望郷の宇久島讃歌(11)

第1章 望郷の宇久島

宇久島にアメリカ兵が来た!

宇久島は、「雉の島」

雉は国鳥であり、日本人にはなじみの鳥だ。雉にちなむおとぎ話に「桃太郎」がある。桃から生まれた男の子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子をもらって、イヌ、サル、キジを家来にして、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行くというストーリーである。この物語テーマは、日本の伝統的な価値観である勇気や友情、正義で、子供から大人まで幅広い年齢層に愛されている。 

雉は困難な状況に立ち向かう勇気や強さを象徴し、「桃太郎」の〝部隊〟では、先陣を切って鬼ヶ島に飛んで行き〝偵察・先導役〟を務める。この雉の役割は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされ八咫烏(やたがらす)に似ているように思える。
 
私の故郷・宇久島は「雉の島」と言えるほど雉が多く棲んでいた。よほど気候風土が合っていたのだろう。春先になると家の周りの野山のあちこちから「ケンケン」というオスの鳴き声が連鎖して聞こえたものだ。母は、子供の頃を振り返り、「雉が数十羽も群れて、松林や麦畑の中などで〝運動会〟をしていたものだよ」と話してくれ。

以下は、宇久島に雉撃ち(ハンティング)に来たアメリカ兵にまつわる話である

アメリカ兵による雉撃ち

雉は私の人生に深い関りがある鳥だ。私にアメリカ人・文化との出会いをもたらしたのは雉だった。朝鮮戦争が1950年6月25日勃発した。私が数え年の3歳の時だった。そして、6歳の時の1953年7月27日に休戦協定の署名が行われた。私の、朝鮮戦争に因む記憶は「アルミ箔」と「アメリカ兵の雉撃ち」である。
 
アルミ箔を沢山拾った思い出がある。朝起きて戸外に出ると家の周りの田畑や松林の中に、キラキラ光るアルミのテープが散乱していた。村の子供たちにとっては極めて珍しいもので、競ってこれを拾拾い集めたものだ。母の話では、これは朝鮮戦争でアメリカ軍が、北朝鮮の電波を妨害するためにやっているのだと聞いたが、その本当の意味は、私が後に防衛大学校に入校するまでは知らなかった。キラキラ光るアルミ箔は、絵本か何かで見たクリスマスツリーに飾るデコレーションに似ていて、島には無いものだった。私にとってこのアルミ箔は島の外の「文化の象徴」のようなもので、異常な興味を抱いた思い出がある。
 
 私は、昭和22年の生まれだが、物心が付いた頃には、佐世保から船に乗って占領軍のアメリカ兵達が、宇久島に雉撃ちにやってきていた。彼らの多くは、何らかの形で朝鮮戦争に関わっていたのは確かだろう。朝鮮戦争の激戦地から命永らえて抜け出し、休暇で日本に来て、雉猟で戦塵を洗う者もいたに違いない。因みに、私が、1990年から93年まで韓国で防衛駐在官として勤務していた際に聞いた話だが、韓国では、当時も済州島に在韓アメリカ軍専用の高麗雉のハンティングリゾートが残っているとのことだった。
 
私は、2尉のころ、アメリカの陸軍歩兵学校の初級幹部課程(4ヶ月)に留学した。同校はジョージア州にあるが、学校施設の周辺には千葉県ほどの広さの広大な演習場がある。演習場は松やクヌギなどの林が広がっており、森の中にはシカや七面鳥が沢山生息している。冬場、学校側は、学生に散弾銃を貸し出して、森の中での狩猟を援助していた。また、シカや七面鳥の獲物を育成・確保するために、餌として、森の中の一部をトラクターで耕し、トウモロコシの種を撒くほどの念の入れようであった。アメリカ兵は狩猟愛好者が多いようだ。また、アメリカ軍は、兵士の気晴らしと戦闘訓練の延長としての実弾射撃訓練として雉猟を推奨していたのかも知れない。
 
今も、私が子供の頃にアメリカ兵を見た記憶がよみがえる。アメリカ兵は、鼻の高い白人で、島にはいない姿かたちの人達だった。島の子供たちがアメリカ兵と接した時の驚きは、江戸時代の人々が、長崎の出島にいる〝異人さん〟を見た時のそれと同じだった。アメリカ兵は、島では見慣れない赤や黄色や緑色の原色の服――射撃をする上での安全対策――を着た大男達だった。背丈が小さい私の目には、アメリカ兵は余計巨漢に映ったのかも知れない。私は、彼らが話す意味不明の言葉――英語――を聞き、黒く光る猟銃や赤や緑の原色の服装などを見て、島の外の「異国の世界」に強い興味を掻き立てられた。
 
