事は、徒弟制度が厳格で、新入りで一番下っ端のわしは徹底的にこき使われたが、給料は安く、将来希望が持てるような仕事はなかった。
わしは、宇久島をいったん出た以上、島に逃げ帰る訳にはいかないから、どんな苦難にも耐えなければならなかった。わしは、どうせ苦労するからには、裸一貫、実力本位で、大金が稼げる仕事が欲しかった。それにピッタリの仕事が潜水夫だったんだ。わしは沈没船の引き揚げなどを行うあるサルベージ会社を見つけ、採用してもらった。このサルベージ会社はわしの願い――実力本位で、大金が稼げる仕事――に適うものだった。
当時の潜水夫は、実力本位で、大金が稼げる仕事ではあったが、その分、この上もなく危険な生業だった。潜水夫が水中で長時間作業をできるのは、水上の船からホースで空気を送ってもらうからである。潜水夫は、船上で潜水夫を支援する仲間たちとの協調・連携が重要である。このチーム仲間たちの支えがなければ潜水夫の仕事は上手くいかないし、命さえも危なくなる。
潜水作業中に起こる事故の原因で多いものは、器具の整備・点検不良だったよ。だから、安全に万全を期するためには、潜水する前には、自分で入念な器具の点検を行う必要があった。それを誤ると、死亡や大事故に繋がる。潜水夫は、深い海の中に潜って土木作業や溶接作業などをするわけだ。地上と違って、海流の流れが速く、視界も限定される海中での作業は大変だったよ。深海に潜ると景色が一変して、自分の位置がわからなくなることもあった。そのことが、命取りになる恐れもあるのだ。潜水夫は、沈着冷静、そしてち密で準備周到でなければならず、また、判断力に優れ、かつ勇気が必要な仕事だった。サルベージの作業をやるためには、溶接などの特殊な技能を身につける必要があったよ。
人間は万能ではないから、事故を100パーセント防ぐ手立てはない。最後は神頼みだった。わしは、潜水を開始する時、潜水中の作業時、常に「光明真言」を唱えることにしていた。「光明真言」とは真言密教でとなえる呪文(じゅもん)の一つで、こう唱える。
オン(唵)・アボキヤ (阿謨伽)・ベイロシヤノウ(尾盧左曩)・マカボダラ (摩訶母捺羅)・マニ (麽尼)・ハンドマ(鉢曇摩)・ジンバラ (忸婆羅)・ハラバリタヤ(波羅波利多耶)・ウン(吽)
わしは、この呪文をとなえたことで何度も事故を免れた。
わしが、たかちゃんに農作業をするときにテキパキと無駄なくやるように教えるのは、わしが潜水夫としての経験に基づくものだ。潜水夫の仕事は時間との勝負だ。だから、自分で判断して効率良くテキパキと仕事をこなす習慣が自然についたんだ。わしが指導したことがいつの日かたかちゃんの役に立つ時が必ず来るよ。
サルベージの仕事をする間の旅館での生活は贅沢三昧だった。当時、宇久島では米の飯を食うのは稀で、普段は麦飯と蒸かした芋だった。それが、サルベージの宿では、米の飯に肉や魚の御馳走ばかりだったよ。女中が御櫃にご飯を持って来るが、それを食べ残すと、お茶をぶっかけてしゃもじでかき回したものだ。なんでそうするのかって?そうしておけば、古い飯を温め直して出すことができないからだよ。当時はそんな悪戯をするくらいサルベージ仲間は荒くれものが多かったよ。何せ、命懸けの毎日だったからな。
わしは、他の潜水夫の誰もが潜れない程の深海に挑み、命懸けの仕事をした。潜水夫の仕事は危険度が増せば増すほど給料も増えた。わしはそうやって、大変な財をなしたよ。それは、命懸けの代償としては当然のことだった。
わしは夢がかない、宇久島では想像もできなかったほどの途方もない大金持ちになったんだよ。わしは、その金で政治家や高級官僚と付き合い、金を惜しまずに一緒に遊んだものだ。政治家には献金もした。わしは学も身分もない人間だが、金があった。彼等との付き合いは、ありていに言えば劣等感を満たすためだったと思う。
