【エッセイ】 掃除の仕方, 日本の常識は世界の非常識, やっぱり日本人は狂ってる 〜家庭内カルチャーショック〜
日本人ほど掃除のできる人種はこの世にはいないのではないかと本気で思うようになった。なぜなら、欧米の人たちは日本人のようにマメに掃除をしない。その上、掃除をしたところで、掃除の基本が全くなっていないからだ。
私は幼い頃、毎朝毎朝、掃除から始まる日本の習慣に「私たちは掃除をするために生まれて来たのか」と真剣に考えた。そして、大して汚れてもいないのに、昨日だってやったのに、「なぜ、そんなにまで掃除をしなくてはならないのか」を、幼心で真剣に悩んだことを憶えている。
母も祖母も近所のおばさんたちも、皆、朝早くからチャキチャキ元気に掃除をして動き回っている。古き良き昭和の時代だった。ぐうたらで朝に弱かった幼い頃の私は、とにかく朝は体も心も起き上がるまでにかなりの時間を要した。極寒の朝、出発前にエンジンを始動させて温めておかなくては走らない車のように、私もなかなかエンジンがかからなかった。「大人になったら、朝一番に掃除が待っている」なんて思ったら、それだけで起きる気がしなかった。
掃除が嫌いなまま、仕方なくイヤイヤやり過ごしながら、大人になった。そして、二十代の頃、初めて訪れたイギリスで驚いた。
「掃除は毎日しなくてもいいんだ」
伝手で宿泊させてもらった友人の友人の家庭でも、ホームスティさせてもらった家庭でも、滞在中、主婦が掃除をしている姿は一度も見られなかった。何かうっかりこぼしたり汚してしまった場合にのみ、その場所だけをササッと片付ける程度で、決して掃除などと呼べるものではなかった。大して汚れていなくったって日課として日々掃除をする日本の主婦のような人にはひとりたりと会うことはなかった。聞いて回ると、週に一度、掃除人を雇っていると答えた人も何人かいた。
「主婦なのに」
私は世界には主婦のくせに掃除すらしないバカンスみたいな人生があることを知り驚いた。
もしかしたら、そのルーツは植民地支配から来ているのかもしれない。昔の欧米諸国の金持ちたちには掃除をするメイドがいた。金持ち以外の人たちは貧しい暮らしで生きることが精一杯だから掃除なんて言っている場合ではない。掃除はメイドの仕事、あるいは「しない」というのが基本らしい。どうやら、日本とは「掃除」の意義も捉え方も全く違うようだった。初めて日本の外へ出て、数えきれないほどのカルチャーショックを受けたが、掃除もそのひとつだった。
「イギリスの日常生活はなんて楽なんだ」
日本には、「立つ鳥跡を濁さず」という「自分の後始末は自分でしよう」という美しい道徳心がある。言葉を噛み下せば、「自分の尻くらい自分で拭け」と言う意味だが、自分の汚した後を人に見られることを「恥」だとする考え方を教えられてきたお陰で、日本人は「次の人が心地よく使えるために」という周囲への思いやりまで育んできた。私はこれが世界でも極めて稀な日本人の持つ美しい特質のひとつではないかと自負する。
それだけではない。禅仏教や儒教などの思想が「心を込める」ことや「無心」になることを教えてくれたお陰で、日本人は人もモノも日々の生活も丁寧に大切にすることが人間性を養うことを知っている。日常の当たり前の「作務」を、文句を垂れずに淡々と真心を込めてこなすことで無心になり、心が浄化される。わざわざジムに通わなくたって、床の雑巾掛けなどで日々、体だって鍛えられる。欧米諸国でやたらと大流行りしている「ヨガ」に、「マインドフルネス」だ、「メディテーション」だ、「今、ここ」だとかを、言葉すら違えど、日本の仏教は大昔から教えてくれていた。
そうなのだ。日常の作務は修行なのだ。掃除は「メディテーション」なのだ。
やっと、そう思えるようになった時、掃除が苦痛ではなくなった。
結婚したばかりの頃、汚すのはいつも夫で、私ばかりが掃除をしていることに、私は頻繁にイライラし文句を垂れてきた。掃除をしたそばから汚れていくため、私が掃除仕立てのピカピカつるつるクリーン状態を謳歌できることがなかったからだ。掃除機をかけ終わった途端に、夫がフランスパンのカリカリのカスを床に飛ばしまくる。せっかく、ピッカピカに磨き上げたバスタブにお湯を溜めようかと思っていたのに、よりにもよって夫が先にシャワーを浴び、石鹸のぬるぬると毛むくじゃら男の小さい毛がへばりついている。
