『新宿野戦病院』第1話の所感
不可視化されてきた人に光を当てる(ただし雑に)
遅ればせながら『新宿野戦病院』第1話の所感を書いておきたい(FODですでに見られるという第2話はまだ見てません)。
浄化された歌舞伎町において覆い隠されている人たちをはぎ取って見せる、という意味で、実は不可視化された人たちに光を当てる『虎に翼』や『アンメット』に通じるテーマを持つ本作。だが、その手つきはだいぶ違う。
身寄りのないホームレス同然の善良そうなおじいさんが、実はヤクザの元構成員で、職にあぶれたヘイトを外国人に向けて発砲事件の加害者になる。
どこにでもいそうな外国人は、実は難民申請が通らず在留資格がなく、病院に行ったらそのまま入管に送られ強制送還されてしまう事情を抱えている。
高峰亨(仲野太賀)が「あいつら平気で裏切るし、踏み倒すし、開き直るし、逃げるし」と愚痴るように、本当に助けの必要な人たちは助けたくなる顔をしていない、という側面を容赦なく描き出す。
『虎に翼』でいえば道男周辺のエピソードに近いが、その描き方はもっともっと猥雑で滑稽でちょっと露悪的だ。言うなれば「雑」である。
だが、それはクドカンの人生観や世界観と不可分に結びついていて切り離せない作風であり、やめろと言われてもやめられないものなのだと思う。
”上から目線の平等主義”から取りこぼされる人たち
本作のキーワードであろう「平等に雑に助ける」とは、まさしく宮藤官九郎の作劇の手つきと世界観そのもので、言い得て妙だなと思った。
ここからはすごく抽象的な作家論になってしまうのだけれど。
この社会には、「人間は平等に尊くて高潔で価値がある(だから尊重されるべきだ)」と言われても、文化資本に恵まれた頭のいい人たちが議論している偽善や机上の空論にしか聞こえなくて、自分はそこから取りこぼされていると感じてしまう人たちが一定数いる。
で、そういう人たちにとっては、「人間は平等に愚かで滑稽でくだらない(だから愛おしいんだ)」と言われた方がはるかにリアルで救われるのだ。
仮に前者を”上から目線の意識高い平等主義”、後者を”下から目線の意識低い(=雑な)平等主義”とすると、クドカンの目線はいつも後者に向けられていて、そこに救われて支持する人がたくさんいるのだと思う。
その感覚を理解できないと、「雑な」というのが単なるバックラッシュや、人間の尊厳を軽視しているように見えてしまうのではないだろうか。
私はそれは、どちらも人間讃歌であって、イズムの違いだと思っているんだけど、残念ながら両者が相容れないこともわかるから難しい。
「Yeah」と「いや」の中間でしか答えられないものがある
第1話にはもう一つ重要な描写が出てくる。それは、英語の「Yeah」と日本語の「いや」の中間を狙って返事をするというヨウコの態度だ。
横山勝幸(岡部たかし)は、「パパ活とギャラ飲みの違いは女の子が決めることで、男が決めるのは傲慢」「堀井さんが男か女かは本人が決めることで、俺たちが決めるのは傲慢」「(治療を)やるかやらないかは患者の状態が決めることで、医者が決めるのは傲慢」と繰り返す。
また、「アメリカンドッグかコーンドッグか」「コルトレーンかジャズ研の本多くんか」といった小ネタによっても、この世界が答えの曖昧な2択で溢れていることが示される。
つまり、白か黒か、YESかNOかを決めるのは常に当事者であって、第三者や部外者がジャッジするのは傲慢である、というのが本作のテーマの一つになっていくはずだ。
そしておそらくそれは、『季節のない街』『不適切にもほどがある!』から続くクドカンのスタンスでもあるのだ。
奇しくも、同じ今期の月9ドラマ『海のはじまり』には、「はい」か「いいえ」が決められず、「うん」と「ううん」の間の返事をする夏(目黒蓮)という人物が出てくる。作風はまるで対極にある2つのドラマだが、実はどちらもYESかNOの二元論では答えられないものを描こうとしている、という意味で共通しているのが面白い。
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