望郷の宇久島讃歌(6)
第1章 望郷の宇久島
●青い鳥
子供の頃の私を育んでくれた宇久島の豊かな自然について紹介したい。最初は、夢中になった目白にまつわる話である。子供の私にとっては、目白こそが、チルチルとミチルが探し求めた「幸福の青い鳥」のようなものだった。
宇久島は野鳥の宝庫
五島列島最北端の島、私の故郷・宇久島には様々な種類の鳥が沢山いた。けだし、宇久島は鳥たちが生を楽しむのに必要な環境―山林、畑、水田、川、湿地、海岸に恵まれ、草や木の実、昆虫等が豊富だったからだろう。
鳶、雉、山鳩、雲雀、頬白等の留鳥の他、鴨、鴛、鴫等色々な種類の渡り鳥も島の外から沢山飛んできた。これら様々な鳥のいずれも、私にとっては、それぞれ幾つもの鮮やかな思い出があるが、ここでは目白について話そう。
秋になると、島は海の青と空の青とのサンドイッチになる。中国や朝鮮半島等アジア大陸にも続く宇久島の秋の空の色は、どこか島国日本のそれとは違うような気がする。宇久島の秋のそれは、さらに高く、いっそう澄んでいる。
海と空の接際部のブルーの中から少しずつ胡麻粒状の無数の黒い点が湧いてきて、偏西風に乗って島に近づいてくる。ああ、渡り鳥だ!大陸から九州や本州に渡るものや、日本列島の北部から南下するものといろいろだ。これらの群れは、九州へ向かうものがほとんどだが、その一部は宇久島へのお客様である。
目白
目白は秋の渡り鳥で、島で薩摩芋を掘る頃になるとどこからか渡ってきた。「目白は何故芋堀の頃になると島にやって来るのだろうか?」と子供心に考えたものだ。島では目白の餌として、蒸かした芋を飼い主が自らの口の中でムシャムシャと咀嚼し唾液で練り上げたものを芋焼酎用の杯に入れて、目白の鳥籠の中に取り付けた円状の針金の輪の上に載せて与えていた。それゆえ「目白は餌になる薩摩芋が収穫時期を迎える初秋になるのを待って渡ってくるのだろろう。」と子供心に納得していた。
目白はどこから渡ってくるのか?村の大人達によれば「タイシュウ」からやって来るのだという。当時「タイシュウ」とはどこにあるのかわからなかった。今考えて見ると対馬か済州島のことを指していたようだ。島という閉鎖的な空間で生まれ育った私は、何の知識もない「タイシュウ」のことを勝手気ままにあれこれ夢想したものだ。
私の頭の中にある夢の島の「タイシュウ」では、年中花が咲き乱れ、リンゴやバナナがたわわに実り、目白が乱舞していた。私の頭の中の「タイシュウ」には、何故リンゴとバナナが登場したのか?戦争直後の宇久島ではリンゴとバナナは超高級な果物だった。思い切り食べてみたいと思っていた。当然のことだが、私は、リンゴやバナナが実際に樹上に実っているのを見たこともなかった。そのうえ、二つの果実が、熱帯の産か温・寒帯の産かの知識もなかった。
それはあたかも江戸時代よりも前に、島国の日本人が、異国や異人について実際とは異なったイメージを膨らませ、想像たくましく考えたのに似ていた。幼少年時代の私は、五島列島の小島の中で、海の向こうに存在する「タイシュウ」について、自らの夢も含めて色々楽しく思い描いたものだった。
芋堀の頃になり、我が家の近くの里山から、目白の鳴き声が風に乗って聞こえて来ると胸が高鳴った。目白は、当然のことだが雄と雌とでは鳴き声が違う。雄は「チーユッ」と甲高く雄々しい旋律で鳴く。冬の緊張した冷気を震わせて、遠くまで響き渡る。一方、雌は雄よりも控えめに「チー」地味に語尾(否、鳴尾か?)を下げる鳴き声だ。人間の男女の声質とは反対で、雄のそれを「ソプラノ」に例えれば、雌の鳴き声は「バリトン」のようだ。