 村の近くに、アメリカ兵が雉撃ちに来ると、危険でない範囲で、子供達がぞろぞろと付き従った。彼らは、いつもチューインガムを噛んでおり、子供達に対し気さくで陽気に対応してくれた。何か訳の解らない言葉を喋り掛け、チョコレートやチューインガムをくれた。私たち村の少年少女にとっては、高貴なお土産だった。
 
 戦後しばらく経って日本が戦後復興を果たした後、占領軍のアメリカ兵に対し「ギブ・ミー・チョコレート」と物乞いした言葉が、暗く卑屈な占領時代を象徴するキャッチフレーズのように語られているようだが、私自身当時を振り返ってみて、何故かそのような卑屈で暗いニュアンスの響きはない。いや、むしろアメリカ兵達こそ僻地に育った私に対し、世界や異文化の存在――島の子供たちにとってはとてつもないカルチュア―ギャップ――を印象深く原体験させてくれた人達だったのかも知れない。
 
アメリカ兵達は、宇久島の野山や畑で、猟犬を警笛で操縦・使役しながら雉を探させた。「ピー、ピリ、ピリ」とあちこちで警笛が聞こえ、時々「ズドーン」と猟銃の発射音がしたものだ。「ズドーン」という音を聞く度に、「あっ、また雉を撃ってるな!」と心がときめいた。

しばらく経って、銃声がした松林などに行ってみると散弾銃の薬莢があちこちに落ちており、オスの雉の美しい羽根が、飛び散っていた。いまは、プラスチックだが、当時は厚紙の薬莢であった。


紙製薬莢

薬莢は、雷管のある頭部はピカピカの金属(後に真鍮と知った)で、火薬・散弾を包む部分は赤や緑の油紙で出来ており、なかなか美しいものだった。散弾が飛び出した穴の部分を鼻に近付けてみると、プーンと硝煙の臭いがした。私は硝煙の匂いを嗅ぐと、なぜか、一種の陶酔状態になり、一瞬脳裏に雉猟の様子を思い浮かべるのが常だった。硝煙の匂いを嗅ぐと雉猟の様子を思い浮かべることができる子供の私は、パブロフの「条件反射」説に出てくる「犬」に似ていた。私の頭の中に浮かび上がる狩猟の様子とは、以下のようなものだった。

ハンターに指図された猟犬のポインターは、山野を走り回りながら、鼻を地面近くに擦り付けるようにして、鋭い嗅覚で雉が遺した匂いを頼りに、獲物を捜しまわる。藪の中に隠れた雉の居場所を突き止めると、鼻先で獲物の潜伏場所を指し示して、凍り付いたように、じっと動かなくなる。ハンター用語で、この状態を「ポイントする」という。雉は猟犬のポインターやセッターがポイントすると、まるで金縛りにあったかのように射すくめられ、その場から走ったり飛び出したりして逃げることができず、じっとうずくまったままでいる。

 

ハンターは、猟犬がポイントするのを確認すると、犬のすぐ傍まで近づいて、銃を構え何時でも射撃できるように安全装置を解除する。その準備が終わると、犬に向かい「行け」とか「ゴー」と命じ、雉の居場所に突入するように促す。

猟犬が突入すると、小松の茂みからバタバタという猛烈な羽音とともに雉が垂直に飛び上がる。虹色の美しい羽根を持つ雄の雉だ。ハンチングに緑色のジャンパーを着たアメリカ兵がすかさず銃を構えて撃つ。一瞬、轟音が響き渡り、銃口から火炎交じりの硝煙が噴出する。命中の瞬間、パッと羽が飛び散り、生命力に溢れ飛翔していた雉は、一瞬のうちに一個の物体となって失速・墜落する。次の瞬間、猟犬は撃ち落とされた雉の方向に矢のように走って行って獲物を口に銜えてハンターの所に持ち帰る。こんなイメージが私の頭の中で渦巻くのだった。

