望郷の宇久島讃歌(21)
第2章 宇久島紀行
● 5月15日――宇久島に移動
私は9時40分羽田発のANA247便で福岡空港に向かった。そして、お昼少し前に福岡空港に着いた。空港には集広舎の川端社長に迎えていただいた。空港で、川端社長から石井望(いしゐのぞむ)長崎純心大学准教授と令息の樂君を紹介していただいた。
石井先生は私よりも20歳ほども若いが、尖閣古史・琉球古史の権威だそうだ。空港内のレストランで会食をした。中国が歴史と国際法を無視して「力による現状変更」を狙って尖閣諸島に挑発を繰り返す今日、その歴史に明るい石井先生は我が国にとって心強い存在だと思った。先生は長崎の空や海のように澄み切った心を持ち、明るいお人柄で、尽きない話は楽しかった。先生から『尖閣反駁マニュアル百題』(集広舎)という400ページを超える大著を頂いた。
福岡の私立中学に進学したばかりの樂君を見ていると、私は宇久島で中学1年生になった少年時代が思い出され「私にもこんなに初々しい頃があったのだと」と、自分で昔の自分を懐かしんだ。
博多駅で竜口英幸氏と待ち合わせた。石井先生父子のお見送りを受け、13時31分発の特急みどり13号で佐世保に向かった。車中で竜口氏から『グッバイ、チャイナドリーム』と『海と空の軍略100年史』(いずれも集広舎刊)を頂く。佐世保に向かう途上お話を聞いたが、竜口氏は軍事史や安全保障について詳しく、中米外交史や武器と戦略などに卓見を持っておられた。戦後コミンテルンやマッカーサーの占領統治下でウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムで洗脳された左翼ジャーナリストが主流の中で、まさしく正論を唱える竜口氏のお話を聞き、頼もしく思った。後日、竜口氏の二冊のご著書を拝読したが秀逸であった。
1533佐世保駅に着いた。改札を出ると湯本美樹氏が迎えてくれた。湯本氏は日本観光通訳協会(Japan Guide Association)所属で、彼女を通じて、7月にZOOMミーティングにより同協会の有志の方々にウクライナ戦争についての講演を依頼されたことで、知遇を得たばかりだった。宇久島に里帰りすることを伝えると、わざわざ佐世保駅で出迎えていただき、そこから数分の客船の桟橋までの移動の間にお話をすることができた。
湯本氏は元航空自衛隊幹部だったそうだが、すでに退職され、海上自衛官の夫君と佐世保に来られ、現在のお仕事をされている由。元幹部自衛官らしい清々しさが感じられた。お土産に、文明堂の三笠山というお菓子(どら焼き)を頂いた。人と人との出会いは楽しくも有難いものだ。竜口様、石井先生父子、湯本様との出会いはミカエル様のお計らいだと思った。
湯本様からお見送りいただく中、1610、九州商船のシークィーンは桟橋を離れた。ちなみに、宮﨑氏と羅氏は私たちよりも1日早い14日に大阪を出て、フェリーを乗り継いで宇久島に先着し、私達3人を平港で迎えてくれることになっていた。
当日は好天で、海も穏やかだった。川端社長と竜口氏は客室のフロアーに横になられた。私は窓越しに海を見ていたら、半世紀程も前に宇久島に帰る客船での思い出がふと胸中に湧いてきた。
石橋議員との対談は、私が大村市にある第16普通科連隊の小隊長時代のことだった。私が、連隊に着任したのは1970年10月だった。その頃は、70年安保闘争とベトナム反戦運動により、反戦・反自衛隊の嵐が吹き荒れていた。世はまさに左翼勢力の全盛時代だった。国会における社会党・共産党による自衛隊違憲の弁論や左翼に与するマスコミの「自衛隊叩き」が列島の津々浦々まで木魂していた。私は、朝日新聞など左翼の反自衛隊の悪罵を聞くたびに、自分の存在を全部否定されたような屈辱感を味わい、言い知れぬ怒りと反発を覚えたものだった。私は、「日本の共産化は絶対に阻止しなければ」と堅く誓い、防衛大学校の学生時代からクーデターを夢想したが、それを実行に移すまでの情熱と行動力はなかった。