鳴き声の美しさからは雄の方が断然優れている。勿論これは、人間の評価だが。目白の世界では、人間には「バリトン」に聞こえる雌の鳴き声が、オスの目白には、甘美な囁きに聞こえるのかもしれない。
目白の雄は、春になると鳴き声を変える。雄は、春になると「サエズリ」を始める。「サエズリ」は雌に対するラブコールの意味があるようだが、これには二種類の鳴き方がある。一つは宇久島の言葉で「フケリ」と呼んだ。目白が「一心不乱に鳴き耽る」様子を表した言葉だろう。「フケリ」はカナリアの鳴き方に似ており、葉蔭に隠れ比較的小声で遠慮がちに長編の叙情詩を早口で詠う。百舌の「サエズリ」とそっくりだ。百舌は、目白に似た「サエズリ」で雌を騙して誘い寄せ、藪陰に誘惑して目白を食ってしまおうという魂胆なのだろう。
目白の雄の「サエズリ」のもう一つの鳴き方を、島言葉で「タカナエヲハル」と言った。「高い音を張り上げる」と言う意味だろう。これは雲雀の鳴き方に似ている。木陰に隠れて小声で念仏を唱えるような「フケリ」とは対照的に、本来弱いはずの目白が、危険をも省みず、営巣地の近くにある最も高い木の梢に姿を晒し、小柄な身には不相応な大音声で鳴く。その様は、「ここは、オレの縄張りだ。誰も近寄るな!」、という警告の意味と、愛のカップルの誕生を宣言するかのようだった。
雄の持ち歌が三曲もあるのに比べ、雌は生涯「地味な持ち歌」一曲のみだ。可哀想に。衣装も雄の方がおしゃれだ。雄も雌も全体としては椿の葉の色に似て少し黄色味がかった緑色で、喉から胸にかけて逆三角形の黄金色の密毛が生えている。ただ、雄の黄金色の密毛の方が、より濃く鮮やかで艶(つや)がある。
目白は宇久島に群生する椿の花の蜜が大好きだ。椿の枝を伝って真紅の花から花へと渡りながら、嘴を突っ込んで蜜を啜る。だから、嘴の周りは椿の花粉がくっ付いて、金粉を塗したようになる。子供心に、目白の喉が黄色いのは、椿の花粉で羽毛に染みこんでしまったからだと思っていた。
目白捕り名人――寅吉爺ちゃん
村で目白捕りの名人は、山口寅雄君――私の同級生――の爺ちゃんの寅吉さんだった。爺ちゃんは、還暦を過ぎていただろうか、痩せて、手足が長く、歯はほとんど抜け落ち、真っ黒に日焼けしていて、少しばかり腰が曲がり気味だった。爺ちゃんは、冬を除いては、黄色く変色した褌で通していた。上着はどんなものを羽織っていたのか定かに覚えていないが、夏場はほとんど裸だった。
余談だが、ずっと後になって、ケニアからニカウと言う名の黒人がやってきて、テレビを賑わせた時期があったが、山口の爺ちゃんは、そのニカウにそっくりだと思った。
寅雄君のお母さんは、彼が生まれて間もなく死んでしまったそうだ。だから、爺ちゃんはたった一人の孫を特別可愛がっていた。目白を何羽も飼ってやり、魚釣りには、いつも一緒に連れて行った。
当時、島では、冠婚葬祭には米粉で作った口砂粉(こうさこ)と呼ばれる菓子が配られた。鯛や鶴の形に固められ、中には甘いあんこがいっぱい詰まっていた。寅雄君は、一人っ子だから、爺ちゃんから口砂粉菓子を沢山もらえた。私はそんな寅雄君が羨ましかった。
トリモチ
