ハーバード見聞録(44)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。

今週は、前週(11月7日)の「山本五十六」【中段】に引き続き【後段】を掲載します。


【前段】で述べたとおり、私は山本五十六帝国海軍少佐に出会った。いや、正確に言えば、ハーバード大学のLAMONT図書館のアーカイブに所蔵されている「COMMITTEE ON ADMISSION」という表題の入学手続き書類にSPECIAL STUDENTとして入学するに際し記入した、山本少佐が薄めの鉛筆で書いた自筆の署名に出会うことが出来た。奇しくもその日は、真珠湾攻撃が行われた64回目の開戦記念日の05年12月7日のことだった。
不思議なことに、読み終わった後のある日の夜、山本元帥が元帥の階級章が付いた白い軍服で夢に現れ、「夢の中の会話」をした。元帥の御尊顔は開戦記念日に合わせて放映されたNHKの番組で見た連合艦隊指令長官時代の面影であった。私も、夢の中とは言え相当緊張したが、色々と質問を試みた。元帥は快く、応じてくれた。
以下【前・中段】に引き続き、夢の中で会話の記憶に基づいた、山本五十六元帥との対談記録である。誤りや、問題があるとすれば、それは私の夢の記憶ゆえのことでありご容赦を頂きたい。


筆者:日米、日中を含む日本の外交についてどう思いますか。
 
元帥:福山君もアメリカに来て、アメリカ人はもとより中国人、韓国人、インド人、南米の国の人々、ヨーロッパ人など世界中の国民・民族と接してみて、それぞれが独特の考え方や文化・習慣を持っていることを肌で感じたことと思う。四面環海の日本人には頭の中で「国際化」と言う意味が分かっても、世界の人々と一緒に暮らすことが如何に難しいかは、実際に長期に亘り外国で暮らしてみないと分からない。そう思わないかい。

我々個人レベルでもそうであるが、ましてや、日本と言う国家が、世界の中で平和と繁栄を将来に亘って獲得するのは極めて困難なことである。

日本は、1853年ペリーの来訪で門戸を開き、1868年明治政府が誕生したが、その後80年を経ずして、大東亜戦争に突入し、一敗地にまみれた。世界に伍して、日本と言う国家を営むことが如何に困難であるか、改めて思い知るべきである。

戦後、日本は、海洋国家でアングロ・サクソンの米国との紐帯を確保するこを大東亜戦争の最大の教訓とし、冷戦時代には、日米安保条約により米国に国家の安全保障の一半を委ね、一応成功したかのように見える。

冷戦時代が終わり、ソ連崩壊後、中国が台頭し、「9.11」を契機に世界規模のテロ戦争が始まった今日、日本は如何なる外交方策により平和と繁栄を追及すべきか、私にも確たる回答は見出せない。敢えて、私なりに申し上げれば、日本の外交には次の二原則があるものと思う。
 
①日米関係の重要性は「9.11」以降も不変
② 日本外交の基本は敵を作らないこと
 
①に関しては、特に軍事・安全保障面でどこまでの分野・範囲で、どれだけの規模でアメリカ付き合うのかが問題の焦点だろう。客年12月、米ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)のアジア上級部長を退任したマイケル・グリーン氏が、「『ブーツ・オン・ザ・グラウンド』のような貢献を継続的に行えば、米国は日本を無視できない」と述べ、強固な日米安保関係の為には、安保政策面での日本の更なる協力が必要との認識を示した。その上で、日米安保条約第6条で在日米軍の作戦行動範囲を定めた極東条項について、「極東条項は時代遅れだ。テロ対策などのためには、もっと広く考える必要がある」と指摘し、日本の更なる役割分担の拡大を求めている。

日米安保条約の信頼性を高める為には、対米安保貢献が必要である反面これを拡大すれば、世界的広がりの反米世論からの反発が予想される。従って、「どこまで対米安保協力を行うか」と言う重い課題が浮上する。

日本は従来、「アメリカが我が国に与えた日本国憲法上の制約」を口実に、日米安保条約に対する協力を局限することが出来たが、将来憲法改正が行われれば、対米安保協力をどこまでやるのか、その歯止めを自主的の設定する必要に迫られ、新たな国家戦略策定の一環として、対米安保貢献を含む「日米安全保障条約の見直し」が不可欠となるだろう。

②に関しては、「台頭する中国と日米関係を含む諸問題で如何に折り合いを付け、良好な日中関係を構築・維持するか」が焦点であろう。従って、この問題は米国の対中国軍事戦略との関係から、①とも深く係わる問題である。即ち、安全保障の分野においては、対米関係を重視しすぎると、日中間系が悪くなると言う「二律背反」の関係があるものと思う。

今後、米中安保関係において緊張が高まれば、日中関係を円滑にすることは益々困難になるだろう。そのような状況下にあっても、「日本外交の基本は敵を作らないこと」を旨とし、我々は叡智を尽くして日中関係の改善・維持に努めるべきである。