わしは、若い日本画家の後援者にもなった。道下の本家の家の床の間に飾っている「竹林の虎」の掛け軸はその人が書いたものだ。将来、彼が有名になれば、相当に値が付く逸品だと思うよ。あの絵は、今にも虎が「ウォー」と吠えて、こちらに向かって飛び掛かってくるのでは、と思わせるくらいの迫力があるだろう。
わしは、お前の祖母さんのミツや娘たち――たかちゃんの母の理絵、早苗、啓子――に和服やキツネの襟巻など宇久島では見たこともないような高価な品物を買って送ってやったよ。それが、徳平に家を継いで百姓をすることを押し付けてことに対する罪滅ぼしだと思ったものだ」
このように、虎蔵じいさんは、潜水夫としての様々な冒険談や、政治家・官僚などとの交流など田舎育ちの少年の私にとっては心躍るような物語を飽かずに話してくれたものだ。虎蔵爺さんの気宇壮大な話は、私の人格形成に大きな影響を及ぼしたものと思っている。
虎蔵じいさんはロシアのバルチック艦隊に関する興味深い話をしてくれた。
「わしが夢を果たせなかった仕事が一つだけある。それは、日露戦争の日本海海戦で撃沈されたロシア海軍のナヒーモフ号の引揚げが実現できなかったことだ。ナヒーモフ号はバルチック艦隊の軍費を賄うために1兆円近い額の金やプラチナなど貴金属のインゴット(鋳塊)を積んでいると言われておった。
ナヒーモフ号は、日本海海戦で、日本海軍の装甲巡洋艦に30発以上の命中弾を与えられて中破したのち、夜間には日本海軍の水雷艇から魚雷攻撃を受け大破炎上したが、応急処置によりしばらくは浮いていたが、被雷時の浸水と消火のために使用した海水で浮力を維持できなくなったために対馬沖まで向かい、そこで翌朝未明に自沈処分にされた。自沈した場所は対馬の東方、約3海里(約5.6キロメートル)沖合であった。600名余りの乗員のうち500名余は仮装巡洋艦「佐渡丸」に捕えられたが、100名ほどは対馬で捕虜となった。
ナヒーモフ号に財宝が積まれていたという話は、最初に、対馬の人たちの間で広まったと聞いておる。対馬に収容された100名ほどの捕虜の水兵は、対馬の人達から厚遇された。島民たちは水兵たちに対して、豊富な海の幸や米の飯などの食べ物はもとより、ビールや日本酒までもふるまって、手厚くもてなしたそうだ。
島の人達が不思議に思ったのは、ナヒーモフ号の水兵は、なぜか皆が金貨をたくさん持っていることだった。将校は望遠鏡の中に多額の金貨を隠し持っていたそうだ。また、ロシア水兵は、飲み会の場で接待した女性に対して金の指輪を贈ったという話もあった。このような経緯から、ナヒーモフ号には莫大な金貨や財宝が積まれており、ロシア水兵たちはナヒーモフ号が沈没する直前に、艦内の財宝箱から金貨などの財宝を持ち逃げしたのではないかという噂が広がったようだ。
このような噂が流布されると、多くの野心家がナヒーモフ号の引き揚げを企てたが、未だに成功していない。ナヒーモフ号は対馬東方の水深約90メートルの所に沈んでいるのが確認されているが潮流が速く引き揚げは難しい。今までに、ナヒーモフ号の大砲が引き上げられている。
わしも、ナヒーモフ号の引き揚げに参加することが夢だったが、ついに果たせなかったよ。今頃になって、ナヒーモフ号の引揚げが企画されても、この年ではもう潜れないな」
それから時は流れ、私が島を出て、陸上自衛隊の幹部となり、外務省に出向していた1980年頃のことだったろうか。ナヒーモフ号金塊が引き揚げられたというニュースを耳にした。私はこのニュースを聞いて、少年時代に虎蔵じいさんから聞いた話は本当だったことが分かった。ただし、残念ながら、ナヒーモフ号からは巨万の財宝は見つからなかったという。そのことが分かったのは、虎蔵じいさんが亡くなってずっと後のことだった。