秋になって目白が島にやって来ると、最初の獲物となる目白はトリモチを塗った竿に絡めて捕まえる。それゆえ、目白捕りにはトリモチが必要だった。山口の爺ちゃんは秋の気配が漂う頃になると、島の中央部にある唯一の山、城ヶ岳(海抜約300メートル)の頂上に上る。そこには、下界にはないモチノキが自生しているのだ。爺ちゃんは鎌でモチノキの樹皮を剥ぎ取り、その樹皮で強力な粘着力を持つトリモチ(鳥黐)を作るのだ。そして、〝黐(もち)竿〟と呼ばれる長い竹竿の穂先にこのトリモチを塗り、それを巧みに操って、目白の羽に直接くっつけて、獲るのだ。
私達村の子供達は、寅雄君と一緒に爺ちゃんに随いて、モチノキの皮剥ぎに行ったものだ。麻袋と鎌と弁当を持った爺ちゃんと子供達の一行は9時頃集落を出て、城ヶ岳山の山頂を目指した。松林が続く麓を抜けて七合目あたりまで来ると一面の野芝のスロープが広がる。
この野芝のスロープは、私が通った小浜小学校の遠足で、定番のスポットだった。遠足で来た時は、この芝の上を裸足になって鬼ごっこをしたり、板切れなどに座って滑る原始的な草スキーを楽しむことが出来た。全校で100名ほどの子供たちが芝生の上で戯れるのどかな光景が思い出される。
この芝のスロープをなおも登ると頂上周辺に雑木林が見えてくる。爺ちゃんは、林に分け入り、モチノキを見つけると、両手で鎌の柄と刃先を持って木に押し当て、樹皮を剥ぎ取って、麻袋に詰めた。
麻袋がいっぱいになると、爺ちゃんと子供達は、林を出て、野芝のスロープまで引き返し、車座になって休んだ。そこから我が家のある麓の景色や沖に浮かぶ野崎島・小値賀島を眺めながらめいめいに持ってきた蒸かしイモや半麦飯のおにぎりなどの弁当をほおばった。山登りで腹が減ったせいか、その味は格別であった。喉が渇くと、近くに泉が湧いている場所に行って、チョロチョロと湧き出でる清水を、ヤマイチゴ(学名不祥、島の松林の中に自生し、6月頃甘い実を付けた)の葉をアイスクリームを盛るコーンカップのような形に畳んで、泉を掬って喉を潤した。
私は、芝生の上に寝転がって、透き通るような青い空に視線を放った。視線は、底の無い青空に吸い込まれ、目が眩む思いがして、何だか恐ろしくなり、慌てて雲を見つけて焦点を取り戻した。秋の雲は、城ヶ岳の山頂近くから見ても高みにあった。大陸から流れて来たのかも知れない雲。ひとひらの雲に想像が膨らんだ。空に浮かぶ雲は、限りないイメージの世界に私を誘ってくれた。
後に、「インクのしみを見て何を想像するか?」という質問を受けるロールシャッハ・テストを受けたことがある。その時、宇久島で過ごした少年時代に様々に変化する雲の形を眺めて、ラクダ、象などの動物、母親や先生の似顔、船や汽車などの乗り物などを連想したことを思い出した。
子供達にとって、この日は言わば楽しいピクニックだった。太陽が西海に傾く頃、私たちは家路に着いた。
翌日、子供達はまた山口の爺ちゃんに付き従って村の側を流れる小川(福浦川)に向かう。前日持ち帰ったモチノキの樹皮からトリモチを精製するためだ。
福浦川は田圃の中を流れる幅4メートル程の小川で、村の近くの橋が架かっているあたりに洗濯場があった。洗濯場には、平べったい大きな石が水辺にあり、爺ちゃんはその石の上に麻袋から樹皮を取り出し、ソフトボール程の石で根気よく叩き、細かく砕く。樹皮には水には溶けないトリモチの成分が含まれており、小さく砕くと樹皮に含まれるトリモチの粘り気が出てくる。そして、最後にはトリモチを含む樹皮の破片を固めた大きいダンゴが出来上がる。この大きなダンゴを卵ほどの大きさにちぎって、冷たい水の中で丹念に洗って、樹皮の細かい残渣を取り除いていくと最後に少量のトリモチが残る。大きいダンゴをちぎっては、この作業を繰り返した。
