【私案】"宮池"と「月日のやしろ」
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こんにちわ、福之助福太郎です。
今回はいわゆる"宮池"の話について書いていきます。これまでも散々議論されてきた話題ですが、考える上での一助になれば幸いです。
『稿本 天理教教祖傳』における解釈と一般論
『稿本 天理教教祖傳』には、
"教祖は、月日のやしろとして尚も刻限々々に親神の思召を急込まれつつも、人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に處する道を示された。
或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよ/\となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、
「短気を出すやない/\。」
と、親神の御聲、内に聞えて、どうしても果せなかった。" (30-31頁)
とあり、
月日にわどんなところにいるものも
むねのうちをばしかとみている 一三 98
むねのうち月日心にかのふたら
いつまでなりとしかとふんばる 一三 99
から、
真実が親神の思召にかのうたら、生死の境に於いて、自由自在の守護が現われる。
とあります。
これは、"ひながた"を雛型として活かすことが出来る素晴らしい解釈だと思いますが、月日のやしろという立場でありながら身を投げようとされた事について矛盾や疑問を感じる人は少なくなかったようです。
信仰者でない立場からすると自殺未遂に他ならないと思いますし、
といった解釈をされる方もいます。
「月日のやしろ」と「教祖の心」問題
月日のやしろという立場と教祖の心について、ざっくりと
①月日の心のみ(完全)
②月日の心のみ(成長性)
③人間としての心もあり月日の心に近づいていった(発展 / 深化)
④人間としての心も存在した(常在)
といった解釈があり、身投げから「人間としての心があったのではないか」というのがよく言われると思います。
「"ひながた"は五十年か九十年か問題」と共に『第十六回教義講習会 第一次講習録抜粋』(中山正善、道友社、1997年)に大体の"あるある"は載ってるので興味がある方は読んでみて下さい。
・"ひながた"は五十年か九十年か問題:78-96頁、317-318頁
・宮池をもとにした教祖の心問題:155-161頁、322-325頁
"宮池"と教祖の心について、
には、山澤為次さんの解釈(『復元』第十二号、36-44頁)をベースにたすけ一条の心というポイントで書かれています。
また、村上道昭さんは"宮池"について、『稿本 天理教教祖伝逸話篇』「一八五 どこい働きに」にある
どこい働きに行くや知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。
(301頁)
の、「起きてるというと、その働きの邪魔になる」から
・教祖は現身のままで「存命の理」の働き(魂だけの働き)がある
→現身はその働きの妨げになる
→寝ている間も「存命の理」として働いていたのではないか
とし、さらに荒川善廣さんの
・魂=身心現象の生起する場所、容器
・やしろ=教祖の身体ではく魂
・教祖の身体=やしろの扉
・やしろの扉を開く(現身をかくす)=「月日のやしろ」の働きが身体的制約を脱する
という解釈(『「元の理」の探求』おやさと研究所、2004、22-28頁)を踏まえて、
"宮池"=「月日のやしろ」となってすぐ「存命の理」としての働きを持ち、身投げによって身体的制約を脱して「月日のやしろ」からいきなり「存命の理」となろうとされた。それを親神様に「短気を出すやない」と引き止められたのではないか。
という興味深い解釈をされています。(『教理随想 教祖を身近に』道友社、2014、24-28頁)
斬新なアプローチのNEWスタンダード
そして近年、これまでと違ったアプローチによって"宮池"解釈の新たな定番となりつつあると思われるのが、伊橋幸江さんの「宮池の話の検討とその理解」(2016、『天研』第18号、99-117頁)、通称「伊橋論文」です。
これについては、
にまとめられてますが、『第十六回教義講習会 第一次講習録抜粋』や『稿本天理教教祖伝講義録』などこれまで議論されてきた内容(教祖理解の態度という観点)を踏まえた上で、"宮池"の出典から解釈をされているとても分かりやすく納得のいく論文です。
(リンク記事も素晴らしいので一読をお勧めします)