夫の長所のひとつは鈍感力だ。私が掃除をしなくても全く気にしない。「汚いなぁ」などとこうるさい神経質な男よりはマシだと自分をなだめてはいたが、私が大掃除をしたところで一向に気づきやしない。気づかないから感謝もされない。
日本人は謙虚だ。いちいち自分があぁした、こうしたなどとアメリカ人のように自分で申告し、自画自賛をするようなことはしない。
私は日々の掃除に感謝されないどころか気づきもされないことから、掃除はわざわざ夫のいる時に、夫に見えるようにするようになった。そして、どれだけの埃がたまっていたか、どれだけ汚かったかをいちいち見せて報告して回った。
ところが、全く、糠に釘、暖簾に腕押し、豆腐にかすがい、馬の耳に念仏だ。アパートが汚かろうが、綺麗だろうが、よっぽどうんこでも落ちていない限り、この鈍感力は驚かない。
ストレスが溜まった頃、毎週末、二人で大掃除をしようと提案し、平日は一切、掃除をするのを止めた。結婚生活は初めが肝心だ。今まで全く好き勝手に生きて来た二人が生活を共にするのだから、最初に、生活スタイルの細々したことを擦り合わせておかなくてはいけない。お互いにストレスのない生活環境をつくるため、まずはお互いの「ストレスになること」を除去していくことが重要だ。
私以上に面倒くさがり屋の夫に「毎週末に一緒に大掃除デート♬」という全くワクワクしない企画を約束させるまでもかなりの時間がかかったが、いざ、イヤイヤ渋々、初めて約束に応じた朝、私は夫の掃除っぷりに呆れ返った。
実家の年末大掃除の手伝いをさせたり、引っ越しの際に大掃除をしたりと、夫を大掃除に駆り出すことはあったのだが、主に力仕事や単純作業などを限定していたため、また、大抵は大掃除の忙しさで、夫の掃除っぷりを観察する余裕などなかった。しかし、この時は違った。
「トイレをお願い」
「シンクをお願い」
大掃除の時のように、次にすることをひとつずつ指示する。しかし、夫はものの数分で「終わった」と報告に来る。
「どこをどう掃除したら、そんな短時間でできるの?」
掃除監督がビフォー&アフターを見に行くと、案の定、掃除して欲しい箇所には触れた形跡がない。
「どうやって掃除したの?」
一連の仕事を説明させる。
「これは?」
「これは取れない」
「取れない」ではない。それを「取る」のが掃除というものだ。
そして、初めて、夫が掃除機をかけるところをじっくりと観察して気がついた。
「掃除の基本がなっていない」
日本人は掃除機を頼まれたら、掃除機に付属品としてついてくる角っこのコーナー用アタッチメントを上手に使いこなしながら、文字通り、隅々まで掃除機をかけることが出来る。しかし、夫の掃除っぷりは、物はどかさず、部屋の角だけでなく、チェストだ本棚だの角だって素通りだ。アタッチメントをつけ替えたついでに、ここをサッと、あそこもサッと、ということもない。部屋の中で何となく丸く楕円を描きながら掃除機を連れ回しただけだ。
掃除器具の扱い方だってなっていない。フロアーワイパーで床を拭いた後、シートの取り替えに際し、わざわざ汚れたフロアーワイパーの底と持ち手を180度ひっくり返し、自分も棒も立ったまま、たくさんの埃の髪の毛を吸い取ったシートを取り替えようと乱暴にはがし出した。
「今ので取った埃が落ちたじゃないか。なぜ、シートを床につけたまま、自分がしゃがんで取り替えないのか」
日本人は生まれてからずっと掃除文化の中で育って来た。仮に、家庭では掃除は女の仕事だと、一切掃除をさせてもらえないお坊ちゃまがいたとしても、お坊ちゃまが義務教育の小学校へ入学すれば、必ず掃除の時間があり、お坊ちゃまだろうが何だろうが強制的に掃除をさせられる。
