ハーバード見聞録(30)
「ハーバード見聞録」のいわれ
本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
LANDSCAPE(8月8日の稿)
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今週の稿は、アメリカの「LANDSCAPE」について書いたものです。
「LANDSCAPE」とは、「景色、風景、景観、地形、地表、眺望」などの意味があります。
アメリカ・アメリカ人を理解するための手立ての一つとして、アメリカの「LANDSCAPE」を観察することは重要なことだと思います。
退役自衛官の福山の目にアメリカの「LANDSCAPE」がどう映ったのか、お読みいただければ幸甚です。
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アメリカに来て以来、約4ヶ月に亘りニューイングランドのLANDSCAPEを「退役軍人の目から」見てきた。本来アメリカのLANDSCAPEについて書くとすれば、東西南北、この大陸をくまなく見てから書くのが適当であろうが、今の私の置かれている状況ではとうてい無理だ。否、アメリカ人でさえも無理であろう。あの狭い日本でさえも、私は訪れている所の方が少ない。
今春まで、私は陸上自衛官として、ほぼ2年毎に転勤し、十数か所にのぼる勤務地を巡る機会に恵まれたが、それでも日本全国の行脚は出来なかった。少々の金と暇があったとしても、このアメリカを全てカバーするのはけだし無理ではなかろうか。
またアメリカの「LANDSCAPE」をニューイングランドの一部地域とはいえ全て記述するつもりもないし、出来ない。私の印象に残った事だけを、ごく簡単に書くこととする。
この拙文を書く気になったのは、9月末に日本から娘が来て、ナイアガラに旅行に出かけ、このマサチューセッツ州以外の LANDSCAPEを多少でも見たからである。
それにしてもアメリカは広い。Peter Segar の“This Land Is Your Land”というフォークソングが、私が20歳代に流行した。
アメリカという国は、Peter Segar のフォークソングの通り、西はカリフォルニアから東はメキシコ湾流(Gulf Stream Water)が洗うニューイングランドまで、東西約5000キロメートル以上、南北約3000キロメートル以上で、国土面積は日本の約25倍に及ぶ。
9月末のある日、家内の運転でナイアガラの瀑布に向け、娘と3人でケンブリッジの我が家(ボーゲル邸)を9時ごろ出発した。家内は殆ど始めての、アメリカの高速道路運転である。私が「ナビ」役を務めた。家内が約80マイル(120キロ)以上の高速で飛ばす中で、私は必死に英語の地名をロードマップから拾い、高速道路上の標識を見ながら指示を出す。アルファベットという表音文字を瞬時に捕まえるのは至難の技のように感じた。
アメリカ人の運転マナーは余り良くはない。ウインカーを上げずに平気で路線を変更する。左側の追い越し車線を堂々と低速で走る車もいる。従って、当初は家内も私も緊張の連続であった。それでも、ボストンからナイアガラ瀑布へ向かい西進する国道90号線に乗って1時間ほども走ると、慣れてきて車窓から沿道の景色を眺める余裕が出てきた。
いくら走っても周囲に山が見えない。しかし完全な平地でもなく、巨大な波のようになだらかに起伏が繰り返す「波状地形」である。波状の丘と丘の距離は3~5キロメートル程だろうか。これとは対照的に、日本の東名高速を走って眺める車窓の景色は、山また山、そしてトンネルまたトンネル、見はるかす地平線を見つけることは殆どない。
アメリカが広くて、平らであることを実感したのは、大雨の時だった。ケンブリッジでは夏場、一週間に一度くらい大雨が降る。雷を伴った激しい雨だ。ボーゲル邸3階の我が家は屋根裏部屋で、天窓が3つも付いているから、ベットの上に寝転んで天空を眺めておれば、屋根や天窓を打つ雨音と雷鳴の電光は、まるで特設席で、花火大会を見ているような有様だった。
この程度の雨が降れば、今春までいた熊本であれば、熊本市内を貫流する白川の水位が上がり、自衛隊の災害派遣を心配するくらいだった。ところが、翌朝ケンブリッジ市内を流れるチャールス河は、殆ど増水していない。チャールス河流域が限りなく広く、平坦であるために、増水し激流になることがないのだろう。そういえば、チャールス河には堤防が作られていない。
