望郷の宇久島讃歌(16)
第1章 望郷の宇久島
●ヤッチャンおばちゃん
ヤッチャンおばちゃんは、私の祖母の妹だった。叔母ちゃんの名前は西初子といった。もう数年前に、名古屋で100歳近い長寿を全うされた。おばちゃんの夫は鹿児島出身の人――勿論私の記憶には無い――だったが戦死したため、おばちゃんは戦争未亡人となった。
未亡人になったおばちゃんは宇久島に住んでいた。おばちゃんは、遺族年金のほかに縫い物や洗い張りなどの内職を続けて、女手一つで一人息子の靖弘兄ちゃんを育て、長崎大学経済学部を卒業させた。
天気のよい日におばちゃんの家に行くと、着物(和服)を解いて洗い、のりをつけて広げた布を、伸子(しんし)と呼ばれる両端に針を植えた何本もの細い竹の棒で引っ張って布地を展張して乾かしているのをよく見かけた。
私が初子おばちゃんを「ヤッチャンおばちゃん」と呼ぶようになったのは、靖弘兄ちゃんのことを「ヤッチャン」と呼んだからである。おばちゃんは、私の子供の目から見ても美人で優しい人だった。私が住む福浦村落から1キロほどにある小浜村落の小さな借家に住んでいた。母に連れられておばちゃんを訪ねると、よくお菓子をくれた。
ヤッチャンおばちゃんは、靖弘兄ちゃんが平戸の猶興館高校に入学するのを期に島を出て佐世保で働くようになった。私が佐世保の高校に入学すると、母からの手紙に「ヤッチャンおばちゃんから『隆ちゃんに遊びに来るように伝えてください』との手紙がきました」とあった。おばちゃんは松蔵ホテルの厨房で働いていると書いてあった。
ある日曜日の午後、私は佐世保駅前の松蔵ホテルに行き、受付におばちゃんのことを訊いた。すぐにおばちゃんが出てきて私を厨房の片隅に連れて行ってくれた。おばちゃんは、50歳過ぎと思われる割烹着の見知らぬ男の人を紹介し、「この人は牛島さん。おばちゃんがお世話になっとるとよ」と言った。俳優の三國連太郎に似たその男性は初対面だったが、優しく好人物であることが高校1年生の私にもすぐに分かった。牛島のおじさんは、「君がタカ坊か。初おばちゃんからよう聞いとるとよ。今から、何か美味しいものば作ってやるけんそこで座ってちょっと待っとって」と言うと、大きな冷蔵庫からタマゴを数個も取り出した。おじさんは、次々に卵を割ってボウルに入れ、大匙で砂糖を加え、さらにスプーンで何か液体を注いでかき回し、熱したフライパンに流し込んで特大の卵焼きを作ってくれた。大きな器に盛った熱々の卵焼きの味は格別だった。日頃、下宿の食事では足りない私にとって、ままさに〝干天の慈雨〟のようなものだった。
今にして思えば、あれはただの卵焼きではなく、だしを加えて作るだし巻き玉子だったのではないだろうか。それは宇久島では食べたことの無い初めての味だった。牛島のおじさんが、法律でヤッチャンおばちゃんとどんな関係になるのかは知らないが、私にとっては熱々の卵焼きを食べさせてもらったのを機に、この日から〝本物〟の小父さんになった。
松蔵ホテルを訪ねて以降、私は牛島のおじさんとヤッチャンおばちゃんの自宅に2ヶ月に一度程度遊びに行くようになった。自宅とはいっても、狭い屋根裏部屋だった。二人の自宅は、佐世保駅の近くの白南風(しらはえ)町の急な坂道を上ったところにあった。家主は80歳前後の老婆一人だった。
梯子と呼ぶのが相応しい、簡素な階段を登ると二人の部屋があった。部屋に入った後で入り口にある蓋のような戸を閉めると階下とは完全に遮断される。この部屋は、何だか牛島のおじさんとヤッチャンおばちゃんの〝隠れ家〟のように思えた。
部屋には小さな台所があり、二人は戸尾市場から買ってきた魚や野菜などを〝プロの料理人の腕〟を振るい調理し、私を歓待してくれた。その頃の私は、いくらでも食べられる〝特製の胃袋〟を持っていたので、「オイシイ、オイシイ」と職人技の味を有難く堪能した。
靖弘兄ちゃんは当時、長崎大学を卒業し名古屋市役所に就職していたので、おばちゃんは、一応子育てに一息ついた頃だった。戦争未亡人のおばちゃんが牛島さんに出会い、ささやかながら人並みの幸せを手に入れ、幸せそうに過ごしていることを、〝人生の綾〟を未だ十分には理解できない私にでさえも分かるような気がした。
宇久島を離れて、一人寂しい思いをしている私を屋根裏部屋で温心を込めてもてなしてくれた二人の温かい思い遣りが、今更ながら有難く思い出される。