連隊着任後しばらくして、70年の暮れが迫るころ、私は休暇をもらい、故郷・宇久島に帰省することにした。私は、心弾ませながら、部隊を後にし、西肥バスで佐世保にある五島航路の桟橋ターミナルに向かった。宇久島に行く鳴潮丸の3等船室チケットを買い、乗船を待つ列に並んだ。ふと、特等キップの優先乗客グループの中に、見覚えのある人物――私にとって、まるで「仇」のように思える人間――を見つけた。NHKの国会中継で自衛隊違憲論の急先鋒たる社会党の石橋政嗣議員だった。宇久島を含む上五島は石橋議員の選挙区だった。石橋議員は当時、社会党書記長に就任したばかりだった。
石橋議員は、1966年に、社会党の党是である非武装中立論の実現のための具体的道筋として「石橋構想」を発表していた。同構想では、「自衛隊を国民警察隊に改組し、漸進的に縮小して、非武装中立を実現する」としていた。
乗船した私は、船底に下り3等室の塩気で湿った畳の上にゴロリと横になった。血気にはやる私は、石橋議員のいる特等室に行って、非武装中立論を問い質してみようかと思った。しかし、猪突猛進を自認する私も、慎重に考えざるを得なかった。当時、制服自衛官はシビリアンコントロールという名分の下、言論が封殺されていた。それは今も変わらないことだが。石橋議員の対応次第では、3等陸尉の「押しかけ面談」がマスコミにあげつらわれる可能性はないだろうか。そうなれば、上司の井上連隊長や山下中隊長、ひいては陸上自衛隊・防衛庁に迷惑をかけることになる。「行こうか?止そうか?」その思いを繰り返し、エンジン音が唸り立てる船底で煩悶した。
鳴潮丸は桟橋を離れ、波静かな佐世保湾を宇久島に向かって航行を始めた。30分ほど経って湾口出ると、一気に波風が強くなった。玄界灘の荒波は三角波――進む方向が異なる二つ以上の波が重なり合ってできる三角状の波高の高い波――と呼ばれ、船にとっては危険な波だった。私は、鳴潮丸が湾口を出た直後、船底を突き上げる強い三角波に背中を押される格好で起き上がった。若さゆえの無分別と血の気の多さが石橋議員に向かって「突撃」するよう私の心を突き動かした。意を決して、最上階の特等室目標めがけ足を運んだ。波が船を持ち上げると、ズッシリと体が重くなり、階段を上る足が重くなる。逆に、波の谷間に沈む時は、体がフワッと浮いて、前に進む。まるで波の上下に運ばれるようにして、ついに石橋議員が占有する特等室の前まで来てしまった。室内に入るか止めるか迷ったが、覚悟を決めてドアをノックした。「どうぞ」という少し甲高い落ち着いた声が聞こえた。私が恐る恐るドアを開けると、テレビの国会中継などで見覚えのある石橋議員がいた。鋭い眼差し、引き締まった口元、やや吊り上った濃い目の眉、少し浅黒い肌が印象的だった。どこか俳優の緒形拳に似ていると思った。驚いたことに、石橋議員には警護や秘書が付いておらず、広い特等室に一人ぽつんと座っていた。私はこれを見て、「あまりにも無防備過ぎる」、と思ったほどだ。
1960年10月には、日本社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺される事件が起こっていた。日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼委員長は、演説中に突然壇上に上がって来た17歳の右翼少年・山口二矢により刃渡り33センチの銃剣で胸を2度突き刺さされて殺された。因みに、山口少年の父親も、私と同じ陸上自衛官(1等陸佐)で、事件3日後に依願退職したと聞いた。私は、何度も刺殺事件の生々しい映像をテレビで見た。自衛隊内では「日頃自衛隊を糾弾する社会党党首が天誅に遭った」と喝采する向きも一部にあったことは確かだ。私の場合は、被害者の浅沼委員長と加害者の山口少年のどちらにも深い同情の念が湧いた。