つい半年ほど前まで、陸上自衛官だったせいで、地形を見ているとすぐに「戦術」や「兵要地誌(作戦・軍事上の見地から,必要な地形・地勢・気象・人文・ 産業産物等に関する調査及び研究を行った資料を書類としたもの)」が頭の中に浮かんでくる。アメリカの地形と日本の地形の違いは顕著である。アメリカの茫漠とした地形に比べ、日本の地形は繊細で「箱庭」のように感じられる。このような「箱庭」のような地形で戦いが起こると、小山の先取が戦いの勝敗を左右する。古戦史には小山をめぐる争奪戦が枚挙にいとまないほど出てくる。高い地形を押さえれば、敵を上から見下ろすことができ、戦をするうえで有利な態勢を作ることが出来る。
戦国時代末期の天正10年6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、約10日間で中国路を京に向けて全軍を取って返し、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230 km を踏破した。この軍団の大移動(強行軍)のことは「中国大返し」または「備中大返し」と呼ばれる。
この強行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。この勝敗を分けた一因は、秀吉軍が同地域を制する「天王山」という小山を先取したからと言われている。
日本の古戦史や沖縄・朝鮮での近代戦史に見られるような複雑・デリケートな地形は、私達が走った米国道90号線(ボストン~アルバニー~シラキュース~バファロー)沿いには存在しなかった。
アメリカの波状地形を見ていると、ヨーロッパ平原で想定されたNATO軍とソ連軍の大規模な戦車戦が思い出された。冷戦構造の中で、米ソは東・西ドイツなどの戦場で、戦車主体の機動戦力による大規模な地上戦を想定していた。そのヨーロッパの地形は、矢張りこの米国道90号線沿いの波状地形に似ているのだろう。従って欧米各国及びソ連はこの波状地形の丘から丘の距離、約3キロメートルを戦車砲の有効射程距離として追求してきた経緯がある。
我が国の90式戦車の有効射程距離も3400メートルといわれている。欧米の地形に比べ、箱庭のような本州以南の地形においては、これだけの射程を活用する機会はあまりないので、90式戦車は欧米に近い地形の北海道に集中配備されている。
戦場で、敵か味方のいずれかが、その地形・地域を確保(奪取し支配)することで、勝敗に決定的影響を及ぼす地形のことを戦術用語で「緊要地形(critical terrain)」と呼んでいる。先に触れた「天王山」がその好例である。本州以南で、山城が建立されていた場所は殆ど「緊要地形」に当る。但し「緊要地形」は兵器の発達(火砲などの飛び道具)に伴いその価値が変化するのは当然のことだ。
日本の箱庭的地形の「緊要地形」と欧米の「波状地形」における「緊要地形」は自ずから異なる。欧米においては、茫漠とした地形の然らしめるところで、都市や港湾・空港、更には河川の橋梁・渡渉場などが「緊要地形」になった。
地形の相違が、それぞれの国家・軍の編成・戦略・戦術に及ぼす影響の好例を聞いたことがある。私は、1990~93年韓国で防衛駐在官を努めた。アメリカは冷戦末期に、ヨーロッパ戦場でソ連との大規模な戦車主体の地上戦を行う際の戦争のやり方(「教義」あるいは「ドクトリン」と呼ばれる)を新たに創り上げた。
このドクトリンは「エアランドバトル」と呼ばれる。「エアランドバトル」の本旨は、アメリカがソ連に勝るヘリボーン部隊、空挺部隊による空中機動・打撃力、長射程の火砲・ミサイル火力、航空戦力などを最大限活用し、これらの「空中戦力」と「地上戦力」総合一体化させて戦うことにより、ソ連軍を打倒しようとするものであった。
アメリカは、この「エアランドバトル」ドクトリンを繊細な地形の朝鮮半島にも適用しようとした。ソウルでの防衛駐在官時代、韓国のある陸軍の将軍が私に次のように本音を漏らした。
戦術に関する話題をもう一つ。私が1970年防衛大学校を卒業し、陸上自衛隊幹部任官後習った戦術、なかんずくソ連の強大な戦力に比べ、弱者としての立場の防御戦術は極めて繊細かつ奥の深いものであった。日本の箱庭のような小さな起伏を徹底的に活用するのであった。
久留米の幹部候補生学校、富士学校(普通科・特科・機甲科の教育を実施)、市谷の幹部学校(旧陸軍大学校に相当)における教育は、教育課程が進むにつれ、運用する部隊が小隊から中隊、中隊から連隊、そして連隊から師団へと逐次レベルアップはしたものの、極めて精密・繊細な部隊運用、地形の活用などを教育した。(勿論、戦術は「剃刀の使用」よりも「鉈の使用」を前提としなければならない場面もあるのだが)
