望郷の宇久島讃歌(13)

第1章 望郷の宇久島

●鴛縁穣先生の〝伝説〟

「鴛縁穣先生は、武家の出じゃけんね。」という切り出しで、母は私に繰り返し「鴛縁先生伝説」を語って聞かせたものだ。母は、島では見かけることがない理想の男性像として、鴛縁先生を提示し、私の目指すべき具体的な目標を提示しようとしたのだろう。江戸時代の身分各付の「士族」がほとんど存在せず、所謂「民、百姓・漁師」ばかりの宇久島では、旧松浦藩士の流れを汲む小浜小学校校長の鴛縁先生は格別憧れの所在だったにちがいない。「先生は、いつも背筋をピンと伸ばされ、真冬でも、朝起きると井戸端で冷水を浴び、身を清めちょった」と続けた。
 
 当時、私の叔母(父の妹)の茂子が小浜小学校教員で、鴛縁先生の下にいたご縁から、先生は時々我が家に遊びに来られていたらしい。私は、当時小学校にも上がらない時分で、先生が夕方我が家に来られ、五右衛門風呂を使った後、酒好きの祖父と囲炉裏を囲んで芋焼酎を飲んでいたことなどをおぼろげに覚えているくらいだ。
 
「先生は、酒も強かったとよ。武家の出じゃけん、いくら飲んでもちっとも乱れんかった」と母は言った。祖父は酒好きのくせに弱く、すぐに酔っぱらい、クダを巻き、母や祖母につらく当たるのが常だった。母はその事を念頭に、皮肉をこめてそう言ったのだろう。「先生は背も高く、太か骨格で島の人間とはどこか違うちょったよ」とも母は言った。
 
私が物心付くと、母は鴛縁先生から手紙が来るたびに私に見せてくれた。太い万年筆による豪快な筆跡は、先生の骨太なお人柄を彷彿させるような気がした。「鴛縁先生は、新制高校出身の先生方とは違うて、長崎市の師範学校を優等で卒業した人たい」と母。当時島では小中学校の先生はエリートであったが、師範学校出身者はその中でも超エリートで、ほとんどいなかった。
 
 私が小学校に入学する頃には鴛縁先生は、既に島を離れていた。小学校三年生頃だったろうか。鴛縁先生から母宛の手紙の中に先生御一家の写真が同封されていた。先生は、私が想像していた通り立派な体格で、彫りの深い端正な容姿の方であった。先生の奥様にはあまり関心が無かったためか、そのイメージについてはほとんど記憶にないが、写真の中の二人の男の子には強い印象が残っている。私と同じ年格好の二人の少年は、学生服姿で、父母の傍ら両手を指先までキチッと伸ばし、「気を付け!」の姿勢で写真に写っている。見るからに賢そうだった。
 
「鴛縁先生の息子さん達は、お父さんに似て秀才じゃろな」と母は言った。精神障害を持つ私の父に比べ、当然立派に見える先生、そしてその子供達もやはり私より賢いのは当たり前だろうと思った。いずれにせよ、その一枚の写真に写っている先生の家族は、当時の私には理想のファミリーに見えた。
 
鴛縁先生との対話1093
 中学三年の初夏の頃だったろうか。鴛縁先生が島に来られ、我が家に立ち寄られた。私は直接先生にお目にかかったが、間近に理想の人間を見る思いだった。私が想像していた通り、彫が深く背筋をピンと伸ばし、骨太で凛とした空気を漂わせる紳士であった。ただ思ったより色が浅黒くきめ細かい肌は、日本人というよりはどこかインド人のような印象であった。また、教育者というよりもなぜか軍人のような雰囲気が感ぜられた。やはり士族のご出身だからだろうか。
 
 久しぶりに我が家を訪れて歓談された後、私は母と共に先生を平港まで見送るため、3キロ程の田舎道を先生と同行した。先生は歩きながら、「隆君、将来に向かって頑張れよ。お母様の為にもな。私の長男も佐世保北高の一年生だ。将来は医者を志している。君も北高を受験すると聞いたが、受験の大敵は女の子を好きになることだ」と私を励ました。先生の口から「受験の敵は女の子」と聞くことに何だか意外な気がした反面、思春期を迎えた私にとって、心の内を見透かされたような気がしてドキッとした。
 
先生は話題を転じてなおも話された。
 
「僕が教員生活を通じ受け持った最も頭の良い子は、長男と同じ年の渡辺秀文秀文君という子供だったよ。私は当時、調川(つきのかわ)中学校の校長だった。渡辺君は調川町(現在は松浦市と合併)の炭労住宅に住み、母子家庭で貧しく、ある時家庭訪問したら、何と蜜柑箱を机代わりに、裸電球の下で勉強していたよ。知能指数が158で、しかも努力家だった。今年の春、佐世保に開校した国立高専の一期生に合格したよ」。
 