村の子供達は、爺ちゃんの周りで、まるで魔法でも見るかのようにその手先を一心に眺めていた。爺ちゃんがトリモチのダンゴを水の中で洗うと樹皮の白い破片が流れに漂うとともに、トリモチの成分の一部が水に溶けて、水面にまるで虹色の花火のように、次々に同心円の油膜が生まれる。メダカや小鮒たちがこれらを餌と間違えて、群がり寄ってくる。子供達も水面の虹も、そしてメダカや小鮒達までもが、爺ちゃんのマジックハンドの周りでざわめく。爺ちゃんはこうしてこしらえたトリモチを、まるで宝物のように化粧クリームの空き瓶等に入れて保存した。
トリモチの次は、〝黐竿〟を作る番だ。村のそこかしこに生えている4~5メートルのメダケ(女竹)を切取り、これを炭火で炙ったり、濡れ雑巾で冷やしたりしながら真っすぐに延ばす。これとは別に、〝継ぎ竿〟として、1メートル程の細い竹を用意した。目白を捕る時は、〝継ぎ竿〟を太い方の竹に継いで使う。
目白刺し
これらが出来上がると、「目白刺し(目白を〝継ぎ竿〟の先に塗ったトリモチにくっつけて捕えること)」の準備は完了する。爺ちゃんは、村に目白がやって来た時にすぐに使えるように、太い方の竿は自宅の前の枇杷の木に立て掛けておき、細い〝継ぎ竿〟の方は、穂先に5センチ程トリモチを塗り、ゴミなどが付かないように家の中にしまっておいた。
待望の目白の声が遠くから風に乗って聞こえて来ると、爺ちゃんは手に唾を付け〝継ぎ竿〟の先端のトリモチを丹念に塗り直し、目白の羽にくっつきやすくして、太い竿に継ぐ。そして、竿を持って目白の声が聞こえる方向に駈けて行く。子供達も爺ちゃんに遅れじと走る。目白の鳴き声がする椿の林まで来ると爺ちゃんは立ち止まり、小手をかざしてじっと木の間を凝視して、目白の居場所を確かめる。
いる、いる!密生した椿の小枝の間を、数個の黒い影が、木の葉隠れにチョロチョロと巧みに移動しながら、椿の花の中に嘴を頭ごとすっかり突っ込んで、一心不乱に蜜をすっているではないか。
爺ちゃんは、その中の一羽に狙いを付け、スルスルと竿を繰り出す。トリモチを塗った穂先がまるで獲物を狙う蛇の頭ように、枝と枝の間を巧みに縫って、狙いを付けた目白に忍び寄って行く。子供達の視線も心もトリモチの付いた穂先に貼りついているかのようだった。
狙われた目白は、爺ちゃんのトリモチのついた穂先が近づいて来るのに気付いても、不思議なことに、まるで〝金縛り〟にでもかかったように、一瞬動けなくなってしまう。目白は、自分に近づいて来る得体の知れない〝魔物〟を、いまいましげに睨みつけているようにも見えた。
爺ちゃんは、竿の穂先を目白から30センチ程のところまでゆっくりと近づけると、一瞬止めたように見えたが、次の瞬間、今度は目にも留らぬ早さで一挙にサッと穂先を突進させトリモチで目白を絡め捕った。
目白は、次の瞬間金縛りから解放され、我に返り、「チュウ、チュウ」とネズミに似た哀れな声を発してバタバタもがくが、もがくほどにますますトリモチに絡まってしまう。爺ちゃんは、すぐさま、枝を避けつつ竿をたぐり寄せ、目白を手中に収めた。
それまで、爺ちゃんから少し離れて、じっと息をひそめ爺ちゃんの魔術を凝視していた子供達は、爺ちゃんの傍らに駈け寄り、爺ちゃんの手のひらの中の「黄緑の宝石」を覗き込む。目白は間近で良く見ると、その名の通り、つぶらな黒い目の回りにクッキリと短い白い羽毛が生え、嘴の付け根には、小鳥のくせに立派な鬚まで蓄えている。