虎蔵じいさんが私に話してくれた自慢話はもう一つあった。それは、虎蔵じいさんの親友だった朝鮮人の潜水夫の話だった。酒好きの虎蔵じいさんは、酔うと繰り返しこの話を私にしたものだ。
「潜水夫仲間に、済州島出身の金成文(キム・ソンムン)という名前の朝鮮人の男がいたよ。この男は、わしと同じくらい度胸があり、潜水夫の技術も抜群で、深いところまで潜潜って危ない仕事をする、ライバルだった。わしと彼は、お互いに実力を認め合って、尊敬していたよ。その彼は潜水作業中に事故で死んでしまった。わしは彼のことが忘れられなかった。彼の死から30年程も経って、わざわざ済州島にまで彼の墓参りに行って来たよ。ここにわしが金さんの墓参りに行ったことを書いた済州島の新聞があるが、宇久島には朝鮮語読めるものは誰もいないので、内容は分らない。ただ、漢字の部分から察して、わしが墓参りに行ったことを書いているのは間違いない」
虎蔵じいさんからこの話を聞いた時からずっと後のことだが、私は、韓国で防衛駐在官(1990~93年)をしていた。その間、道下長作叔父(母の弟)がソウルに遊びに来た。叔父は虎蔵じいさんが生前大事に持っていたと言う新聞の切抜きを持って来た。「これは 虎蔵じいさんが大事にしていた新聞の切抜きだ。お前は朝鮮語が読めるから翻訳して見てくれないか」と伯父はその記事を私に託した。
その新聞切抜きは、「済州新聞」の1963年9月26日付の記事だった。読んで見ると、生前に言っていた通り、虎蔵じいさんが事故で亡くなった朝鮮人の潜水夫の墓参に済州島を訪れたことを報じたものだった。「古い友情を訪ねる異邦人」と題し次のように虎蔵爺さんの墓参のことを報じていた。
「日本人『道下虎蔵氏』30年来の念願を果そうと水陸を渡り、友人である故金氏(艦艇引揚げ作業中死亡)の墓に献花」という見出しで以下のように書かれていた。
〈ここに昔の親しい友人に対する友情を忘れきれず異国を訪ね旧友人の墓前に伏せる或る異邦人の殊勝な佳話がある。
当年70歳の日本人である道下氏は、今を去る31年前の友人である故金成文(キム・ソンムン)氏(済州道大静邑出身)との友情を忘れきれず「自分が生きているうちに友人の墓地に花束を捧げたい」という念願を達成するため去る8月2日、水陸遥かな異国を訪ねてきたのである。
現在、日本国静岡県で水産業に従事している道下虎蔵氏は、日露戦争の際、沈没した露国艦隊(バルチック艦隊)の引き揚げ作業の時、潜水夫として従事したことのある済州道大静邑下慕里出身の故金成文氏とは敦篤な友情を交わした非常に親しい友人であったが、金氏が同艦隊引き揚げ作業中、70余メートルの深海潜水記録を残したまま死亡するや非常に悲しんだのである。
金氏の遺体が故国に帰り、葬られた後も常に金氏との友情を考えてきたが、30年の年月が過ぎた今日、故人の息子として日本の下関市岐山交易会社重役の金務安(キム・ムアン)氏の斡旋で岐山交易社の活魚輸送船「若丸」の便を利用し、去る8月2日到着し、大静邑下慕里にある友人の墓地に花をささげ、亡くなった友人との切ない旧情を懐古し、9月18日日本に帰ったが、この「情の人」、年寄りの異邦人の訪問についての話は、伝え聞いた人たちの胸を熱くした。〉
この記事では、虎蔵じいさんは「日本国静岡県で水産業に従事している」と書かれているが、私がこの話を直接聞いた当時は、既に宇久島に住んでいて、悠々自適の晩年を過ごしていたのである。いずれにせよ、国境を越えた友情は、記事に書かれた通り「佳話(心が温まるような、よい話)」である。近年、日韓関係の悪化を見るにつけ、私はなぜか虎蔵じいさんの「佳話」を思い出すのである。