望郷の宇久島讃歌(22)
第2章 宇久島紀行
l 5月16日 第一回目の島めぐり
宮﨑泰三氏のアレンジで宇久行政センターを訪問した。宇久島は2006年(平成18年)3月31日に佐世保市へ編入され、佐世保市の出先機関として宇久行政センターが置かれている。コロナ感染防止用のアクリル板を隔てて面談した。
私の行政センターに対するお願い(本音)は、「『宇久島奇譚』という本が島興しに活用していただけないだろうか」――というものだ。面談は挨拶の域を超えるものではなく、淡々と行われた。一応「仁義は切って置いた」という程度の面談だと思った。佐世保市から派遣された行政センター長は宇久島出身者ではない。私の僻みかもしれないが「宇久島は〝よそ者〟に支配されている」という思いが湧いた。
行政センター訪問を終えた一行は、予告もなしに田中稔元町長( 最後の町長(1998年9月〜2006年3月))の自宅を訪ねた。突然の訪問にもかかわらず田中氏は温かく歓迎してくれた。『宇久島奇譚』執筆について申し上げたところ、すぐに自ら車を運転され、諸所をご案内頂いた。
まずは松原墓地に向かった。紋九郎鯨伝説に出てくる山田捕鯨組三代目紋九郎のお墓があるという。お墓は区切られた一角に大小の石碑がひしめくように並んでいた。紋九郎の墓石のみならず紋九郎鯨の事故で遭難した72名の水夫を祭るものだそうだ。石碑は長い歳月で一部が風化し苔むしていた。『宇久島奇談』の原稿で書いた通り、私が大村市にある第16普通科連隊の小隊長の頃――半世紀ほども前――に、ガッパのミカエリに導かれて夢の中(あるいは現か?)で訪れたことがある場所だが、現に目前にある史跡を眺めながら「これがあの紋九郎鯨伝説の碑か!」と感慨深く眺めつつ、参拝した。
田中氏から、山田捕鯨組の72人の遭難は、伝説では紋九郎は三代目とされているが実は四代目の時だったという新しい説があることを教えていただいた。田中氏はその説について、宇久町史談会長の瀬尾泰平氏が書かれた『四代目山田紋九郎は存在した』という論文(平成26年2月)のコピーを私に下さった。
田中氏は次に宇久島の代官であった泊氏の邸宅(旧邸を解体後新築)を案内してくれた。泊邸は平(宇久島の中心都市)を一望できる小高い丘の上にあった。田中氏が泊邸を囲む外側の石垣と内側の石垣の積み方の違いを説明してくれた。古い時代の外側の石垣は自然に、無造作に積まれたものだが、内側の石垣は石済みの技法が進み一つの「核」になる石を6個の石で囲むように積む方法――「間知石済み」と呼ばれる――に進歩していることを説明したくれた。島にも絶えることなく海を越えて様々な文化や技術が伝わっていることの一端を示すものだ。
江戸時代までは、宇久島にも代官という強大な権力者・統治者がいたことを思い知らされた。子孫は島外に住んでいて、邸は主なき空き家であった。同家には膨大な古文書が未公開のまま蔵されているが、何故か頑なに公開を拒んでいるという。その古文書が公開されれば宇久島の歴史に新たなページが加わるのは確実だ。
田中氏曰く、「福山さんは宇久島のことはよう知らんもんね。今まで出された本には、生まれ育った小浜・福浦部落のことしか書いちょるもんね。今度出す本には平はもとより、宇久島全体のことも書いてください」と。それもそのはず、私が島にいたのは中学3年生までだった。そんな少年が島の〝都〟に当たる平を訪れる機会は少なく、また、全島を巡る機会などほとんどなかった。
私は生まれ育った小浜・福浦地域の一木一草まで知っていたつもりだが、島全体のことについてはほとんど知らなかったわけだ。その点、宇久町役場勤務以来8年間も町長を務められた田中氏は全島のことを隈隈まで知り尽くされていたのは当然だ。
