ふと妙なことを思い出すおもしろさ
先日、ふとした時に妙なことを思い出した。
風呂でおなかのまわりをマッサージしていたら、岡山市の地下道にいた時の感覚がよみがえってきたのだ。
あれは、はじめて立ち寄った岡山市を散歩していたときだった。
偶然入った美術館のインドの神々の展示に感動して、昼においしいお蕎麦と天ぷらを食べたあと、駅まで帰り道にとおった地下道だった。
地下道には広場のようなスペースがあって、円の中心にむかってベンチがいくつか置いてあり、会社の昼休憩らしきサラリーマンやおばあちゃんたちがこしかけている。
壁には掲示板があって、付近で開催されているカルチャー教室のチラシを、興味深くながめていたな。
まぁ、いたって普通の街の地下道である。
その地下道にいたときの感覚が、風呂のなかで急にはっきりと思い出されてきて驚いた。
別に、最近「岡山市」というキーワードを見たわけでも、地下道をとおったというわけでもないのに、どうして、今、思い出したんだろう。
なんで岡山城でなく地下道なんだろう。うす暗い、あの地下道。
そして、完全に意識からは消えていた過去のワンシーンを、実はしっかり覚えていたことも、棚からぼたもちの嬉しさだった。
記憶を思い出すプロセスは「想起」といって、そのメカニズムは科学者もまだ解明できていないそうだ。
ここで脳内を想像してみた。
まず経験した一瞬一瞬は、記憶のファイルにおさまる。
日々増えていくファイルは脳内の図書館にしまわれる。
探しやすいように、クリアファイルでなくて、背表紙のあるものがいい。
膨大な量になるから図書館には司書さんがつとめている。
その司書さんが図書館をぐるぐる走り回っていて、今必要な記憶のファイルをさっとカウンターに出してきてくれる。
ただ司書さんにも人格があり気分の浮き沈みがあるから、仕事にムラがあって、いつも必要な情報を出してくるとは限らない。
疲れていてミスをして、とんちんかんなファイルを出してくるときもあれば、遊び心で、わざと脈絡なく手にとったファイルを出してくる場合もある。
「岡山の地下道」を、入浴中の私に差し出してきたのは、きっと司書さんのいたずらだと思う。
そういういたずらは大歓迎だ。
過去のなにげない一瞬が記憶のなかに蓄積されていて、ふと現在地に姿をあらわしたことに、なんともいえず面白さを感じ、豊かさを感じたからである。
経験してきた一瞬一瞬は図書館にしまわれて、創造の源泉になる。
これからも、たくさんの記憶のファイルを集めて司書さんにあずけよう。