また、
にも「伊橋論文」と同じように、身投げの話の出典からの解釈が載っています。
(余談ですがリンク先での質問に対しては同じ考えで、"ひながた"はおふでさきの執筆にしてもそうですが、行動をなぞるのではなく教示されたものに意味があると思います。)
疑問点
「伊橋論文」において、
"宮池の話における「足はしゃくばって、一歩も前に進まず、「短気を出すやない/\。」と、親神の御声、内に聞えて」という具体的な記述は、誰がどのように伝承されたものかということである。これは、教祖の行為を第三者が目にしたことによるものではない。第三者によるそのような伝承は残されていない。それでは、宮池の話は、どのようにして伝えられたのかということになる。稿本教祖伝における宮池の話の出典と思われる伝承は梅谷四郎兵衞「月日の心」の講話にみつけることができる。" (106頁)
と、宮池の話の出典について述べられていますが、『復元』第三十三号「稿本教祖様御傳」に、
とあり、「教祖様御傳」には、
とあります。
また『復元』第十二号「教祖様御傳稿案」28頁に"宮池"についての記述があり、註釈(註九、34頁)には出典として
(イ)初代真柱様「教祖様御傳」
(ロ)梅谷四郎兵衞氏講話「月日の心」
(ハ)諸井政一氏「道すがら外編」
が挙げられています。
「耳元に"短気を出すやない/\"と聞ゆる」は「稿本教祖様御傳」にはありませんが、「足がしゃくばり、行くに行かれず」は「稿本教祖様御傳」にも「教祖様御傳」にもあり、「稿本教祖様御傳」には
「以下ハ政女ニ聞ク」
とあります。
これについて松谷武一さんは、
"中山おまさのこの話は、宇田川文海や中西牛郎のそれとはわけがちがう。これは、現場にいて、わが目で見、わが肌でたしかめた話であって、けっしてひとから聞いた受け売りではない。だれに聞こうにも、ほかに知るひとはひとりもなかった。
(中略)
しかも、よく考えてみると、「御足ガシャクバリテ行クニ行カレズ、跡エ帰ル御心ニナリ玉エバ帰リ得ラルゝニヨリ」というような表現は、直接その場にいたものでなければとても叶わない。"
(『先人の面影』天理教青年会、1981年、9頁)
と述べていて、このように考えると論文の「教祖の行為を第三者が目にしたことによるものではない。第三者によるそのような伝承は残されていない。」という部分に疑問が残ります。
おまささんが直接見たのか、教祖もしくは梅谷四郎兵衞さんから聞いたのかは分かりませんが、
・「稿本教祖様御傳」と「教祖様御傳」の身投げについて
・「教祖様御傳」の「耳元ニ短気を出すやないと聞ゆるゆへ」について
・「以下ハ政女ニ聞ク」について
がいまいち判然としないので、ここからは視点を変えて考えていきます。
逸話に見る"宮池"的要素
そもそも"宮池"が問題視されるのは、身投げという人間的な行動とそれに伴う心情、内に聞こえる神の声といった要因などが挙げられると思います。
しかしそういった、一見自由意志が感じられたり神の思いに反するような行いや神の声や制止といった場面は他にも数多く伝えられているのでいくつか挙げてみます。
" 教祖台所へ行かれること、月日様よりお止めになる
教祖は、台所(炊事場)へ、お出ましなされようとせられると、直ちに、月日様から、耳うつし(月日親神様より、教祖は耳へきこえてくる)があって、「行くのやない」と仰せられ、お止めになされた。これは、見れば「月日のやしろ」に「ほこり」がたまる、と仰せられたのである。"
(高井猶久編『先人の遺した教話(四)教祖より聞きし話・高井猶吉』道友社、1984年、3頁)
" 二二 おふでさき御執筆
教祖は、おふでさきについて、
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ。』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。」
と、仰せられた。
これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。"
(『稿本 天理教教祖伝逸話篇』、30-31頁)
" 八九 食べ残しの甘酒
教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖がお召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。