目白は、黒い尖った嘴で、爺ちゃんの手を突っついたり、噛みついたりして、精一杯の抵抗を試みている。爺ちゃんはこの〝駄々っ子〟を指先であやしつつ、握りつぶさないように注意しながら、トリモチを塗った竿から入念に目白を外し、用意した鳥籠に入れる。
目白は、籠の中で無闇に暴れ回る。小さいながらも、躯ごと竹ひごにぶつかったり、嘴を竹ひごの間に突っ込んで隙間から逃げようともがく。ひどい場合は、嘴の付け根の羽が擦り剥けて血が滲むこともあるが、半日もすれば、徐々に観念しておとなしくなってくる。
爺ちゃんはこのような目白の習性を知り尽くしており、目白を早く籠にならして、鳥の躯を傷つけないために、厚手の風呂敷ですっぽり籠を包んだり、暗い押入れに入れたりもした。また、羽にくっ付いたトリモチは、菜種油で溶かして丁寧に取り除いてやった。
落とし籠
こうしてトリモチで捕らえた目白を、今度は囮として利用する。囮を利用して、他の目白をおびき寄せ、「落とし籠」と呼ばれる罠で捕獲する。
「落とし籠」とは、孟宗竹で作った目白籠で――この中に囮を入れる――その上に「〝落し蓋〟の付いた籠」を乗せたものだ。囮に誘われて来た目白がこの中に入ると、鉛の重しが付いた〝落とし蓋〟がパタンと閉じて逃げられなくなる仕組みになっている。
この落し籠の中には、目白の好物である蜜柑、蒸かした薩摩芋、蜜いっぱいの椿の花、ムラサキシキブの実等をフルコースで並べておき、囮の鳴き声に誘われて近くまでやって来た目白を餌で〝落し籠〟の中に誘い込むように仕組まれている。姿が優美で鳴き声の良い雄を捕るためには、囮としては雌の方が良い。
囮を「落とし籠」に入れて、目白がいる林に行く。目白が集まってきそうなたくさんの花を付けた椿の木を見つけ、爺ちゃんはこれによじ登って鳥籠を枝に吊るすと「落とし蓋」を開いて、仕掛けの準備を完成する。
爺ちゃんと子供達は少し離れた茂みに隠れた。獲物となる目白を呼び寄せるため、爺ちゃんと子供達は、茂みの中から囮に向かって口笛で目白の鳴き声を真似て呼びかけ、雌の鳴き声を誘う。見白の鳴き声を真似るには年季がいる。私は、あまり得意ではなかったが、三つ年上の早梅和吉君や二つ年上の木落実君は実に上手かった。
子供達の口笛に応えて囮が鳴く。獲物が来るまで子供達は囮と口笛でキャッチボールを繰り返した。寒い山の中でホッペタを真っ赤にしながら口笛を吹いていると、目白たちの鳴き声が近付いてくる。仲間の声が聞こえてくると、囮はいっそう寂しげな声を出す。
目白たちの声が賑やかさを増し、小枝伝いにだんだん近づいて来る。空の明るさを背景にして、木の下の方から透視していると、椿の葉かと見まがうほどの小さな目白たちの影がリズムカルに動くのが分かった。
爺ちゃんと子供たちは「早く!早く!囮の籠に近づけ」と心の中で叫ぶ。手を握りしめ、目白の影を追う。目白どもは、こんな人間達をからかうかのように、囮に近づいたり、パッと飛び去ったりしながら遊んでいる。「早く『落とし蓋』の中のご馳走を見つけてくれ!」と何度も心で念じるがなかなかそんなにうまくはいかない。群の中の一羽が囮の籠に近づいても、籠の上の「落とし蓋」には近寄らず、囮にばかり興味を示し、籠の竹ひごの隙間越しに囮と〝キス〟したり、籠の周りをぐるぐる回ってじゃれあったりして、一向に「落とし蓋」の中に入っていく素振りを見せない。