私は、これらの拾った薬莢を未だ見知らぬアメリカ文化のシンボルとして、持ち帰って、宝物のように大切にし、ためつすがめつ、飽かずに眺めたものだ。敗戦を契機に宇久島にもたらされたアメリカ兵の雉猟を目撃することで、私はアメリカの文化や社会に対する強い憧れと深い興味を抱くようになった。この動機付けが、後に様々な形で、私の人生行路に影響を与えることになる。

薬莢の他にも宝物があった。雉の羽である。雉が撃ち落とされたと思われるあたりには、沢山の羽が散乱していた。雄の羽の色は、本来宇久島の植生など自然とマッチしたカモフラージュの役割をするものであろうが、とにかく美しい。この世のものとは、思えない神秘的な美しさである。中でも、尾羽がいい。長いものでは50センチほどもあり、茶褐色の生地に黒い斑点が約1.5センチおきにプリントされ、騎士の剣にも似た形をしている。私は、これらの羽毛を沢山集め帽子や学生服の胸のポケットに差したり、本の間に挟んだりした。
私は、散弾銃の薬莢と雉の羽のフェチに陥っていた。

アメリカ兵から捨てられた猟犬の悲しい話

これらアメリカ兵の雉猟が残した悲しい話もあった。彼らは、猟犬を島外から連れてきたが、中には猟が終わると、猟犬を島に残したまま帰る者がいた。猟犬は米兵個人のものではなく、米海軍の厚生関連組織からの〝レンタル〟なので、人間と犬の間に信頼関係や愛情がなく、放置き去りにしたのかも知れない。あるいは、猟の間に犬の方がはぐれ、迷ってしまったケースもあったのかも知れない。
 
 いずれにせよ、これら島に置き去りにされたの猟犬たちは、当然のことながら野犬と化した。元来が猟犬だったせいでもあろうが、まるで狼のように島民の家畜を襲った。私の村でも放し飼いにしている鶏がやられた。更には、当時島ではアンゴラウサギを飼育するのが流行っていたが、私の家のウサギも小屋の金網が破られ、ある朝消えてしまった。小屋の周りには、血糊の付いたウサギの毛が散乱していた。アメリカ兵が残した野犬の仕業に違いなかった。またある時、松林の中で数匹の犬の吠える声がするので、近付いてみると、白昼堂々牛を追い立てている光景を見たこともある。
 
 これらの犬は、島ではあまり見かけない大型の洋犬で、セッターやポインターの雑種ではなかったかと思う。これらの犬の特徴は、長い耳が垂れ、毛は白地に茶や黒の班があり、足はすらりと長く、尾はほぼ水平に保ち、優美な姿をしていた。島でよく見かける茶色で巻尾の日本犬の雑種とは明らかに異っていた。
 
 私は、そんな猟犬を自分の飼い犬にしたいと望んだが、これらの犬は、何故か決して島民に懐こうとはしなかった。それまでの〝犬生〟の中で、よほど人間不信に陥るような出来事があったにちがいない。
 
 これらの犬の生い立ち・素性についてあれこれと思い巡らせて見た。これらの猟犬は、アメリカ兵が飼っている「愛犬」ではないのだろう。アメリカ兵が佐世保あたりで日本人から応急に手に入れたものだったのか、それとも、アメリカ軍が兵士の狩猟用として貸し出すため、わざわざアメリカ本土で調達し、太平洋を越えて運んできたものか。いずれにせよ、これらの犬を、島に置き去りにしたり、あるいは、行方不明になっても強いて探さなかった様子から見て、アメリカ兵のこれら猟犬に対する愛情の程度が察せられるような気がした。
 
 これらの置き去りにされた哀れな猟犬は、戦後「パンパン」と呼ばれた日本人女性達の境遇と重ねあわされる。パンパンとは、戦後混乱期の日本で、主として在日米軍将兵を相手にした街娼である。戦争で家族や財産を失って困窮し、売春に従事することを余儀なくされた女性が多かった。パンパンの中には、戦後の焼け野原で生き抜くためにアメリカ兵達の固有の愛人「オンリー」となった女性達もいた。「オンリー」は、アメリカ兵が本国に帰還するに際し、捨てられたものが多かった事だろう。先日は、NHKの「ファミリーヒストリー」という番組で、米兵に捨てられた日本人女性の息子-―日本の有名な男優――が登場し、話題を呼んだ。
 