掃除場所は多岐に渡り、クラスルームは元より、分担場所も学年によりさまざま箇所が決められている。小学校に6年も通えば、おおよそ小学校中の公共場所を掃除することになる。週ごとや月ごとに担当場所が変わり、いろいろな場所のいろいろな掃除の仕方を習得する。
子供も子供なりにあれこれ工夫を凝らしながら、掃除時間中に効率よく綺麗にできるよう頭を使う。実際に毎日掃除をするから、ここから手をつけた方が手っ取り早い、ここはこれを使った方がいい、などの掃除テクニックだって自然と学び、身についていく。
特によく考えられているのが、担当場所が変わる際、予めグループ分けされた小さなグループがふたグループ重なるように組まれていて、担任や他の教諭などから掃除の仕方の指導を受けたグループが、新しくその担当場所に入ってきた新しいグループに掃除の仕方を伝授していくのだ。そうすることで、全生徒が同じ掃除レベルを保つことができる。私が小学生だった頃は少なからずこんな状況だった。
私はこの日本の掃除教育を非常に誇りに思う。義務教育が授業と掃除のパッケージセットになっているところがなんとも素晴らしい。一度でも自分で掃除をすると、掃除をしたところに自然と愛着が生まれ、綺麗に保とうという意識が芽生える。掃除をしたことのない人には気づけないが、掃除をする人には気づけることがたくさんある。掃除をしたことのない人は汚れにだって気付けないが、掃除をする人は身の回りをより清潔に保てるようになるものだ。
しかも、掃除は義務教育中だけではない。日本では高校に入っても、社会人になっても、人生に掃除がついて回る。勤務した会社にはそれぞれ掃除の時間があった。
毎日掃除をしているくせに、普段の掃除では行き届かなかった場所を突っつきほじくる、掃除の大決算「年末の大掃除」なる文化まで存在する。学校でも会社でも当たり前の年中行事。皆でわいわいやりながら大掃除だって楽しむのだ。
私のこれまでの人生、大学以外では、家の外でも日々の掃除を経験してきた。日本の掃除文化は世界でも異様なほど特異稀だ。しかし、そのお陰で日本人は皆、掃除の仕方を心得ている。
ところが、だ。
夫を見ると、まるで掃除の基本が分かっていない。私は掃除に「基本」があるなんて、これまで思いもしなかった。夫の掃除っぷりを観察して初めて、掃除教育の必要性に気がついた。
日本では「掃除は上から」というのが常識だ。「常識」でなくても、常識的にそう理解されている。考えれたり想像してみたら簡単に分かるはずだ。例えば、床を掃除機がけした後で、天井から吊るされている電気の傘の埃を拭いたら、その埃は目に見えなくても、パァーッと飛び散っているはずだから、せっかく掃除機がけした床にまた埃が落ちることになる。高いところから落ちるのだから、その真下一点に落ちるのではなく、広範囲に渡って埃が舞い注がれているに違いない。そんな状況を日本人は想像できるようだが、ヨーロッパ代表の夫には分からないらしい。電気の傘だけではない。箪笥やチェストや本棚の上や、出窓の桟を拭く時だってそうだ。拭こうとすると、誰がどれ程上手に拭いたって、絶対に埃や汚れは下へ落ちる。だから、掃き掃除だって拭き掃除だって上からに決まっている。階段を下から掃く馬鹿は日本にはいない。
確かに私たち日本人は日常の中で掃除を教えられて来た。巷には掃除や片付けの仕方などの本がたくさん売られている。掃除をするためにわざわざお金を払って本を買い、掃除技術を学ぼうなんて国は日本以外にはないだろう。
夫は決して特別な存在ではなかった。夫で免疫が出来ていたはずが、私の免疫を飛び越えた類いに数々出くわし、今では寧ろ、夫が普通のようにすら思えている。
そうなのだ。どうやら異常だったのは日本人の方だ。
でも、たとえ日本人がとりわけ異常にしても、なぜ、多くの欧米人が掃除の基礎を知らないのか。