皆が「いまいましい奴め」と思っていると、そのうちの一羽が「落とし蓋」の中の御馳走に気付いて、中を覗いたかと思うと、一瞬の迷いもなく蓋の中に飛び込んだ。パタッと鉛の重しが付いた蓋が閉まる音がした。子供達は、「ワッ」と歓声を上げ、茂みから飛び出し、籠の下に走り寄る。籠の持ち主の爺ちゃんは素早く木によじ登って籠を地上に降ろした。捕まえられた目白は気も狂わんばかりに、狭い「落とし籠」の中でもがいている。爺ちゃんは、蓋をわずかに開いて隙間から手を差し入れ、目白を捕まえて取り出し、別の籠に入れた。
「落とし蓋」に立ち寄る「お客様」はいつも目白ばかりとは限らない。ウグイスが来ることもある。ウグイスは春から夏にかけての繁殖期には、「ホーホケキョ」と美声を上げるが、秋から冬の間は「チャッ、チャッ」と地味で単調な鳴きで過ごす。
私の村では、ウグイスのことをその鳴き声の通り、「チャッチャッ」と呼んだ。島では、ウグイスを珍重して飼う人はいなかった。それゆえ「チャッチャッ」という名前には幾分軽蔑の響きが込められていた。ウグイスはいわば「外道」であった。
更に迷惑な「來客」もいた。百舌である。目白の声を聞きつけて、どこからともなくスーッと忍び寄って来て、目白籠の竹ひごの間から鋭い嘴を突っ込んで、囮の目白に噛みつこうとする。
囮は、たまげて、パニック状態に陥り、羽をバタつかせ、メチャクチャに竹ひごに体当たりしながら籠の中で逃げ惑う。子供達が助けに行くのが遅いと、哀れな囮は恐怖の中で暴れ回っているうちに、百舌の鋭い嘴にかかってしまう事もあった。従って、百舌が襲来すると、爺ちゃんと子供達は一斉に救助に向かう。「コラ!バカタレ!」などと喚きながら百舌を追い払った。百舌の怖さを考えると、私達は片時も籠から目が離せなかった。
島では、秋から冬にかけて、あちこちで、百舌がトカゲ、アマガエル、バッタなどの昆虫、果てはメダカやドジョウまでも、木の枝に突き刺して「干物」にしている光景を目にしたものだ。このように、百舌は典型的な肉食の鳥であり、籠に入った目白などは逃げ場を失った格好の獲物に見えたに違いない。
籠の鳥
「落とし籠」で捕らえた目白も、トリモチで捕らえた目白と同じやり方で籠にならしていく。まずは、目白の餌について話そう。
宇久島では、既に書いたように、餌は蒸した薩摩芋が主体であった。それを、そのまま与えたり、人が口の中で咀嚼したものを供することもある。
ちょっと贅沢な餌としては、蒸した芋をベースに、大根の葉っぱから絞った青汁、干した小魚の粉、あるいは黄粉などを混ぜて、すり鉢で練って作ったものがある。
春になると、目白の雄は雌に対するラブコールとして「サエズリ(カナリアのような美しい鳴き声)」を始める。この「サエズリ」を促すためには、動物性タンパク質を含む栄養豊富な餌が不可欠である。動物性タンパク質源としては、煮干しや田んぼの土の中から掘り出した冬眠中のドジョウを干物にしたものを、擂り鉢で轢いた魚粉を薩摩芋に混ぜて与えた。
目白の〝精力剤〟としては昆虫の幼虫もあった。ヘクソカズラ(屁糞葛)という植物がある。文字通り相当悪臭の強い葛である。この葛の直径5ミリ程の茎の一部で小ぶりのピーナツの殻程に膨らんだ部分があるが、この中に福浦の集落では〝屁糞虫〟と呼ぶ正体不明の白い幼虫が潜り込んでいる。この幼虫こそが目白の好物だった。だから、子供達は林の中から「屁糞葛」を採って来て、小刀で膨らみを切り開き、白いブヨブヨの幼虫をつまみ出して、目白に与えた。目白は細長い嘴からはみ出すほどの大きい幼虫を、目を白黒させながらもうまそうに飲み込んだ。