私は、後に一男一女を授かった。思想的には、妻はもとより息子も娘も日ごろの私の感化なのか、むしろ私よりも保守的で、社会党や共産党を忌み嫌うようになった。我が家同様、山口少年は父親の影響を強烈に受けたのではないだろうか。二矢少年の思想に影響を与えた自衛官の父親は、東北大学卒業後自衛隊に入隊し、そこで保守的な思想教育を受けたのは事実だろう。そう考えれば、二矢少年は父親の影響で右翼思想に染まり、浅沼委員長を刺殺したという見方も成り立つのではないか。このように考えれば、二矢少年は、ある意味では保守体制の犠牲者なのかもしれない。
同様に、日米安保体制を糾弾する浅沼委員長の場合も、委員長個人の信念に基づくだけではなく、その背後には世界共産主義革命を追求するソ連がいたことは確かなことだろう。私の印象では、浅沼委員長の刺殺場面は、東西両陣営の角逐が象徴的に現れた一瞬のスパークのように思われた。
そんな訳で、石橋議員が、無防備のまま一人で船室にいるのを見て、「オレが、刺客だったらどうするのだろう?」――そんな思いが、ふと、私の頭の中で湧いた。
私は、思い切って特等船室の中に入り、立ったまま威儀を正して自衛隊の礼式に従い30度の敬礼をし、自身の身分と姓名を申告して用向きを述べた。全て陸上自衛隊で教えられたやり方だった。
「私は、大村市にある陸上自衛隊・第16普通科連隊所属の福山3尉と申します。石橋先生にお話を伺おうと思い参りました」
石橋議員は別に驚いた様子でもなく、淡々とした態度で応じてくれた。
「よくいらっしゃいました。どうぞお座りください」
私は緊張しながら正座で対座した。
「そんなに窮屈にならないでもいいよ。膝を崩しなさい」
石橋議員は、細やかな配慮をしてくれた。私は、言われるままに膝を崩し、意を決して日ごろの思いを切り出した。
「先生は日ごろ、わが国の防衛のあり方について『非武装中立論』を唱えられ、自衛隊は憲法違反だと言われていますが、本当にそれで国が守れるとお考えでしょうか」
「そうですか。福山さんは自衛隊の〝青年将校〟ですか。これは、珍しいお客さんに会いましたね。私も一人で暇を持て余していました。まあ、ゆっくり話していってください。ところで、福山3尉はどの島に行かれるのですか」
石橋議員は、気負い込んだ私の追及の矛先は見事にかわされた。流石、社会党の「安保5人男」と呼ばれるだけのことはある、と思った。石橋議員にとって、新品少尉との論議で、主導権を握るのは訳もない事だったに違いない。石橋議員とのやり取りで気がついたが、議員は若造の私に対し、丁寧な言葉遣いをされた。
「宇久島に帰省するところです」
「防衛大学出身ですか」
「はい。そうです」
「高校はどちらでしたか」
「佐世保北高校です」
「そう、佐世保ですか。私も進駐米軍のために『勤労奉仕隊』で働いていたころ佐世保に住んでいたんですよ。私も、こう見えても実は帝国陸軍の見習士官だったんですよ」
「本当ですか。驚きました。先生も軍歴があったのですか」
「私は、台湾で生まれました。台北高等商業学校(現・台湾大学)在学中の1944年に、太平洋戦争の戦況が悪化したので、学校を繰り上げ卒業させられ、陸軍に取られたんですよ。その後、熊本陸軍予備士官学校に入校し、見習士官に任官したらすぐに終戦でした」
「それでは、旧帝国陸軍について一定のご体験・知見があるのですね」
「たかが見習士官と思われるかもしれませんが、旧軍についてのみならず、自衛隊や国防について一定レベルの理解はしているつもりです」