田中氏は引き、続き山田捕鯨組三代目紋九郎の位牌を所蔵する山田時枝様方に案内して頂いた。山田様は1週間前に御主人を亡くされたばかりだという。私たちはまず御主人の位牌に焼香させて頂いた。時枝様は私の著書の愛読者であることを人伝に聞いていたが、このような機会にお目に掛れようとは。きっとミカエル様のお導きであにちがいないと思った。山田様より、紋九郎鯨の伝説「クジラとり」が書かれた『小学生全集 海をひらいた人びと』(宮本常一、ちくま文庫)や宇久島代官の泊家の歴史について記された『泊家根本書』などの資料を拝借した。
時枝様から、改めて紋九郎の位牌を見せていただき、それについて説明していただいた。位牌は、田中氏が「大名級では?」と言われるほどの大きさ(高さ約50センチ)だった。当時としては〝大企業〟である山田捕鯨組の組長である紋九郎は、宇久島の内外で重きをなす存在だったのだろう。
山田家を辞して車の位置に移動すると、すぐ傍にある宇久小学校の全校生徒が運動場で5月22日(日曜)に予定されている運動会の出し物であるソーラン節を踊っていた。田中氏によれば全生徒数は23名(学年平均4名弱)だという。ちなみに宇久中学校は17名(学年平均4名強)、宇久高校は18名(学年平均6名)だそうだ。小・中・高校の学童数を見るだけで、僅か数年間でその数が減少していることが分かる。令和2年8月1日現在で、島の人口は1,906人で、約2人に1人が60歳以上だそうだ。また、1年に50人のペースで人口が減り続けているという。宇久島では少子高齢化が加速度的に進んでいるのだ。
少子高齢化で、お祭りをするのも一苦労だそうだ。神輿の担い手も集まらず、平地区では台車に乗せて運んだり、神浦地区では軽トラック積みにしてようよう実施しいる有様だという。島のリーダーの一人は「昔は行列に参加出来る事や、まして神輿の担い手に選ばれる事自体が誇らしいことであったのに、情けない限りです」と話してくれた。
田中氏は最後の宇久町長として町が佐世保市に合併された理由について「巨額の負債を抱えどうしようもなかった」と、無念のお気持ちを吐露された。田中氏は突然の訪問にもかかわらず、島の史跡などを案内してくださった。島を代表する田中氏の誠心誠意の恩情に対して、私は頭の下がる思いだった。田中氏のお陰で、「自分も宇久島の人間の一人だ」という自覚と責任感が湧いてきた。
昼食は「かっちゃん」というレストランで宇久島名物のくじらカツカレーを頂いた。くじら独特の旨味がルーに溶け込み、新しい風味のカレーだった。私が子供の頃に、母が作ってくれた塩クジラ入りのライスカレーの味を思い出させてくれる懐かしい味わいでもあった。
昼食後、宮﨑様のBMWで時計回りに島めぐりに出発した。昔の島の道路は、砂利道 、砂道、泥道、けもの道など「舗装されていない道」がほとんどだった。それが今では島中が農道までも舗装されている。道沿いのむき出しの岩の壁面もコンクリートで覆われていた。道路のすぐ傍まで照葉樹林が密生しており、私の記憶にある宇久島を周回する道路と道沿いの景色は完全に一変していた。
宇久島名物の アコウの巨樹を見るために下山部落に向かった。その途中に、私が学んだ小浜小学の校跡に立ち寄った。同校は半世紀以上も前の、昭和43年には廃校となっている。昔の学校の面影を偲ぶ手掛かりは何一つなく、ただ雑草が生い茂る荒地と化していた。私が小学生の頃は子供たちの声が賑やかに響き渡っていたものだが。昔の子供たちのざわめきは今いずこに――と絶句するばかりだった。平家物語ではないが、諸行無常の悲しさ・哀れさを感じた。
小学校を後にして下山部落に行き、アコウの巨樹を見学した。アコウはクワ科イチジク属に分類される常緑の高木である。アコウは枝から垂れ下がる太い気根が数本束になって地中に潜り込んで、〝柱〟の役割をはたしている。空を覆うばかりに広がった大樹全体を数本の気根の〝柱〟が支えている。幹一本の一般の樹木のイメージとは著しく異なる姿をしている。イチジクの仲間であるアコウはイチジクに似た小さな実を付ける。私が子供の頃はアコウの甘酸っぱい実を食べたものだ。