私にはどうしても「植民地支配者」のメンタリティと関係しているような気がしてならない。欧米の国々は植民地から資源を盗み取り、現地の人を奴隷として自国へ連れて帰り、ただで働かせて来たから国を発展させることが出来た。奴隷解放の後も連れて来られた奴隷たちは本国へ帰ることが出来ない。そのまま、安い労働力として働かざるを得なかった。だから、欧米では掃除は有色人種や移民、難民の仕事だとほぼ決まってしまっている。欧米では金持ちは掃除人を雇っているし、公共の場所を綺麗にしているのは大抵、移民だ。ショッピングモールのフードコートで、若者が自分たちの食器を返却場所まで持って行くことすらせず、さんざん食べ散らかしたあとを年老いた有色人種が片付けて歩く姿を見る度に、私は胸が詰まる思いがする。
「自分の食べた食器とトレイくらい、返却場所まで持って行け」
思わず胸ぐらつかんでそう言ってやりたい衝動を得る。
小学校でも中学校でも高校でも、掃除をさせられなかったのかと夫に聞くと、学校では生徒が掃除をすることなど一切ないと言う。
では、誰が掃除をしているのか。もちろん、掃除人だ。ワガママがピーク時のティーンのガキたちの汚したあとを、掃除人が掃除をするのだと言う。学校が掃除会社と契約しているのだろうが、こんなシステム、教育にいいわけがない。
どおりで、公共の場所を遠慮なく汚し、平気で去って行くわけだ。多くの人が公共の場所は掃除人が掃除するもの、だから汚しても構わないと思っているのだろう。サッカーの国際試合の後、日本人の観戦者たちが集団でスタジアムのゴミ拾いをする度に、世界中を腰が抜けるほど驚かせているように、公共の場所は公共の場所だ。掃除をするなんて日本人は狂っている。
こんな狂った日本人の爪の垢を、フードコートで散らかし去って行く前に、若者たちのドリンクにでも混ぜておきたい。
あぁ、日本の義務「掃除」教育はなんて素晴らしいのだ。掃除は、その場所を綺麗にするだけではなかったのだ。掃除をする人の人間の軸となる人間性を美しいものに整えてくれる。
そう言えば、風水では家の中を自分の体の中と見立て、家の掃除をすれば、体の中の掃除がなされると考える。掃除の魔力や、底知れぬ。家が綺麗になるどころの話ではない。まるで竜宮童子のような魔法使いのようにすら感じられる。日本の仏教やスピリチュアルリーダーたちがしきりに掃除を勧めるわけがやっと分かって来た。
ところで、掃除の順番が分からない夫に逐一指図し、言われた通りに取り掛かった矢先にいちいちストップをかけては指摘する私の監視システムは、次第に厳しさを増していった。
すると、夫は、「人間はある程度、様々なバクテリアに暴露していなくては強い免疫力を作れない」としきりに反論し返した。しかし、「埃はカビもウィルスも不要なバクテリアも吸着している。それを好んで吸い込む必要はないではないか」と私も負けない。
更に神経質になっていく私を、コロナウィルスのパンデミックが背中を押し、私は益々、神経質に磨きをかけてしまった。
一方、夫の持ち前の鈍感力を生かした防壁バリアシステムは、夫を神経質から守っていたようで、幸い、夫に私の神経質が移ることはなかった。私は、大きな汚れにも気づけない鈍感力を夫婦二人して持ち合わせていたら、一体、家の中はどんなことになるのだろう、鈍感と神経質のペアで良かった、と自分の神経質を正当化して来たのだが、いつしか、夫の鈍感力が羨ましくてたまらなくなって来た。
「こんな風に気にしないで過ごせたら、どんなに楽なのだろう」
全くワクワクしない「二人で週末の大掃除デート♬」の企画はあっという間に消滅してしまったが、掃除に隠された魔力を見つけ出せたことと、アメリカ人の自慢テクニック “ブラギング” 術を家庭内で身につけたこと、そして、夫には “余計でもひと言『ありがとう』“ を強制するようになったお陰で、掃除が好きになってきた。
あとは、せめて、二人を足して二で割り、夫の鈍感力に多少の神経質が加わり、私の神経質に大いに夫の鈍感力が加わるといいなぁと願う。
ちなみに、夫の掃除スキルは夫の鈍感力が大いに手伝い、未だに向上していない。
「こんなに貴重な掃除スキルを伝授しているのに、なぜ、習得しない?」
どうやら夫には綺麗にしようという意欲がないらしい。よって、毎度、小うるさい私の指南を素通りする。私が鈍感力を鍛えない限り解決の糸口は見つからない。
そうだ、鈍感力を鍛えよう。世界では私の方が非常識なのだ。