「そのことについては、国会論戦などを通じて、先生が国防政策や軍事戦略について国会議員の中では第一人者であることはよく承知しております。ところで、先生はどうして社会党に入られたのですか」
「終戦の混乱期でろくに仕事もない時代でした。終戦直後の昭和21年、佐世保に出てきて、同郷の先輩の紹介で進駐軍のための『勤労奉仕隊』の一員になりました。『勤労奉仕隊』とは、今日の在日米軍基地従業員の草分けに当たるものです。『勤労奉仕隊』の中で、みんなの代表に担ぎ出され、舎監に選ばれました。更には、翌昭和22年、佐世保基地内に労働組合が結成され、私が書記長に選ばれました。これが、今日私が社会党書記長の道に至る第一歩でした」
「先生は、米軍基地の中で、進駐米軍の実体を間近に見られたわけですね」
「その通りです。良いところも、悪いところもしっかり見ました。福山君も知ってることと思うが、わが同胞の若い女性達が敗戦の犠牲者となって、佐世保の夜の巷で米兵に声をかけて、『パンパン』を蔑まれながらも必死で生き抜こうとしていた時代でした。私も、痩せても枯れても、かつての帝国陸軍の少尉ですから、進駐軍に雇われながらも、心の中でなんともやりきれない思いで一杯でした。事実上かつての敵・米軍の『下僕』に相当する勤労奉仕隊に身を置くことになった私にとっては、敗戦により天と地がひっくり返ったような事態を迎えたわけです。その落差たるや。当時の私の気持ちは、他人に説明しても分からないと思います」
「先生のご心境は理解できるような気がします。しかし、実際に先生のお立場にならなければ、本当の意味の不条理感や屈辱感は分からないと思います」
「まあ、そんな経緯で、今日では社会党書記長となったわけです。社会党はご承知のように『非武装中立』が党是です。したがって、私も党員としてこれを信奉するのは当然ですよ。ただし、帝国陸軍の見習士官だった経緯もあり、自衛隊諸官の『非武装中立政策』に対する不信感もよく理解できます」
「現在の国際情勢下では、非武装中立では日本の安全を全うできないのは明白だと思いますが、いかがでしょうか」
「私も同感です。私が考える非武装中立は、その時の国際情勢や国民の非武装中立についての理解、自衛官のシビリアンコトロールについての理解など様々な条件が理想的に整った上で成り立つものと考えております。そのような条件が整わない段階で、社会党が政権をとったらいきなり自衛隊の武装を解除し、解隊するとは考えておりません。社会党は、日本の安全保障について無責任な党ではありません。この点は福山君にも理解していただきたい」
「それは、一応納得できる説明です。それでは、先生、社会党政権ができた暁には、どのようにして非武装中立に移行するのですか。具体的道筋をお示し願います」
「まず、自衛隊の存在を認めることからはじめたいと思います」
「エーッ、そんな。社会党にとっては、自衛隊は憲法違反じゃないのですか。党是を変えるお積りなのですか」
「党是を変えるわけではありません。『違憲合法』論です。『自衛隊は違憲だが合法である』と言う考え方です。ほかの例を用いて分かりやすく言えば、『一票の格差問題』と似ています。国政選挙衆・参議員の選挙において一票の格差があることは違憲だが、選挙結果は合法とすることが通念でしょう。あの例がそうです」
私は、石橋議員が言うことは納得できるものと思った。ただ、よくもそんな本音を初対面の一人の新品3尉に語ってくれるものだ、と驚いた。
「先生の言われることは納得できます。しかし、先生のお考えは社会党内で受け入れられ、許されるのでしょか」
「それやるのが、私が社会党書記長としての使命だと思っています」
「是非それを実現していただきたいものです」