明治十四年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その日、当時未だ五才のたまへが、それを見て、付添いの村田イヱに、「あの甘酒を買うて、お祖母さんに上げよう。」と、言ったので、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。
教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り上げになった。
ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲みになる事は出来なかった。
イヱは、それを見て、「いと、これは、教祖にお上げしてはいけません。」と言って、茶碗をお返し願った。
考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来た時は、食べ残し同然であったのである。"
(『稿本 天理教教祖伝逸話篇』、152-154頁)
" 一八〇 惜しみの餅
ある人が、お餅を供える時、「二升にして置け。」「いや三升にしよう。」と、家の中で言い争いをしてから、「惜しいけど、上げよう。」と、言って、餅を供えたところ、教祖が、箸を持って、召し上がろうとなさると、箸は、激しく跳び上がって、どうしても、召し上がる事が出来なかった、という。"
(『稿本 天理教教祖伝逸話篇』、294-295頁)
など、
・教祖が何かをされようとする
・神さまの声がかかる
・神さまが動きを支配する
といった事に関連するエピソードがあり、神さまからの声については
" これより先、教祖四十四歳の時、妊娠七ケ月目の或る日のこと、親神から、
「今日は、何處へも行く事ならぬ。」
と、あった。そこで、その日は一日他出せずに居られた處、夜になってから、
「眠る間に出る/\。」
と、お話があり、その用意をして居られると、流産して、その後頭痛を催した。が、夜が明けてから、汚れた布類を自ら水で三度洗い、湯で一度洗うて、物干竿に三、四本も干されると、頭痛は拭うがように治まった。"
(『稿本 天理教教祖傳』、34-35頁)
" 見ぬき見とおし
教祖が、ある時、わしに「今晩おいでや」とおっしゃった。昼から、なるべく行けるように、用事を早くかたづけておいたのや。
真柱さん(初代真柱様)から、ちょうどその晩、丹波市へ行く用事を言いつけられて行くことできなんだ。翌朝「おわび」に行ったのや。「神様から先にきかしてもろうた」とおっしゃって、ニコニコ笑うてござった。教祖には何でも月日様から「耳うつし」があるから、先に知っておいでや。"
(『先人の遺した教話(四)教祖より聞きし話・高井猶吉』、5頁)
"こちらから、こうさしてもらおう、思うたら、先に月日様から耳うつしがあるから、何でも先に知ってござる。"
(同、6頁)
ともあります。
これらの事から教祖の心について疑問を感じた方は、先述した『第十六回教義講習会 第一次講習録抜粋』の155-161頁、322-325頁などをご一読いただければと思います。
個人的には、信仰者としては
いまゝでハなにをゆうてもにんけんの
こゝろがまぢるよふにをもふて 七 53
しかときけこれから心いれかへて
にんけん心あるとをもうな 七 54
いまゝでハをなじにんけんなるよふに
をもているからなにもハからん 七 55
これからハなにをゆうにもなす事も
にんけんなるとさらにをもうな 七 56
どのよふな事でもしかときいてくれ
にんけん心さらにまぜんで 九 3
いかなるの事がみゑるもみな月日
にんけん心あるとをもうな 一二 65
いまなるの月日のをもう事なるわ
くちわにんけん心月日や 一二 67
しかときけくちハ月日がみなかりて
心ハ月日みなかしている 一二 68
どのよふな事をゆうのもみな月日
にんけん心さらにまぜんで 一二 70
このところにんけん心さらになし
月日のをもう事ばかりやで 一二 107
このはなし月日の心ばかりやで
にんけん心あるとをもうな 一二 181
などに尽きるというか、極論すれば教祖の言われる事を信じられるかどうかだと思っています。
「月日のやしろ」について
"宮池"の話や先に挙げたエピソードについて「月日のやしろ」という立場から考え、そこに人間としての心が無いとすると整合性がなく感じられるのでよく分からなくなってしまうと思います。
つまり「月日のやしろ」について、
月日=親神様→教祖(=月日)
なのに体の自由 / 不自由や声(耳うつし)に矛盾を感じる
という事です。