愛犬ピスの悲話1203
 私の家には、「ピス」という名の雑種の雌犬がいた。誰が名付けたのはは確かではないが、この名前の由来は、PEACE(平和)という英語をこのように「ピス」発音したものと思う。ピスは胴長短足の雑種だった。この形の犬には、ミニチュア・ダックスフンドやウェルシュ・コーギー・ペンブローク、ビーグル、シー・ズーなどがいるが、そんな優美な洋犬とは似ても似つかず、雑種の中の雑種といった感じだった。ただ、ピスはとても賢く、私にとってこの上なく大切な愛犬だった。
 
彼女に発情期が訪れると、アメリカ兵が置き去りにした野犬がやって来るようになった。父が太い針金で罠を仕掛けたところ、見事に野犬の一頭を獲得した。この野犬はセッター種で島には珍しい美しい犬だった。私は、この美しい野犬を自分の飼い犬にしようと考え、蒸かし芋を持って、手懐けようと近付いたところ、牙をむいてものすごい形相で唸った。惜しいとは思ったが、父に頼んで針金をペンチで切断してもらい、放免してやった。
 
 このような訳で、愛犬「ピス」の子犬に美しい洋犬の血が混じった子犬が産まれることも期待したが、子犬が産まれる前に、「ピス」に大事件が起こった。はるばる海を渡ってきた長崎県の保健所職員と名乗る数名の男達に「ピス」が捕獲され、殺されたのだ。
 
 惨劇の顛末はこうだ。母によれば、その時「ピス」は玄関先に寝ていたという。保健所から来たという二人の男が、「ピス」に吠える暇も与えず、慣れた手つきで二本の針金の輪を首に掛けたそうだ。そして、必死にもがく私の愛犬を、二人の男が二本の針金で締め上げ、引き摺って、止めてあったトラックに積んだ檻の中にぶち込み、3キロほども離れた平港の方に連れ去ったという。村人達のさらなる目撃談によれば、男達は、こうして集めた犬たちを波止場で檻から引きずり出して、次々に撲殺したとのことだ。
 
 私は、幸か不幸かその時学校に行っていて不在だった。帰宅後、事の顛末を母から聞いた。玄関先の敷石の表面をよく見ると、「ピス」が抵抗し、必死でもがいた際に出来たと見られる、爪による無数の引っ掻き疵が残されていた。私にとって、「ピス」の捕獲と撲殺はショックだった。子供心に、「将来大人になったら〝お前〟を捕獲・撲殺した保健所の職員に対し、必ず復讐してやるぞ!」と亡き「ピス」の霊魂に誓ったものだ。
 
道に迷ったアメリカ兵
余談になるかも知れないが、当時の思い出として、島に雉撃ちに来た若いアメリカ兵にまつわる話を紹介しよう。私の村に、福浦久市さんという当時50歳くらいのオジサンがいた。ある冬の日の夕方、久市オジサンが暗くなりかけた松林の中で薪を採っていると、仲間とはぐれ、道に迷ったらしい若いアメリカ兵がノッシノッシと近づいてきたという。
 
 アメリカ兵は、戦争が終わった後とはいえ、数年前までは敵国であった日本の僻地の山の中で、仲間とはぐれてしまい、さすがに心細かったらしく、小父さんに出会うと泣きつかんばかりに助けを求めてきたらしい。一方、そんな事情は知る由もないオジサンの方は、銃を持った巨漢のアメリカ兵が暗がりの中から突然迫ってきたものだから、すっかりたまげてしまったらしい。
 
 アメリカ兵が巻き舌で「プリーズ・ヘルプ・ミー」などと哀願したのだろうけれども、オジサンにとってはチンプンカンプンで通じなかった。また一方、アメリカ兵にとっても、「どぎゃんとしたとですか?(どうしたのですか?)」などと方言で応じられても、全くお手上げの状態だったに違いない。
 
 オジサンによれば、悪戦苦悶の末、ボティランゲージを総動員して、アメリカ兵と意志を通じ、何とか島で唯一の交番にまで連れて行き、事無き得たということだった。大人になった今、この二人のやりとりの場面を想像すると、当の二人には申し訳ないが、大変シリアスではあるものの、一大喜劇だったに違いない。観客がいなかったといううらみはあるものの。
 
 

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