「戦争を体験した私は、もう戦争は真っ平だ、日本は二度と戦争をしてはいけない――という思いが強くなりました。福山3尉も人類社会の究極の理想は非武装、すなわち武器を捨てることだとは思いませんか。また、日本軍国主義が国を破滅に導いたと言う教訓にも異論は無いでしょう。私は、当面、過剰な予算を防衛正面に投入し、軍国主義に回帰することは絶対に阻止しなければならないと確信しています」
「理想としては、先生が言われる通りだと思います。私は、戦後生まれですが、戦争の惨禍を知れば知るほど戦争は愚かなこととだという思いを強くします。しかし、現実問題として、日本を取り巻く現下の国際情勢では武器を捨てることは不可能だと思います。また、イデオロギーの選択に関して申し上げれば、ソ連・中国・北朝鮮などの共産党一党独裁下の人民抑圧の実態を見れば、私は、日本が共産主義国家になるのは絶対反対です。共産主義革命に対しては、自衛隊がクーデターをやっても阻止すべきだと個人的には考えています」
「クーデターとは物騒だね。絶対に止めてもらいたい。防衛大学校の初代の槙校長はシビリアンコントロールの重要性を学生に徹底したはずではなかったのかね」
「これは、失礼しました。しかし、共産党が総選挙で第一党になり、合法的に政権を奪取できた場合でも、私個人としては、これを何とか阻止したいと心の底から思っています。思い余って、クーデターという言葉を使ってしまいました。大部分の自衛隊幹部は共産革命政権の出現には強い拒否反応を持っていると思います。しかし、だからといって、短絡的にクーデターに踏み切るわけでもないと思います」
「自衛隊員の生の声を聞かせていただき有難う。私は、現実主義者です。社会党が選挙で政権をとりさえすれば、自衛隊員たちを意のままにコントロールできるなどと考えることも非現実的だと思います。団体交渉権もストライキ権もない一般公務員でさえも、簡単に解雇することは許されないし、できません。ましてや、自衛隊は国防を担う武装集国です。社会党政権が、まずやらなければならないのは、正しい人事と、正しい教育です。これらを通じて、社会党の考え方なり政策なりを完全に自衛官に理解・納得させ、社会党が行おうとする政策に協力してもらう態勢作りからはじめなければならないと考えています」
「石橋先生の、お考えは全く現実的ですね。驚きました。しからば、日本を取り巻く国際環境、ソ連や中国の脅威についてはいかがお考えですか」
「福山3尉は『日米安保至上主義』という視点で世界や国際情勢を見ているものと思います。物事は、視点を変えるとその景色・見方ががらりと変わるものです」
「それなら、先生の視点から『非武装中立』が成り立つ国際環境についてご説明願います」
「これまで、自民党政権の下においては、日・米・韓軍事同盟体制を基本に外交が行なわれてきたわけですから、その反動として、ソ連・中国など近隣諸国との関係は必ずしも友好的とはいえないわけです。北朝鮮との間には国交すらないという状況です。こんな国際関係をそのままにしておいて、自衛隊の解隊に手をつけるといっても、国民は納得しないでしょう。社会党政権としては、まず、ソ連との平和条約締結を目指して関係の修復を行います。また、北朝鮮については、南北の統一に寄与する外交努力を通じて、国交樹立を目指したいと思います。また、アメリカとは、日米安保条約を廃棄する代わりに日米平和友好条約を締結することを提案したい。その上で、日本自らの中立宣言と非武装宣言を行い、米・中・ソ・朝等関係諸国と日本の中立と不可侵を保障する、個別的ないし集団的平和保障体制を確立することを目指したいと思います。日本の中立・非武装政策を確かなものにするために、アジア・太平洋非武装地帯の設置、さらに進んで東西両陣営の対峙する全地域に、非同盟・中立の一大ベルト地帯を設定するというような、雄大な構想を実現させたいと思っています。そして、自衛隊の解隊は、これらの諸政策の進展状況を勘案しながら、慎重細心の注意をもって行う必要があると考えています」