後年、この幼虫について調べてみた。このヘクソカズラの茎がピーナツの殻のように膨れている部分に潜んでいる〝白い虫〟の正体はヒメアトスカシバというガの幼虫であることが分かった。そしてこの膨らみには、「ヘクソカズラツルフクレフシ」という名前まで付いているのだそうだ。
目白は、リンゴ、柿、蜜柑なども好物である。だがこんな果物は島では貴重品で目白に食べさせることは稀だった。余談だが、人間の大便は、何を食べても黄金色だが、目白の場合は柿やトマトを食べると、そのままの色の糞が出る。
蜜柑を食べさせる場合は要注意。甘い温州蜜柑は構わないが、酸っぱい夏蜜柑を与えると、目白の喉が嗄れて美声が出なくなってしまうことがある。
目白について色々書いたが、実は、我が家では、祖母も父も目白を捕ったり籠を作ったりする趣味も特技も無かったので、私自身が目白を飼うことはできなかった。それ故、よけいに目白に恋い焦れていたのかも知れない。
青い鳥
私は、学校から帰ると直ぐに居間に鞄を放り投げ、竹林に囲まれた山口の爺ちゃんの小さな隠居家に駆けつけ、暗くなるまで、飽きもせず、籠の中の目白に見入るのが常だった。
目白は、片時もじっとしていない。籠の中に横に平行に取り付けた二本の止まり木の間をリズミカルにそして器用に「回れ右」をしながら行ったり来たりを繰り返す。そして、ほぼ定期的に餌をついばみ、糞をする。また、私が口笛で誘うと美声で応じてくれた。爺ちゃんの家には、数羽の目白が飼われていた。だから、一羽が鳴けば、しばらくは木霊のようにエールを交換するのが常だった。私は、今でも少年の頃のあの情景を思い出すと、耳の底に目白の合唱が聞こえるような気がする。
私も寅雄君も、そして他の村の子供達も、中学校を卒業すると、それぞれの道を進み島を離れた。私は高校に行くために島を出たが、しばらくして、母からの手紙で山口の爺ちゃん消息を聞いた。それによれば、爺ちゃんは、博多に移住した息子(寅雄君の父親)に引き取られたと聞いた。その後しばらくたって、母からの手紙によれば、爺ちゃんは、やっぱり都会には馴染めず、半年も経たぬうちに、息子達が止めるのも聞き入れず、島に逃げ帰ったとの事だった。その後の母からの便りでは、爺ちゃんは再び息子から博多に連れ戻され、程無く亡くなったという。
私は平成17年に、約30年に及ぶ自衛官勤務を終え、東京に住むようになった。家の近くを散歩すると、秋から春にかけて、住宅の僅かばかりの庭の植え込みや公園でよく目白を見かける。私は壮年・老年に差し掛かかる今も、目白を見るたびに、その鳴き声を聞くたびに、訳もなく心がときめく。
私は、イギリスの代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワースは「虹」という詩が好きだ。
空に虹を見るときに、私の心は躍る
私の人生が始まった時そうだった
いま私が大人になってもそうである
私が年老いてもそうありたい
さもなくば死んだほうがよい!
子供は大人の父である
そして願わくは私のこれからの一日一日が自然に対する畏敬の念に貫かれんことを!
ワーズワースが「虹」を見て心が躍ったように、私は目白を見れば心がときめくのだ。宇久島には長いこと帰っていない。今でも、椿の花の頃には目白は渡ってくるのだろうか。目白は、少年の頃の私にとっては、まさしくメーテルリンクの「青い鳥」に出てくる「幸福の青い鳥」であった。