アコウの巨樹のすぐ傍には、私の小・中学校のクラスメートである海辺侃君の家があり、折角の機会なので彼を訪ねた。海辺君は手入れの行き届いた芝生の庭付きの一戸建ての立派な家に住んでいた。海辺君には、その芝生の庭に加えて、小川を隔てて〝アコウの大樹が生えるもう一つの庭〟があるのだ。日本中でも、これだけの庭園を持っている人は稀であろう。コンクリートに囲まれ、庭のないマンション暮らしの私の生活環境とは比べものにならない。天然記念物級のアコウの巨樹に見守られながら悠々自適の人生を過ごしている川脇君が羨ましかった。
玄関の呼び鈴を鳴らすと彼が出てきた。彼との再会は中学卒業以来で、半世紀以上も会っていなかったが、昔日の面影は変わらず、すぐに心は通じた。海辺君は定年まで町役場に勤め、郷土の発展に尽くしたと聞いた。今も98歳のご母堂をケアしているそうだ。数年前に奥様を亡くされた彼は、一人でお母さんの面倒を見ているという。
海辺君は「オイの友達が『おい侃、お前は母ちゃんから看取られんごっせんといかんね』と冗談を言うとよ。そいけん、オイも気張って元気にして母ば看取らんといかんと思うちょるとよ」と、やや自嘲気味に言った。だがその言葉には決然たる覚悟のほどが感じられた。
母を広島県の三次市に住む弟夫妻に託し、何もしなかった私とは大違いで、海辺君は孝行息子だ。急速に少子高齢化が進む宇久島にあって、お母さんを介護する海辺君の老々介護はその象徴的な事例ではないかと思った。
樹齢数百年のアコウの巨樹から見れば、人生の移ろいは早いものだ。60年以上も前には、うら若き少年だった二人は、今や75歳の後期高齢者になっていた。悠久の自然に比べれば人間の人生は余りにも短く、かつ儚いと思った。
下山部落を出て私の家がある福浦部落に向かったが、村への入り口を間違え通り過ごしてしまった。道路や沿道の景観が変化し、土地勘が利かなかったようだ。ユーターンする手もあったが、それは止めた。荒れ放題の我が家を同行者に見せるのは忍びないと思った。廃屋を見ればその哀れさに落涙するにちがいない。同行者には見られたくないというのが本音だった。後で、私一人で自宅周辺を散策することにした。
下山部落を出て、厄神社に向かった。厄神社は宇久島西部・本飯良地区の南南西に突き出た小さな岬――厄神鼻――の小高い山(標高164メートル)の上にある。厄神社は、鎌倉時代に宇久島で流行した疫病を鎮めるために平家盛公によって建立されたと伝えられ、地元では「やっじんさん」と親 しまれている。この神社は社殿のすぐ裏手には、高さ10m以上もある巨大な岩がそびえている。この巨岩には模様ないしは刻印のようなものが彫られていて、縄文時代には日時計であったという言い伝えもあるそうだ。また、巨岩と巨岩の隙間には数十体にのぼる観音様などの仏像が祀られている。
島宇久島そのものがパワースポットであるが、中でも厄神社周辺は島のパワースポットの中心的な場所になっている。厄神社の周りには、冬にはヤブツバキが、また、春には山桜が咲き誇り、宇久島の中でも最も神聖・清浄な場所であり、神社周囲の自然――岩や草木など――には神や仏が宿ると言われている。
厄神社の麓に拡がる見事な白砂の汐出浜に到着した。『宇久島奇談』に出てくるバルチック艦隊のブハウォストス大佐の遺体が打ち上げられ、埋葬されたのもここ汐出浜であった。汐出浜は長崎県下では透明度抜群、波穏やかで、周囲の緑豊かな海水浴場である。
私達が乗ったBMWが汐出浜に近づくと、浜には自転車に乗った警官と私と同年代に見えるお婆さんが対面して話をしているのが見えた。近づいてみると、お婆さんは右人差し指を怪我して血を流していた。お婆さんは巡回してきた警官(宇久島には従来2名の警察官が配置されていたが、メガソーラー関連の労務者が急増し、1名増員されたとの由)に怪我の事情について説明しているところだった。宇久島では昨日(14日(土))から、ウニやサザエなどの磯物 (いそもの) の採取を解禁する〝磯開き〟が始まり、そのお婆さんは汐出浜の磯で石を起こしてウニを捕っていたところ、誤って石で指を挟んだとのことだった。
