ハーバード見聞録(47)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。


蒲公英(たんぽぽ)中学校(12月5日の稿)

昨年(2005年)末、Pearl S. Buck女史の「THE GOOD  EARTH」(1931年の初版の本)をワイドナー図書館から借りて読んだ。英語の読解練習の積もりだった。

ノーベル文学賞も受賞したこの物語は、貧しい農村の青年である王龍(Wang Lung)が主人公で、近くの町の大地主の奴隷である阿藍(O-lan)を嫁として迎える朝から始まる。王龍と阿藍夫妻は3人の息子と知的障害を持つ娘を授かるが、旱魃による飢饉で食料が底を突き、農耕用の牛の骨や皮まで食べ尽くし、周囲には人肉まで食べる噂が出るに及んで、一家はかろうじて餓死寸前に隠し持っていた僅かな金で、汽車で南方の大都市に「流民」と化して逃れ、生き延びることができた。

一家はその後、革命や戦争に巻き込まれるなど数奇な運命を辿るが、19世紀後半から20世紀初頭にかけての中国の激動の時代を歴史に弄ばれながらも逞しく生きる王龍と阿藍夫妻一家の姿には胸を打つものがあった。 

ところで皆様は、この小説に出てくる「流民」が、今日経済的に大躍進を遂げつつある中国で、大きな問題になっていることをご存知だろうか。実のところ私も、ハーバード大学フェアバンク・センターが実施している中国関係のセミナーに出るまでは知らなかった。

2006年1月30日、ケネディ行政大学院に研究員として来ている中国人のZheng Hong女史(行政学博士、52歳)が「一億四千万人の中国流民の子供達に対する教育について(Educational Prospects for the Children of China’s 140 million Floating Population)」と題するセミナーを実施した。
中国の流民についてのZheng女史の説明の要点は次の通りだ。

  • 中国の流民は現在約1億4000人で、それは田舎(内陸部)から都市(沿岸部)への移住者(migrant)である

  • これら流民の殆どは田舎の農民(peasant)出身の労働者である

  • これら流民のうち4000万人は極めて貧しい。このうちの19.34パーセントに当る約八百万人は学齢期の子供達である

  • 2010年には、中国の人口のうちの45パーセントが都市に集中する見通しである

  • 後20年後には流民が2億5000万人に達するだろう

  • 北京には現在370万人もの流民がいる

Pearl S. Buckが「THE GOOD EARTH」を書いた19世紀から20世紀初め頃の中国は、飢饉や内戦などで、田舎が荒れ放題となり、都市に流民が集って来た訳だが、現在の流民は中国の経済発展がもたらしたものだ。即ち、中国沿岸部と内陸部の所得格差、都市と田舎の所得格差が広がる中、所得の低い内陸部の農民が当ても無く職を求めて、沿岸部の大都市へ流れ込んでくるのだ。

これら流民は、中国の極めて安価な労働力となり、経済発展の下支えを担っているのは事実だろう。反面、流民の無秩序な都市への集中は、治安の悪化、社会の混乱、衛生の悪化、犯罪の増加など大きな国家・社会問題を生み出す原因にもなる。

特にZheng女史はこれらの問題に加え、流民の中の極貧層の学齢期の子供達800万人の教育問題に焦点を当てその深刻さを次のように訴えた。

  • 極貧層の親達にとっては、「生きること・食うこと」こそが当面の最大目標であり、子供達に学校に行かせる余裕などは無い。子供達は、大都市の中で、放置されたまま、日を過ごしている

  • 流民は都市に戸籍を持たない為、教育を初めとする国家・社会の恩恵に預かれない(同女史は、言及しなかったものの、事実上中国政府はこの問題に対し無為無策であると思われる)

  • これらの教育を受けられない子供達は、学問の基礎が無い為、将来、仕事に必要な技術などを身につけることも出来ず、中国の発展に効果的に寄与できない。人材上「負の要因」になりかねない。また、教育の欠如は、犯罪の温床になりやすい