「中々、雄大な構想ですね。東西対立の厳しさやアメリカの極東戦略・国益を考えれば、日本で社会党政権が誕生し、日米安保条約を破棄して、アメリカ離れが実現し、先生の描く構想がそんなに簡単に実現できるかどうか疑問です。アメリカは、社会党がアメリカから離脱して、共産主義陣営に鞍替えすると疑念を持つでしょう。在日米軍基地を失うことは、アメリカの極東戦略・対ソ封じ込め戦略が根底から瓦解する可能性があります。日本が社会党政権になれば、アメリカとしては、軍事力を発動して日本を再占領するか、CIAの謀略などで社会党政権を潰してでも日米同盟を維持することに執着するでしょう」
「いろいろ疑問があるのもわかります。しかし、福山君は敗戦に引き続くアメリカの占領体制がそのまま継続しているこの状態―日米安保体制―が本当に日本にとって良いと思いますか。私達が目標とする非武装中立は、少なくとも戦後のアメリカ占領状態から離脱すると言う点―アメリカの『ポチ』にはならない―では現状より優れていると僕は信じています」
「日本は、アメリカの支配下にもソ連の支配下にもならないのがベストだとは思います。しかし、アメリカはそれを許さないでしょう。社会党が『護憲、護憲!』と擁護するアメリカから下賜された憲法・9条を前提として、わが国の安全を保障するには、自衛隊の戦力不足を日米安保で補うと言う考え方は、現実的ではないでしょか」
「それもそうだが、下賜されたとはいえ、もはや日本国憲法はわが国の憲法なんだ。その憲法の9条を遵守するのは当然じゃないですか。ソクラテスも『悪法もまた法なり』と言いました。法治国家と自認する限り非武装を追求するのは理にかなっていると思いますが」
私は、船が宇久島に接近するまで延々2時間近くも、石橋議員とこのような論議を繰り返した。この論議を通じ、国防の方法について石橋議員と私の考え方に歴然たる違いがあることが分かった。とはいえ、石橋議員は、若い無名の自衛官の話を根気良く聞き、議員であることをおくびにも出さず、対等の立場で真摯に論じ合ってくれた。私は、石橋議員の人柄に強い感銘を受けた。故郷・宇久島に鳴潮丸が着くころには、人間としての石橋議員に心からの尊敬を覚えるようになったものだった。
とは言え、非武装中立実現までの過程を具体的に表した「石橋構想」が従来のユートピア的な社会党の国防論よりも一歩踏み込んだものではあるが、私にとっては、矢張り日本を取り巻く現実の世界情勢の中では、「絵に描いた餅」の域を出ないではないかと思った。
船内放送が流れた。「長い航海ご苦労様でした。間もなく宇久平(たいら)港到着です。お下りの方は、お忘れ物ない様ご準備ください」
私は、下船するために一旦船底の3等室に荷物を取りに戻らなければならなかった。
「先生、今日はお疲れのところを、こうやって押しかけて参り、長い時間不躾な質問をしましたが、丁寧にお答え頂き本当に有難うございました。お蔭様で、国防問題について視野を広げて頂いたような気がします」
「私の方こそ、陸上自衛隊・3尉の歩兵小隊長の本音を聞かせていただき感謝します。大村の歩兵連隊といえば旧陸軍時代も第46連隊が精強で鳴り響いていました。陸上自衛隊となっても、第16連隊は日本で最精強の連隊だと思います。国防は国家の一大事。どうか頑張ってください」
石橋議員の励ましは、昭和45年春の防衛大学校の卒業式で佐藤栄作総理大臣から頂いた訓辞よりも、私の心には強く響くものがあった。その後、社会党に対する憎しみ、敵愾心にも似た感情は幾分和らいだような気がした。石橋先生は2019年 12月9日、95歳で世を去られれた。