 翌春、私も佐世保北高に入学したが、鴛縁先生の御長男にお目にかかる機会は無かった。入学から2年後、校内の掲示板に張り出されている長崎大学の医学部合格者名簿の中に、鴛縁先生の御長男の龍瑠君の名前があるのを知った。
 
 翌年春、私は防衛大学に進んだが、母の感化のせいか、佐世保の高校に入学した後からも鴛縁先生に年賀状などで時候の挨拶をすると共に近況を報告するようになった。先生は私の近況(一応順調に運んでいた)を喜んでくださり、例の太い万年筆の達筆な文字で御返事を下さったものだ。先生との交信はその後自衛隊の幹部に任官した以降もしばらく続いたが、転勤の多い私は、いつしか先生との音信を途絶えさせてしまった。
 
 しかし、母からは、その後もしばらく先生の近況を知らせてきた。「先生は狭心症になられたが、お兄さんが近くで開業医をされているし、御長男も医者だそうだから大丈夫だということです」という母からの手紙を覚えている。そしてまた時は流れ、いつの間にか鴛縁先生との音信はプッツリと途絶えてしまった。
 
●鴛縁先生との〝再会〟
 
 それから20年以上も経た2002年春、私は佐賀県目達原駐屯地の九州補給処長に着任した。九州補給処は、平時も有事も、九州に展開する陸上自衛隊部隊に対する弾薬や燃料などの軍需物資の補給と整備を担当する任務がある。着任して間もない5月頃だったろうか、部下の石橋2尉の案内で武雄嬉野カントリークラブに赴いた。ゴルフのプレー終了後、食堂でお茶を飲んでいた時何気なくホールインワンを達成した人達の名前を記したボード(名板)を見ていると、その中に、立て続けに2回もホールインワンを達成した「鴛縁龍瑠」という名前があることに気付いた。
 
 もしやと思い、支配人に聞いてみると、「鴛縁先生は平戸のある病院の院長先生です。ご住所は松浦市だったと思います。年齢は福山処長と同じくらいでしょう」という回答だった。「鴛縁先生の御長男に違いない!」を直感的に思った。失礼をも省みず、支配人から教えてもらった宛先に手紙を出した所、丁重な返事を頂いた。案の定、鴛縁先生の御長男の龍瑠氏であった。
 
 その年の夏休みに妻と二人で、私有車で、平戸島に日帰り旅行に出かけた。長崎自動車道を西進し、武雄市を経て松浦市に入った。同市内には、在韓国防衛駐在官時代(1990~92年)に私を親身にお支援してくれた尾崎1曹(当時、東京の陸上幕僚監部調査部勤務)が住んでおり、彼の家を訪問する予定だった。当時、尾崎1曹は曹長に昇任し、出身地の松浦市に近い西部方面普通科連隊(佐世保市の相浦駐屯地)に勤務していた。
 
尾崎曹長とは、あらかじめ彼の自宅近くの路上で落ち合う約束をしていた。約束の場所に行く途中でふと頭に閃いた。「尾崎君の家は、松浦市の御厨だったなあ。そう言えば、鴛縁先生から頂いた手紙の住所も御厨だったな。鴛縁先生の家が見つかるかも知れない」と。車の中から道沿いの家を注意しながら見ていると、偶然に「鴛縁医院」という看板を見つけた。鴛縁先生の御長男の龍瑠氏が長崎大学の医学部に進まれたことを知っている私は、その「鴛縁医院」は、彼が開業した病院に違いないと判断した。
 
車を止めて病院を訪ねてみると、中年の御夫人が出てこられ、そこは鴛縁先生のお兄様(故人)のご令息の病院であることを教えてくれた。その御夫人は更に「夫の叔父の穣は、2年前に亡くなられたんですよ。」とおっしゃられた。夫人はさらに、穣先生の御自宅の場所も教えてくれた。穣先生の御自宅と「鴛縁医院」と目と鼻の先というくらい近い距離にあった。
 
 「鴛縁医院」を辞して、妻の待つ車に戻ると、尾崎君とご令嬢が一緒に待っておられた。尾崎親子には、少し待って頂くことにし、折角の機会だから先ほどの御夫人から教えて頂いた鴛縁穣先生のご自宅を訪ねようと決心した。穣先生のお宅を訪ねると、先生の次男の広志様の奥様がおいでになり、事情を申し上げると、温かく迎え入れてくれた。
 
 奥様より、鴛縁穣先生は2年前(2000年)に亡くなられていたことを改めて教えて頂いた。程無く、広志氏(穣先生と同じ教師をされている由)が帰宅された。あの鴛縁先生の家族写真に写っていた小さい方の少年と感慨深く対面した。私の記憶では家族写真には子供は二人だけだった。しかし、広志氏によれば、上にもう一人男の子(二男)がいたが、幼くして亡くなったと教えてくれた。鴛縁先生にも悲しく辛い出来事があったことを知った。
 