  • 「教育詐欺」が横行し、架空の学校に入学者を募り、入学金を持ち逃げするケースが300件もあった
     

この問題に対し、「大河の一滴」とも言える程の解決のための努力が、Zheng女史達による蒲公英(たんぽぽ)中学校の設立である。この中学校は、昨年夏、同女史を始めとするボランティア達により設立された。学校は工場の廃屋を利用し、これをスタッフ達が、自力でリフォームしたという。

机や椅子は様々なところから中古品を貰い受けたとのこと。薄給で2名の専属の教師を雇用し、後は、篤志のボランティアが交代で授業を行っているそうだ。このセミナーに参加したハーバード大学の教授達の中の一人も、1週間程、同中学で英語を教えたことがあるとのことで、同教授をZheng女史が紹介すると、セミナー参加者から拍手が送られた。

同女史は「どうか皆さんの中から中国旅行の一環として、北京に来て頂き、1週間でも1ヶ月でもいいですから、子供達にネイティヴの英語を教育してください」という要請を付け加えるのを忘れなかった。

すべて「無い無い尽くし」のようだ。文房具も教科書も不十分、しかも確立されたカリキュラムも無く、現在試行錯誤の連続だという。中学終了後の進学等についても全く見通しが立っていない。

このような状況の蒲公英(たんぽぽ)中学校の現在の一齣を2分間のビデオに纏め紹介した。子供達の、元気で明るい笑顔が溢れていた。スラムの暗い影は見えなかった。アメリカ人ボランティア男性(先ほどのハーバード大学教授)による英語の授業では全員が大きな声でリピートしていた。ピアノに合わせ歌を歌う場面では、アメリカのフォークソングのようだったが、子供達の歌声の響きは万国共通で、明るく希望に満ちたものだった。運動会では綱引きもやっていた。全員参加で、元気一杯だった。

Zheng女史によれば、中国当局は、昨年中に異例の速さで蒲公英(たんぽぽ)中学の設立承認申請を認めてくれたという。当局としても、この流民問題の重要性を良く認識している証左だろう。

Zheng女史は、最後に同校を「蒲公英(たんぽぽ)中学」と名付けた由来などについて次のように説明し、セミナーのブリーフィングを締めくくった。

『蒲公英(たんぽぽ、DANDELION)』の種子は、落下傘のように風に乗って遠くに飛び、地に落ちて芽を出し逞しく育つ。流民の子供達もこの蒲公英の種子のように遠い内陸部の故郷から親に従って大都市に移動して来て、新しい環境に適応し、逞しく成長して欲しいという願いを込めて蒲公英中学校と命名しました。以前は工場だった校舎の校庭にも蒲公英が沢山生え、黄色い花をいっぱい咲かせていたのですが、子供達が増え、元気良く走り回るので今ではすっかり無くなってしまいました。でも、黄色い花の代わりに、沢山の子供達の笑顔があります。

この中学の存続・成功は800万人もの極貧の流民の子供達の将来を占う試金石です。どうか皆様の温かいご支援を頂きたくお願い申し上げます。お金だけではなく、ボランティアとして北京においで頂き、英語を教育していただくことも歓迎します〉

続いて、質疑に移った。私が最初に手を挙げて質問した。

日本では、明治初期に教育充実の一助として、欧米のキリスト教団体の支援を頂きました。同志社大学、上智大学、青山学院大学など今もその当時設立されたものが発展を続け、立派な教育を行っています。

Zheng女史の志は素晴らしいと思いますが、日本の例の様に欧米からキリスト教団体の支援を仰ぐ道を受け容れられたら如何ですか〉

 Zheng女史が申し訳なさそうにかつ言いにくそうに答えた。

中国では、宗教団体の支援は受け付けられません。そうなれば、学校設立の認可を取り消されてしまいます

私は、それだけの回答で十分に事情は飲み込めた。中国当局は「宗教はアヘン」というマルクスのイデオロギーをいまだに固守しているのだ。欧米のキリスト教団体がこれら流民に支援して、神の国についての教えを述べ伝えれば、「共産党一党独裁」という成り立ちが脅かされると思っているのだろう。