今になって振り返ってみると、陸上自衛隊は創隊以来、諸先輩達が米軍から伝授された戦術を鵜呑みにせず、旧陸軍の大東亜戦争における戦いの教訓などを生かして、鋭意改良工夫して我々後輩達に伝えてくれていたことを改めて認識できるようになった。
私が若手幹部の頃は、沖縄における防御戦闘戦史と朝鮮戦史の研究が盛んであった。これらの戦史研究から「地形の活用」「火網の構成(銃・砲火力を最も効果的に組み合わせること)」、「積極防御(防御するのみならず小反撃を行う)」などの考え方が先人の血で贖われた教訓として、陸上自衛隊に受け継がれていたものと思う。
ちょっと話を脱線させて、私には似つかわしくないが芸術の話をしたい。このナイアガラ瀑布への旅行に先立つ一ヶ月ほど前、我々夫妻は高島副領事御夫妻からタングルウッドに連れて行ってもらった。タングルウッドは、同じ米国道90号線沿いのリーという町(ボストンから100マイル余)で高速道路を降り、30分ほど走った所にある。九州の湯布院が町興しの為に国際映画祭をやっているようにタングルウッドでは夏の間クラシック音楽のコンサートをやっており、かなり有名らしい。タングルウッドはその名前の通り森の中にあった。聴衆側には壁のない吹き抜けの音楽堂が広大な芝生と連接して建てられており、聴衆は屋根つきの音楽堂の中と芝生の上の両方でコンサートを楽しめるようになっている。勿論、芝生の上のお客様にも十分に演奏が聞こえるように、屋外に巨大なステレオのようなものが設けられている。松の巨木の林に囲まれた緑一面の空間は、屋内のコンサートホールとは一味違う雰囲気であった。
私達が行った時は、ボストンシンフォニーが当夜の本番に備えて、練習中であった。メンバーの中には、世界的に有名なチェロのソリスト(独奏者)のヨーヨー・マ(中国系アメリカ人)が参加しており、練習終了後、手を振ってファンの拍手に応じていた。タングルウッドには、日本人指揮者の小澤征爾氏が来ており、人気を博しているという。
LANDSCAPEの話に戻るが、タングルウッドの例のようにニューイングランドはボストンなどの都市部を離れると、広大な主として落葉樹の森が広がっている。10月から11月にかけて、日本とは比べ物にならないほどの見渡す限りの紅葉の森が出現するという。また冬は、一面の銀世界に黒い落葉樹が春を待つ景色になるそうだ。
タングルウッドの森と素晴らしい芝生の話に及んだついでにアメリカの「芝生文化」――あえてそう呼びたい――について書いてみたい。アメリカと日本のLANDSCAPEの違いの一つは、「牧場という広大な草地」と「水田」であろう。ニューイングランドでは牧草にはアルファルファを良く見かける。そしてアメリカの住宅地・市街地の風景で日本と違うもう一つの要素が「芝生」である。
何故アメリカ人がこれほどまでに芝生に拘るのだろうか。第一に思いつくのは「芝生は、牧場の草地の延長」という理由。第二は、「アメリカ建国の始祖たちの故郷イギリスの原風景(私は行ったことはないが矢張り牧場と芝生の国なのでは)を模した、という理由が考えられる。
庭園にはそれぞれの民族の歴史、文化などが凝縮されているのではないかと思われ、世界の庭園を比較研究すれば思わぬ発見があるかもしれない。
いずれにせよアメリカ人は(少なくともニューイングランドでは)芝生に拘る。ハーバード大学の構内も大樹の下は一面の緑のカーペット、芝生である。この芝生を維持する為、大学は相当の人力とお金を費やしている。芝には早朝たっぷりとスプリンクラーで水遣りをしている。また、定期的に刈り込んでいる。人に踏まれたりして枯れると、直ちに立ち入り禁止のテープで囲い、種を蒔く。すると一週間もしないで芽が生えそろい、二週間もすれば原状に復する。実に生命力の強い芝である。日本のベント芝に比べて更にしなやかで「若緑色」をしている。日本の芝生は、大樹の陰など日光の当らないところでは枯れてしまうが、ニューイングランドの芝は日陰でも生き生きと育つ。北海道の芝も同様だが、勿論、雪の下でも枯れない。
ある当地在住の日本人が私に言った。「一戸建ての家を持つと、芝刈りが大変ですよ。週末に自力でやっていたが、大変面倒で折角の休みも休めないので、とうとう業者に任せることにしました。ちょっとサボると周囲から苦情が来るのですよ。」と。
全米で、芝生の維持管理(種、芝刈り機、スプリンクラー、水、肥料、芝刈り作業など)にかかる経費は莫大な額に違いない。もしかしたらGDPの1パーセントくらいになるのかもしれない。芝の維持管理(庭園管理)には、ヒスパニック系などの移民などの労働力が利用されているようだ。芝生が雪に隠れる冬季にはこれらの労働力は除雪に回される。