ここで、「月日」という事について考てみると、『天理教教典』「第三章 元の理」(25-35頁)から、月日親神は月様と日様それぞれとしてのお働きをされたと言え、『おふでさき』に
このよふのしんぢつの神月日なり
あとなるわみなどふぐなるそや 六 50
しかときけこのもとなるとゆうのハな
くにとこたちにをもたりさまや 一六 12
とある事からも親神(月日)を、
くにとこたちのみこと:月
をもたりのみこと:日
に分けて説かれている事が分かります。
また、
それからハたしかせかいを初よと
かみのそふだんしまりついたり 六 39
とあるように、
このよふハほんもとなるハどろのうみ
もとなるかみハ月日さまなり
それよりも月さまさきゑくにとこを
みさゞめつけてつけて日さまにだんじ
それゆへにくにとこたちのみことさま
このかみさまハもとのをやなり
これからにせかいこしらへにんげんを
こしらへよふとそふだんきまり
(「和歌体 明治十四年本」(山澤本))
此世の本元なるは、人間もなく、世界もなく、泥の海ばかり。其中に神と云ふは、月日両人居たばかり。此月様と云ふは、國常立之命と云ふ神なり。此日様と云ふは、面足之命と云ふ神なり。其中より、月様が先に出て、國床を見定めて御固め給ひて、日様に御談示被成候には、
「泥の海中に月日両人居たばかりでは、神と云ふて敬ふ者なし。なんの楽みもなく、人間を拵へて、其上、世界を始めて、人間に神が入込んで、教へて守護させば、人間は重寶なる者で、陽氣遊参、其他何事も見られること」
と相談定め、
(吉川萬壽雄「神の古記対照考」『復元』第十五号、1949年、1頁)
など昔の文献には「月様と日様の相談」という記述が見られます。
ちなみに、安藤正吉さんは『みかぐら歌講話』(本愛大教会、1967年)において第二節について、
"この世の中は元は泥海世界であって真暗な世の中であった。この泥海世界に水の神、火の神がおられて天地を二つにひらいて人間をこしらえて陽気ぐらしをするのを見たい、又、人間をこしらえて楽しませたいとご相談がはじまって、第一に天と地とを開いて下されたのである。"(6頁)
と言われており、ここからすると第二節の「このよの」の手振りは月様と日様の相談を示されているとも解釈できるように思います。
このように見ていくと、「月日のやしろ」には
・月的側面:くにとこたちのみこと
・日的側面:をもたりのみこと
があり、それらは"相談"をする関係[二つで一つの関係]と言え、
月日=「月+日」 とすると、
月+日=親神様→教祖(月+日)
となり、体の自由 / 不自由や声(耳うつし)は月様と日様それぞれの心の表れ(相談)、言い換えると[理]的働きと[情]的働きとも言えるのではないかと思います。
理と情
理と情について、『第十六回教義講習会 第一次講習録抜粋』に「親神様の理と情」という頭注があり(379-385頁)
にんけんもこ共かわいであろをがな
それをふもをてしやんしてくれ 一四 34
"教祖は一面に於いて、月日のやしろとして理を説かれた。しかも、他の半面に於いては、地上に於ける親として、人々によく分かるようにとて、自らの身に行い、自ら歩んで人々を導かれた。"
(『稿本 天理教教祖傳』、210頁)
から、人間の親子関係をもとに
月日のやしろ:理
ひながたの親:情
と解釈した質問があります。
それに対して二代真柱さまは、上記のように切り離して考えるよりも「ひながた」に重きをおいて欲しいとされた上で、
"教祖のお姿の中に、ひながたの中には、もちろん理によって截然とした面もあるが、同時に情によってこれを推し進めておられる。もしも人間の心からこれをうかがうならば、親心の一途にすべてお話しいただいていると思ったならば、お立場なり、お言葉がよくわかる。かようにお教えいただいているように存じますし、私はかように信じております。"(384-385頁)
と言われています。
ここから考えると、
" 二五 七十五日の断食
明治五年、教祖七十五才の時、七十五日の断食の最中に、竜田の北にある東若井村の松尾市兵衞の宅へ、おたすけに赴かれた時のこと。教祖はお屋敷を御出発の時に、小さい盃に三杯の味醂と、生の茄子の輪切り三箇を、召し上がってから、
「参りましょう。」
と、仰せられた。その時、「駕籠でお越し願います。」と、申し上げると、
「ためしやで。」
と、仰せられ、いとも足取り軽く歩まれた。かくて、松尾の家へ到着されると、涙を流さんばかりに喜んだ市兵衞夫婦は、断食中四里の道のりを歩いてお越し下された教祖のお疲れを思い、心からなる御馳走を拵えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、