中国としては、この種の支援は「日本式のОDA」――思想的に「無色透明」で何の紐も付かない――に限ると思っていることだろう。。中国当局は「日本のОDA」を迂回方式で「軍事」に転用しようが、更には開発途上国に「戦略性の高いОDA」として使用しようが日本は一切文句を言わなかった。「ОDAなど外国の支援は中国が自由に使える金で無ければならない」――中国政府は、きっとそう思っていることだろう。

他の、アメリカ人達からは「アメリカへの違法移民の子供達との類似性」についての指摘がなされた。即ち、アメリカには毎年200万近い違法移民が入って来ると言われているが、これら移民の学齢期の子弟達が中国の流民の子供達と同じ問題を抱えているという訳だ。

このセミナーに参加して幾つかの思いが心に湧いた。

第一には、中国の流民の規模の大きさだ。1億4000万人の流民といえば現在の日本の人口よりも多い数だ。中国は国土も人口も何もかも日本とは比べ物にならない。アメリカに対する脅し文句として良く聞く話がある。その脅し文句はこうだ。

中国による台湾開放作戦にアメリカが介入し、核戦争にまでエスカレートすればアメリカは耐えられるだろうか。中国の核ミサイルで、サンフランシスコが全滅しても耐えられるだろうか。中国は14億人いるから少々犠牲が出ても驚かない

これも人口規模が圧倒的に多いから言える言葉だろう。別のセミナーでタフツ大学のクライン教授という方から「一人っ子政策」についての意外な話を聞いた。それによれば、中国では今も一年間に一千万人以上、即ち東京都民の数に匹敵する人口増加があるのだという。
 
筆者:「一人っ子政策はどうなったのですか?」

教授:「都市部にはその政策が徹底できるが、地方の農村部では広過ぎてとても中央の政策を徹底するのは難しいのですよ。役人が農村に調査に来たら、何処かに隠す訳ですよ」
 
第二には宗教の力。もしも中国がキリスト教諸団体の支援を受け入れるのであれば、この問題は相当解決の見通しが立つものと思われる。冒頭述べたように日本では明治維新後欧米のキリスト教団体が私学を設立し、日本の教育の向上に計り知れない貢献をした。教育ばかりではない、キリスト教団体の支援を中国が受け容れるならば、流民全体を対象とする人道的な支援も期待できる。しかし「宗教はアヘン」とする共産主義国家中国では宗教団体の支援を受け容れることは無いだろう。

流民を放置することも中国共産党の独裁体制を脅かす要因になるし、キリスト教などの宗教団体の支援を仰ぐことも共産主義に対する脅威の芽――共産党独裁の否定――を育てることになりかねない――と共産党はジレンマを感じているのだろう。
 
第三には高度経済成長の負の副産物の存在。中国では、高度経済成長の副産物として、流民増加の問題だけに留まらず、広範な環境汚染、共産党幹部の腐敗及び貧富の差の拡大など深刻な問題が次々に起こっているようだ。

特に貧富の差の拡大により、貧しい弱者達の不満のエネルギーが蓄積され、刻々と発火点に近付いて体制に対する脅威が高まると見るべきであろう。このように、共産党政府から「富の配当」を貰い損ねた大多数の弱者による体制転覆、即ち「反共産主義革命理論」は嘗てマルクスでさえ発想できなかった事態である。今日の共産党中国政権は、皮肉にもレーニン・スターリンによる革命前夜のロマノフ王朝と近似している。

いずれにせよ、今日、日本では、「小泉政権下では貧富の格差が生じつつある」と非難する向きもあるが、中国に比べれば日本はまさにユートピアと言えるほどの平等社会=共産主義の理想国家に近い状態――ではないかと思った次第である。


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