ケンブリッジ市内を歩いてみると、どの家も競うように芝生を大切に育てている。極めてまれに、日本で良く見られるように、庭の一角に菜園があり、トマト、茄子、胡瓜、ズッキーニなどを育てている家がある。
アメリカ人は戸外の生活が好きなようだ。公園の芝生の上はもとより、自宅の庭、果ては都市の中のレストランも夏場は芝生が無くても屋外にテーブルを並べている。
ハーバード大学の風景を構成するのは、「赤レンガの建物」と「芝生と大樹」という二つの要素(「赤」と「緑」のコントラスト)である。赤レンガの建物を人間の「体」に例えれば芝生と大樹は「服飾」に相当するものだ、と私は思う。
もし芝生と大樹の「服飾」がなければ300年以上の歴史を持つ世界に冠たるハーバード大学の荘重な風格を保つことは出来ないであろう。そう考えると、丹念な芝生の手入れは、女性のお化粧に似ていると思った。
話は変わるが、陸上自衛隊でも一部の学校や駐屯地では相当に良い芝生の庭やグラウンドを持っているところもある。ところが、これらは原則的には立ち入り禁止になっている。本来は芝生の上でスポーツをしたり、野外パーティーが出来ればいいのだが、日本の場合はすぐに芝生がダメになってしまう。芝の維持管理能力がアメリカと違うからだろう。先にも述べたが、アメリカの場合、お金と人力を投入して、傷んだ芝は立ち入り禁止とし、水と肥料を施し、それがダメなら種を蒔いて、短期間のうちに回復させる(ただし、高麗芝では短期間に種から芝を育てるのは困難だろう)。環境整備にも「見るだけの環境整備」と「使う(活用する)環境整備」とがある。「使う環境整備」には当然のことながら、余計なお金が掛かるわけだ。
陸上自衛隊も、地域の環境整備モデルとして、財務省は芝を整備する予算を計上してくれないだろうか。明日は、イラクのような危険な任務(公式にはそうは言えないことになっているだろうが)に行かなければならないかも知れない隊員達に、少しでも良い環境を整えてやることは「国防(兵役)の義務」免除してもらっている我々国民の些かの「グッドウィル」と言えないだろうか。
ナイアガラ瀑布への道すがら、今度は広大な林檎畑が見えてきた。実が赤く色づき始めている。アメリカでは男女とも林檎を丸齧りする場面を良く見る。アメリカの林檎は小ぶりだ。日本の「富士」や「世界一」のような巨玉は見たことがない。山形県神町の自衛隊連隊で中隊長をした頃には「世界一」の実に日光が当る部分だけが赤く色づくことを利用しデザインを施した紙で林檎の実を覆い「寿」などお客様の注文に合わせて林檎に文字を書いていたのを思い出す。
アメリカでは果樹園も広大で、品種改良して林檎の木を植え替えていたら巨額の投資が必要なので、入植以来の小ぶりの林檎を作っているのだろうか。丸齧りのほか、ジュースやジャムなどに加工するので、小粒でもいいのだろう。
朝9時ごろ自宅を出て、夕方6時頃ナイアガラ瀑布の傍のホテルに着いた。総行程500マイル余であったろうか。娘が米大陸の地図上で概算したらアメリカ大陸を横断する為には、ボストンからナイアガラまでの距離の5~6倍の距離を更に走らなければならないという。我々家族は「疲労と忍耐」というスケールでアメリカ大陸の広大さを実感することができた。
ナイアガラ瀑布はアメリカとカナダの国境に位置しアメリカ側からもカナダ側からもその壮大な景観を楽しめる。五大湖の一つエリー湖からオンタリオ湖に向けて流れ出したナイアガラ川の流れは、ちょうど二つの湖の中間地点で、一気に約60メートルの落差の瀑布となる。ナイアガラの瀑布はナイアガラ川の中間に位置するゴート島により二つに分かれ幅約670メートル、落差54メートルのカナダ滝(滝の形が馬の蹄鉄の形をなしており「ホースシューフォール」と呼ばれる)と幅320メートル、落差55メートルのアメリカ滝からなる。
同地に到着すると、秋の抜けるような青空に高々と雲のように立ち上る水煙、どこからともなく聞こえて来る地鳴りのような低い連続音に圧倒された。その後、カナダ滝の裏側に彫ったトンネルに潜り、滝を裏側から見たり、「霧の乙女号」と呼ばれる観光船で、滝壷まで遡上し水飛沫に打たれながら滝の凄まじさを体感した。ナイアガラの瀑布は私が今までに見たアメリカの「LANDSCAPE」の究極の景観だった。
さて最後に、ナイアガラ瀑布を見ての感想を申し上げる。これについては先ず娘・可奈子のメールから引用させてもうこととする。
妻・真理子の感想。
私は、娘と同様に自然の偉大さに感動を覚え、そのうえで、この自然の造形は「神の御手によるもの」と、神の存在を身近に感じた次第であった。