お婆さんは宮崎様と同じ宮の首部落の方だった。宮崎様をしげしげと見ていたが、突然相好を崩し「泰三、大きくなったね」といった。その日、二人が再会したのは40年振りだそうだ。宮崎様は再会をよろこんだものの、お婆さんの言葉――「大きくなったね」――の意味を「太った」を解釈し、苦笑いしていた。
そこへ偶然に一人の青年が「何事か?」と、自転車でやってきた。私が、「宇久島に旅行で来たのですか」と尋ねると、彼は「ある旅行会社の委託で宇久島の観光資源の調査をしています」と宇久島巡りのサイクリングの理由を述べた。言葉から日本人ではないと思い尋ねると「上海から来ました」と答えた。自衛隊のインテリジェンス部門で働いた経験のある私は不審に思った。
彼は、中国軍情報部の関係者の可能性があると疑った。防諜(スパイ防止)制度がほとんどない日本では、中国は堂々と軍事的に関心のある日本各地を調査・偵察できるのだ。台湾有事にせよ朝鮮半島有事にせよ宇久島は佐世保にある米海軍基地の出入り口を押さえる戦略的な〝要地〟である。ここ汐出浜は上陸作戦の適地であり、彼が撮った写真は中国軍の作戦に利用される可能性が想定された。
さらに疑念・懸念が湧いた。1週間後には佐世保にある陸上自衛隊水陸機動団と海上自衛隊が宇久島の大浜海水浴場(キャンプ場)で離島奪還作戦――尖閣諸島奪還を想定していると思われる――が実施されるという。上海から来たという青年の本当の目的は、演習を見学する宇久島の人たちに紛れ込みこの上陸作戦の全貌を録画することにあるのではないかと思った。平和ボケ国家日本では、誰もこのような諜報活動を気に留める人もなければ、組織もない。これが逆の立場で、日本人が中国軍の上陸作戦を録画しようものなら、直ちにスパイとして検挙・拘束されるのは火を見るよりも明らかだろう。
ウクライナ戦争が継続される最中、中国は虎視眈々と台湾侵攻――必然的に、尖閣諸島侵攻も連動していると考えられる――を準備しているに違いない。中国青年の宇久島偵察はその一環だと考えれば首肯できる。逆に、日本の青年が中国で軍事関連目標を写真撮影すれば、即座に〝スパイ〟として検挙・拘束されるのは、これまで度々起きた〝日本人スパイ逮捕事件〟を見れば明らかだ。いずれにせよ、この平和な宇久島で中国軍の密かな蠢動では――と思われる青年の行動を目撃したのは、貴重な体験だった。
宮﨑様が、付近に縄文時代の貝塚跡があるというので探したが見つからなかった。宇久島には古墳時代の遺跡が九ヶ所確認されているという。中でも宮の首遺跡からは古墳時代前期の土師器(高杯の脚部)、ぎっしり詰まった大量の大形アワビ貝層、馬骨などが見つかっているという。
私はこれまで、宇久島は無人島で江戸時代辺りから九州本土から移住して人が住むようになった――と思っていたが、とんでもない誤りだった。あまりにも故郷のことに無知だったことを恥じる。
浜辺の傍の草むらを歩いていると1.5センチほどの昆虫が沢山飛び出した。私が子供の頃に毎日飽くことなく遊んでもらったキリギリスとヤブキリの幼虫だった。それを見ると昔の少年に戻り、興奮し、まるで昔の友達に会ったような気がした。人は本来生まれ育った環境――田畑、河川、草木、動植物――と密接に繋がっていることをこの度の里帰りで実感した。。私は中学を卒業後に島を離れて都会に出たために、半世紀近い断絶があったが、こうやって再び馴染みのキリギリスとヤブキリの幼虫に巡り合って興奮するのはその証ではなかろうか。
キリギリスとヤブキリは孫へのお土産として何としても欲しかったものだ。草むらをかき分けて20匹ほど捕った。汐出浜に住むキリギリスとヤブキリの命は半年ほどだが、数千年もの間、連綿と世代を重ねているのだ。同様に、宇久島に住む人たちも 悠久の昔から世代を繋いできたのだ。
いよいよ、『宇久島奇談』の原稿に出てくるバルチック艦隊のブハウォストス大佐の霊と邂逅した厄神社に行く番だ。神社は厄神鼻という岬の付け根付近にある急こう配の小山の上にある。宮﨑様が運転する優れもののBMWはこの急坂をたやすく登坂できた。私はトレーニングの好機と思い、車を降りて徒歩で登坂した。