私が3等陸尉だった当時の国内外情勢が、半世紀たった今では激変している。社会党が掲げた非武装中立論もロシアのウクライナ侵攻などにより国民はその非現実性をリアルに理解しつつある。石橋議員が委員長を務めた社会党はなくなり、その後継党である社民党は、今(2022年5月の時点)では所属国会議員数2名(衆議院議員1名、参議院議員1名)となり風前の灯火のような状態である。平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』という言葉が哲理であることが理解できる。僅か半世紀くらいで、こんなにも変わるものか。私は揺れる客船の上で深い感慨に耽っていた。
稀に見る凪の中、船は間もなく宇久島に着いた。久しぶりに見る島の印象について、旅を終えた後に友人たちに送ったメールには次のように書いた。宇久島紀行の冒頭で、このたびの宇久島旅行についてのサマリーをご覧いただけば、後に続く紀行文全体の理解が容易になるのではないかと考えた次第である。
〈私が子供の頃にの宇久島の景色――段々畑の島――が耕作放棄のために激変し、全島がタブノキ、スダジイ、トベラ、センダン、ヤブニッケイ、ヤブツバキなどの照葉樹林で覆われていました。
メガソーラーや風力発電建設で島には大勢の業者が島外から来ており、賑わっていました。メガソーラーや風力発電建設に対しては、島民はさまざまな思いがあり、賛成派と反対派に分断されているようです。
メガソーラー建設のためには、密林を伐採する必要があり、膨大な量の廃材をどのように処理するのかが課題ではないかと考えた次第です。また、万万が一、自然発生的に野火が起これば、島にはこれを消火する有効な手立てはなく、大きな損害が出るのではないかと心を痛めております。
少子高齢化は深刻で島の人口が毎年50人単位で減少しているという。「磯焼け」という現象も発生し、海藻が消失し、それを食べる島特産のアワビ、サザエ、ウニが激減しているそうです。海を泳いで渡来したイノシシが増殖し、雉の卵や雛が犠牲となり、『雉の島』ではなくなっていました。一方ウグイスは、全島で素晴らしいBGMを流すほど増殖していました。宇久島に絶滅危惧種のヒゴタイ(日当たりの良い山野に生え、葉はアザミに似て切れ込みがあり、棘を有する)が自生していることも初めて知りました。
そのような趨勢ですが、島の人々はハンデをものともせず少子高齢化を克服すべく懸命の努力をされ、逞しく前進されていることに心強く思った次第です。環境は変わっても島の人たちの良き「心」は変わっていませんでした。島外から来られた宇久高校の平塚雅英校長が「島の人たちは礼儀正しい」と褒め、「このような環境に都会からの子供を受け入れる方策を考究しています」と申されました。私自身が失いかけていたものが島にはありました。数日間ですが、心洗われる思いでした。〉
桟橋には宮﨑泰三氏がBMWで出迎えに来ていただいた。車でシーサイドホテル藤蔵に移動し、一日かけた宇久島遠征を無事に終えた。夕食の場で翌日からの島めぐりについて宮﨑氏から見事なプランを説明していただいた。
島はメガソーラーや風力発電プロジェクトの工事関係者でにぎわっており、宿泊施設はほぼ満杯で、私は川端社長と竜口氏との相部屋となった。久しぶりの故郷は潮の香りを含んだ空気さえも心地良く感ぜられた。
私は、寝る前にホテルを出てすぐ傍の小高い丘に登った。南方五百メートルほどの沖に浮かぶ前小島(方言では「みゃごじま」)の周りには漁火が見えた。私はミカエル様を身近に感じながら、島めぐりの安全と良き思い出を頂けるよう、祈りをささげた。
部屋に戻ると、川端氏と竜口氏は旅の疲れからかすでに眠りについていた。私もすぐに夢路を辿り始めた。