私に免じて、極論を言わせて貰えば、日本にとっては「ハルノート」を受け容れた方が原爆を二発も食らった敗戦の惨状よりもましだったことに思いを致せば、日中間の諸問題解決における妥協のための選択肢は幾らでもあるはずだ。我々日本人の文化は古来中国に由来しているものが多く、中国が共産主義国家であるとは言え、心情的に相互理解するのはアメリカよりも容易な筈である。

米中の狭間で、極めて困難な生存戦略であるが、大東亜戦争の開戦・敗戦から学ぶ生き残りの戦略があるはずだ。福山君もこの問題と向き合い、世論に問いかけて欲しい。制服軍人は平和の時も戦時も、現役の時も、退役後も可能な限りの方法でお国のために尽くす必要があると思うよ。せっかくハーバード大学アジアセンターで見聞を広めたからにはその任は重いぞ。
 
 私は、「元帥、分かりました。努力します」と答え、敬礼をしようとしたら突然軍艦マーチが聞こえてきた。すると、元帥の姿がス~ッと消えるのと同時に、目が覚めた。ボーゲル邸の天窓が明るくなり始めていた。「なんだ、夢だったのか」と言いつつ、周囲を見回したが山本元帥の姿はなかった。
 
【後記】
 
本稿では、山本元帥がメディアについて語る部分があるが、満州事変から敗戦までの15年間の「言論空間」――特に戦時中における軍とメディアの関係――について客観的・精緻に検証・分析をした秀逸な著作が世に現れた。
それは、里見脩氏(元時事通信記者、社会情報学博士)の「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日)という本だ。メディア出身の鬼才が、メディアが触れられたくない「過去」を俎上に挙げるもので、今日のテレビ・新聞の姿勢を評価する重要な指標となりうる傑作だ。

平時・戦時を通じ、メディアの諸相・本性を理解するうえで好古の文献である。現在、「左」に振れている朝日新聞や毎日新聞であるが、当時は「戦争活用経営戦略」を採用していたことが如実に記載されており、実に興味深い。

里見氏の論を要約すればこうだ。

哲学者ヘーゲルに次の様な言葉がある。「過去を学ばない者に未来はない。過去の過ちの繰り返しがあるだけだ。過去を学んだ者だけが、繰り返しを脱して、未来の扉を押し開けることが出来る」――

満州事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争の敗戦に至る十五年間は、「戦時期」と呼称される。敗戦以来七十年余を経たが、果たして私たちは、戦時期と言う過去の時代と向き合ったのだろうか。本書は、戦時期における「言論空間」を検証し、それが現在まで引き継がれていることを問い掛けたものだ。単なる「メディア批判」を念頭に置いたものではなく、「事実に語らせる」という事実の提示を心掛けた。

戦時期の言論空間について多くは、軍部が主導する政府が自由な言論を抑圧したと捉えてきた。つまり、政府を「加害者」として、新聞、および国民を弾圧される「被害者」とする視点である。確かに、そうした弾圧は存在した。

しかし、弾圧ばかりでない事実も、数多い。新聞は「報道報国」というスローガンを掲げた。これは報道を通じて国に尽すと言う意味だが、政府が強制したものではなく、新聞側の自発的なものである。また言論統制の総本山と言われた政府機関内閣情報局の最高幹部には新聞出身者が就任している。つまり、ステレオ・タイプな視点では戦時期の言論空間の実相は把握できないのである。

マス・メディアには2つの顔がある。一つは社会に情報を提供するという「公的」な顔 もう一つは企業という組織の営利追求を目的とする「私的」な顔である。つまり言論は、公共性と営利追求の微妙なバランスの上に成り立っている。

「戦争は、新聞を肥らせる」という言葉がある。新聞は愛国報道を展開したが、その根底には戦争をビジネスのビッグ・チャンスと捉えて営利を追求する企業意識が存在した。  この旺盛な企業意識は「新聞資本主義」と呼ばれている。営利追求という下部構造が、言論と言う上部構造を規定すると言う意味だ。新聞は「新聞資本主義」を優先させ、バランスを自ら崩し、言論の本質を喪失した。国民も日清、日露戦争の勝利を根拠として、「聖戦完遂」を支持した。「戦争に反対」と言うのは、正確には「負ける戦争は嫌だということ」(福田恒存)という指摘があるが、日中戦争など勝ち戦では歓呼して皇軍兵士を讃えた。つまり新聞も国民も「愛国」という言葉の下で、進んで政府と一体化したのである。

重要なことは、こうした意識が現在も継続している点だ。言論は、政府と一定の距離を置くという意識を保持して初めて、正統性、信頼を得る。政府関係者と嬉々として飲み食いするという「もたれ合う」は、かつて軍人と料亭で会合を重ねた新聞の姿と二重写しに映じる。

また「新聞資本主義」つまり営利追求という企業意識が優先すると、歪みが生じる。フェイク・ニュースや、ヤラセは、こうした意識が要因となっている。ヘーゲルの言葉が指し示す様に、「過去に学ぶ」ことを通じて、過ちの繰り返しを脱することが、必要ではないだろうか。
 

 

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