神社を参拝していると、社殿の背後の巨石の方向から人の声とチェーンソーの音が聞こえてきた。山林に覆われたその方角を覗いてみると、数名の男性が巨岩の周りの樹木を伐採しているところだった。伐採作業を取り仕切っている人が偶然に宮﨑泰三氏の親戚の宮﨑吉男氏だった。
吉男氏に伐採作業をしている訳を聞くと、巨岩を覆っている樹木や蔦を取り除いて見えやすくするためだという。
吉男氏によれば、この巨岩には二つの謎があるのだという。一つ目は、巨岩の頂上に〝古代文字〟のような紋様があるのでは――という謎。もう一つの謎は、二つの巨岩が古代の天文学に関する〝仕掛け〟を秘めているでは――という謎。吉男氏は、厄神社背後にある二つの巨岩の隙間に、マヤの遺跡に似た〝仕掛け〟があるのではないか――という仮説を披露した。
マヤの遺跡は、春分の日と秋分の日の夕暮れに、エル・カスティージョ(スペイン語で「城」の意)と呼ばれるピラミッドの北側の階段に、沈む太陽がヘビのような影を投影する〝仕掛け〟になっているのだという。吉男氏は、ここ厄神社の巨石にもマヤの遺跡に似た季節を正確に把握するための〝仕掛け〟があるのではないかと考えているそうだ。
巨岩と言えば、宇久島の南方約4キロメートルにある野崎島にも謎の巨石がある。野崎島は古くから神道の聖地として知られる沖の上島神社(慶雲元年(704年)創建)が鎮座しており、島そのものが南シナ海を航行する船の守り神として崇められてきた。厄神社と同様に、沖の上島神社の社殿の背後には高さ24メートルの巨大な二本の石柱があり、その上に8畳(横幅5.3メートル、奥行き3メートル)ほどの巨石板(30トン以上と推定)が乗っかっており、その形は鳥居に似ていて王位石 (おえいし)と 呼ばれている。
王位石は険しい野崎島の山の7号目あたりにあり、傾斜は45度ほどの急斜面にある。このような場所に人間の力でこの巨石のモニュメントを作るのは不可能だろう。実に不思議な巨石の遺構である。
隣り合う宇久島と野崎島にこのような謎の巨石の遺構があることは極めて興味深い。人間の力を超えた神秘的な働きがあったのだろうか。
巨大石と言えば、熊本県上天草市の矢岳巨石群遺跡(白嶽森林公園)や奈良県橿原市の岩船山(標高130メートル)頂上近くにある益田岩船(ますだのいわふね)と呼ばれる巨大な石造物――東西11メートル、南北8メートル、高さ約5メートル、重量は推定800トンにもなる巨大な花崗岩――が頭に浮かぶ。また、外国では英国の環状列石(ストーンサークル)が有名だ。
吉男氏曰く、「野崎島の北端にある王位石と同様に厄神社の巨石も謎を秘めている。考古学や古代史などには素人の私だが、少しでもその謎を解明したいと思い、こうやって薮払いをしているのですよ」。吉男氏は何というロマンと情熱の持ち主だろうか。吉雄氏が、ロゼッタ・ストーンを解読し、ヒエログリフ(古代エジプト象形文字)を解明したフランスのフランソワ・シャンポリオンのような偉業を達成されることを祈った。矢張り、ミカエル様が一緒におられるからこそ、吉男氏のような方と偶然に出会うことが出来たのだろう。
厄神社の後は平の家守公が漂着したとされる火焚崎に移動した。火焚崎の名前の由来は、「家盛公が嵐にみまわれ漂着した際、付近の漁師が家盛公を救け、この地で火を焚き、暖をとらせたという説」と、「沈む夕日が火を焚いた様に赤く染まることからの説」がある。私はいずれの説も正しいと思う。
火焚崎には新たなモニュメントが出来ていた。地元宮の首出身の古賀勇吉氏が亡き父親の力氏を供養して建てた「力の鐘・力の輪」というものだ。「力の鐘・力の輪」の由来については、力氏が生前残した「世界平和、西海の航海安全、漁民の豊漁、夢をもて」というメッセージが、ステンレス版にほり刻まれていた。最新のモニュメント――人工物―― であるが、なぜか火焚埼の自然や景観とマッチしていた。