「えらい御馳走やな。おおきに。その心だけ食べて置くで。もう、これで満腹や。さあ、早ようこれをお下げ下され。その代わり、水と塩を持って来て置いて下され。」
と、仰せになった。市兵衞の妻ハルが、御馳走が気に入らないので仰せになるのか、と思って、お尋ねすると、
「どれもこれも、わしの好きなものばかりや。とても、おいしそうに出来ている。」
と、仰せになった。それで、ハルは、「何一つ、手も付けて頂けず、水と塩とだけ出せ、と仰せられても、出来ません。」と申し上げると、
「わしは、今、神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や。お気持ちは、よう分かる。そしたら、どうや。あんたが箸を持って、わしに食べさしてくれんか。」
と、仰せられた。
それで、ハルは、喜んでお膳を前に進め、お茶碗に御飯を入れ、「それでは、お上がり下さいませ。」と、申し上げてから、箸に御飯を載せて、待っておられる教祖の方へ差し出そうとしたところ、どうした事か、膝がガクガクと揺れて、箸の上の御飯と茶碗を、一の膳の上に落としてしまった。ハルは、平身低頭お詫び申し上げて、ニコニコと微笑をたたえて見ておられる教祖の御前から、膳部を引き下げ、再び調えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、
「御苦労さんな事や。また食べさせてくれはるのかいな。」
と、仰せになって、口をお開けになった。そこで、ハルが、再び茶碗を持ち、箸に御飯を載せて、お口の方へ持って行こうとしたところ、右手の、親指と人差指が、痛いような痙攣を起こして、箸と御飯を、教祖のお膝の上に落としてしまった。ハルは、全く身の縮む思いで、重ねての粗相をお詫び申し上げると、教祖は、
「あんたのお心は有難いが、何遍しても同じ事や。神様が、お止めになったのや。さあさあ早く、膳部を皆お下げ下され。」
と、いたわりのお言葉を下された。
こうして御滞在がつづいたが、この様子が伝わって、五日目頃、お屋敷から、こかん、飯降、櫟枝の与平の三人が迎えに来た。その時さらに、こかんから、食事を召し上がるようすすめると、教祖は、
「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。食べられぬのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ。」
と、仰せられたので、こかんが、食べて頂こうとすると、箸が、跳んで行くように上へつり上がってしまったので、皆々成る程と感じ入った。こうして、断食は、ついにお帰りの日までつづいた。
お帰りの時には、秀司が迎えに来て、市兵衞もお伴して、平等寺村の小東の家から、駕籠を借りて来て竜田までお召し願うたが、その時、
「目眩いがする」
と、仰せられたので、それからは、仰せのままにお歩き頂いた。
「親神様が『駕籠に乗るのやないで。歩け。』と、仰せになった。」
と、お聞かせ下された。"
(『稿本 天理教教祖伝逸話篇』、35-40頁)
" 七三 大護摩
明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お坐りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、直ぐお居間へお引き取りになった。
かねてから、地福寺への願い出については、
「そんな事すれば、親神は退く。」
とまで、仰せになっていたのであるが、そのお言葉と、「たとい我が身はどうなっても。」と、一命を賭した秀司の真実とを思い合わせる時、教祖の御様子に、限りない親心の程がしのばれて、無量の感慨に打たれずにはいられない。"
(『稿本 天理教教祖伝逸話篇』、128頁)
なども情と理の二つの働き[日様と月様の心の表れ]と言えるように思いますし、そうなると先述の逸話と同じく"宮池"の話も「月日のやしろ」である証拠の話と言えるのではないでしょうか。
最後に
今回は引用やリンクも多く、当初の想定よりかなり長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回の見方から、
・「月日のやしろ」の証拠
・「短気を出すやない/\。」の教示
という事が言えると思いますが、"宮池"についての考えを深める一助になれば幸いです。
お付き合いいただきありがとうございました。