「父は2年前、90歳で亡くなりました。母の方は足が不自由ですが、未だ元気です。そう言えば父はよく宇久島のことを話しておりました。兄は紐差にある平戸市民病院の院長をしています。今日、出勤しておりますので是非訪問して下さい。後から福山さんの事を電話で話しておきます」と話す広志氏は実に心優しい好人物という印象だった。
 
 私は、鴛縁家の仏壇の前に座り、先生の位牌に線香を上げさせていただいた。このたび思いがけず実現した鴛縁家の訪問は、今は亡き先生のお導きによるものではないかと思えた。鴛縁先生のご霊前に掌を合わせた。鴛縁先生が最後に宇久島を訪問された折、「受験の敵は女の子だよ」と話されて以来〝再会〟できたことを感謝し、その後の私の足跡をご報告した。その日はまさにお盆の最中、不思議な因縁を思わずにはいられなかった。
 
●鴛縁龍瑠院長
 
鴛縁家を辞して、尾崎父娘と合流し、平戸に向かった。平戸城近くで食事をして尾崎父娘と別れ、鴛縁龍瑠氏の勤める市民病院に向かった。もうすぐ、四十年前以上も前に見たあの写真の大きい方の少年に会えるのだ。病院にたどり着き、妻と院長室に通され龍瑠院長と会った。龍瑠氏は思ったより小柄で、温厚にして誠実そうな学者タイプの方だった。龍瑠氏は父親の鴛縁先生について次のように話された。

「父は福山さんもご承知の通り、骨太で大柄、少々色黒で日本人離れした風貌だったんですよ。私達兄弟は、実は母親に似たんですね。そう言えば、父は良く私たち兄弟に宇久島の話をしてくれました。よっぽど良い思い出があり、楽しかったんでしょうね。父と一度しか会われたことがない福山さんが、亡き父を訪ねて来られるのは意外な気もします。身内以外の福山さんのお母様から、父の人柄などについてのお話は大変興味深いですね。父は、年老いてから狭心症を発症したんですが、幸いにも長寿を全うすることができました。」
 
 私がご尊父の穣先生から伺った渡辺秀文少年――穣先生が教員時代に出会った最も優秀な生徒――の話について言及すると、龍瑠先生は次のような興味深い話をされた。
 
「父が福山さんに話された秀才の渡辺君ですが、彼は実は私の親友でありライバルでもあったんですよ。彼は佐世保の国立工専から東大に進み、現在東大地震研究所の気鋭の火山学者です」
 
 渡辺少年が我が国有数の火山学者になられたことを聞き及び、鴛縁先生の人物評価の目に狂いは無かったことが嬉しく、何故か安心した。
 
病院を辞し、その後平戸島の教会巡りをした。この年のお盆は、こうやって40年以上にわたる鴛縁先生との出会い後の空白の時間を埋めることができた。平戸への旅は、私が少年の頃から心の奥に大切にしまい込んで来た、畏敬してやまない鴛縁実先生――母と私にとっての憧れの人――の足跡をたどるセンチメンタルジャニーとなった。何だか心の中に宙ぶらりんだったものが「決着した」という心境だった。
 
秀才・渡辺秀文少年のその後742
私は、九州補給処長の後、西部方面総監部の幕僚長勤務を最後に、2005年3月に陸上自衛隊を退官した。その直後、ハーバード大学アジアセンター上級客員研究員(2005年6月から07年6月)としてアメリカに滞在した。私は、何故かは知らないが、龍瑠病院長を訪問した後も、引き続き、鴛縁先生が最高に褒めた渡辺君という一歳年上の少年に興味を持ち続けた。
 
ハーバード大学アジアセンター上級客員研究員を終えて帰国した後、私は龍瑠病院長から聞いた「渡辺君は東大地震研究所の気鋭の火山学者」という情報を頼りに渡辺氏の消息を調べ続けた。その理由は、自分でもなぜだか分からないが、不思議なほどの拘り様であった。
 
その結果、2009年9月、私はついに渡辺氏とコンタクトするができた。渡辺氏は、龍瑠氏が言われたとおり、東京大学地震研究所の教授だった。鴛縁先生が折り紙を付けた少年だけのことはあると思った。鴛縁先生が話された「渡辺少年に関する話」をメモにしたものをメールで渡辺氏にお見せした。渡辺氏は意外にも、「私の家が母子家庭であるといわれたことは、鴛縁先生が誤解されたのだと思います。私の父は、先生が訪問された時に入院していて、不在だったのかもしれませんが、私は母子家庭ではありませんでした」と誤りを指摘された。間違いの原因は、私の聞き違いや記憶違いが原因だったのか、あるいは鴛縁先生の誤解なのかはわからない。いずれにせよ、大変失礼な事を書いたとして、渡辺氏に謝罪した。
 
 このような経緯で渡辺氏の消息が判明し、直に遣り取りできたことで、鴛縁先生のいわば〝遺言〟――渡辺少年のエピソード――を辿る私の〝インテリジェンス活動〟にピリオドが打つことができた。
 
母は鴛縁先生が亡くなられて約20年後の、2021年の夏に帰天した。
 

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