火焚埼の後は、三浦の大ソテツの旧跡――三浦神社――に向かった。三浦の大ソテツに関しては『宇久島奇談』の稿の中で「三浦神社の大ソテツにまつわる悲恋物語」として取り上げている。三浦神社の社殿は新築されたばかりだったが、まだ完成されてはいなかった。扉は閉鎖されており、お賽銭をあげ、鈴を鳴らして参拝することはできなかった。
三浦神社参拝の後、私たちは、入り江(筆者は勝手に「三浦の入り江」と呼ぶことにした)を隔てて三浦神社の西側にある乙女ノ鼻――小さな岬――に向かった。島に伝わる話によれば、「神后天皇が朝鮮出兵の際この地に立ち寄り、その軍の兵士と地元の娘――乙女――が恋に落ちたが、ついに朝鮮に出兵する日を迎え、叶わぬ恋に落胆した娘が崖――乙女ノ鼻――から身を投げた」という。私達は、乙女が飛び降りたという10メートルほどの崖の上から落下地点の岩だらけの海岸を感慨深く覗いた。乙女の悲しみや絶望感やいかばかりだったのか。いにしえの大和の兵士と乙女の悲恋の話は、聞く人の心を揺さぶる。
乙女ノ鼻の後は、三浦神社の近傍にあるというヒゴタイという珍しい植物の自生地を目指した。宇久島に向かう客船の中で、竜口様が「妻から宇久島にはヒゴタイという希少な野草・花があると聞きました。宇久島のお土産に『写真を撮ってきて』と頼まれました。妻の話では三浦神社に近い場所がその群生地があるそうです」と言われた。行政センター訪問の際、宇久町観光協会の村田信一会長に訊ねたところ、ヒゴタイが自生する場所は三浦神社のすぐ近くだと教えてくれた。そして、神社とヒゴタイが自生する場所の位置関係をメモしてくれた。三浦神社を出て、そのメモを頼りに、周辺に気を配りながら車で野道を移動していると「ヒゴタイ自生地」という小さな看板が見つかった。一帯は鉄条網の柵で囲われていたが、扉を開けて入った。数センチ伸びたアザミに似た植物の芽が多数生えていた。私たちはそれがヒゴタイだとは気付かなかった。アザミの周囲にヤマユリのような植物が生えていた。私は得意げに「これがヒゴタイだと思います」と、一行にそう説明した。しかし、それは誤りだった。
帰京後植物図鑑やインターネットなどで調べてみると「ヒゴタイの葉はアザミに似て切れ込みがあり、棘を有する」と書いてあった。やっぱり、宇久島の「ヒゴタイ自生地」に生えていたアザミに似た植物こそがヒゴタイだったのだ。未だ、未成熟で花が咲いておらず、ヒゴタイとは判別できなかった。
植物図鑑などによれば、ヒゴタイの花期は8月から9月で、花茎が1~1.5m程度直立し、その先に直径5cm程の球形の花が咲くという。花は瑠璃色の小さな球状に固まっており、一株に複数咲くそうだ。
その分布は、朝鮮半島の南部から、西日本の所々に咲くという。日本では愛知県、岐阜県、広島県と九州の特定箇所で見られる。九州中部の九重山から阿蘇山周辺の草原では、元々自生していたが、今では野生以外に種を蒔いて増やした株も見られるという。
ヒゴタイは絶滅危惧II類 (VU)(環境省レッドリスト)だという。宇久島は全島がヒゴタイの里になるかも知れない。ヒゴタイの咲く頃に宇久島に帰ってみたいものだ。
この日は宇久島をくまなく巡ってみたいと思っていたが夕暮れが迫り、途中で切り上げざるを得なかった。最後の訪問地を城ケ岳の展望点とし、宮崎氏が運転するBMWが、密生した林の中の狭い急斜面の道路を登坂した。頂上付近に森林を切り開いた展望点があった。夕暮れ時だったが、海の上に前小島、六島(むしま)、野崎島、納島(のうしま)、小値賀島、寺島、斑島(まだらじま)がまるで浮かんでいるかのように見えた。
夕食のため、あられ茶房という店に行った。店主の柿田祐哉氏は世界放浪の体験があるという。宇久島という小島から世界を放浪して得た感懐はいかなるものか、興味津々。彼こそが新しい宇久島論を語れる人かもしれない。宮崎氏が、たまたま店内で同席した宇久高校の平塚雅英校長から翌日訪問のアポイントを取ってくれた。人との出会いと語らいこそが最大の情報活動だ。ミカエル様がお導き下さっていることを実感した。