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男のコンプレックス Vol.8「ジブリ男子の『耳すま』賛歌」
【注記】
これは、マガジンハウス「POPEYE」2010年2月号〜2012年5月号に連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在では男尊女卑や女性蔑視、ジェンダーバイアスに当たる表現もあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。
ジブリ好きじゃないと
この国では生きづらい!?
毎年、夏になるとJRでポケモン・スタンプラリーってやってるじゃないですか。鶯谷や上中里といったシブい駅に、子どもが大挙して押し寄せるシュールな光景が見られるヤツね。
俺、あれに参加してる家族連れを見ると、なぜか切ない気持ちになってちょっと泣きそうになってしまうんだけど、この前テレビでジブリの『耳をすませば』を観ていて、その理由がぼんやりわかった気がした。
もうね、すごいんです放送中にツイッターのタイムライン上が。いちいちセリフを実況したり、「結婚しよう」までをカウントダウンしたり。正直、いい大人があんな図書カードストーカー男の繰り出す三流ツンデレ恋愛テクにキュンときてる場合じゃないぜ、と思うんですよ。
でも、そういうことを言うとこの国では非国民扱いされますでしょ。「わかってない」「素直じゃない」「だからお前はデリカシーがないんだ」と、主に女性から白い目で見られてしまう。男にとってそれは死活問題。だから、ジブリを茶化すようなことは言えないわけです。
「『耳をすませば』が好きなアタシってピュアでしょ?」
「『魔女の宅急便』を熱く語れる俺ってステキやん?」
大切なのはそういう相手のプレゼンを読み取ることであって、「『海がきこえる』って、設定がエロゲだよね」みたいなオモシロは要らない。27歳にもなって、男女のジブリトークの作法がようやくわかってきた。
それに、『耳すま』が大人の胸にキュンとくるのは、今はまだ中学生の聖司と雫が、たぶん将来、本当には結婚しないだろうということがわかってしまうからだ。そういう「現実」がわかる年齢に、自分がなってしまったことへの感傷。ジブリ作品の魅力って、そういう「大人が失ったあれこれ」をめぐるファンタジーだと思うのよね。
そう考えると、俺がポケモンラリーの家族にグッとくるのは、ああいう妻と子どものいるありふれた家族の幸せが、自分にこの先訪れないかもしれないファンタジーだから。
「そういう幸せの形も選べたかもね」と先回りしてノスタルジーを感じているのだ。自分で言ってて悲しくなってきたのは内緒である。
(初出:『POPEYE』2010年9月号)
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【2023年の追記】
当時、「JRのポケモンラリーに来ている家族連れ」は私にとってかなり長らく、冗談でなく本当に琴線に触れる感傷の対象でした。
同級生の中でも、早い人はすでに結婚して子供を産みはじめているタイミングだったこともあり、「自分はもうそっちの道を選ば/べなかったのだ」と思うことに酔っていたのだと思います。
本当にクソですが、子供連れでポケモンラリーを回るような人生を、ありふれていてつまらないとどこかで見下していた気もします。そのくせ、「そんなつまらないことをこなせてこそ大人だ」「つまらないという理由でそういう人生を捨てた自分は欠落している」という劣等感や負い目も抱えていました。…という部分もひっくるめてやっぱり「そんな自分が特別だ」と自己陶酔していたのでしょう。
今ならもう、そこに必要以上に優劣を見出したりしないし、何の葛藤も抱えていないので、「別にそんなことしたくないから選ばなかったのだ」と屈託なく言えるんですけどね。
…あれ、なんの話でしたっけ。ジブリについては今さら私が言うことは何もないし、日本人は全員、宮崎駿とジャニー喜多川に性癖を歪められ感性を育てられているので、私たちは老人ホームでも大広間のテレビに映る「金曜ロードショー」を食い入るように見ながら、一生ジブリ作品にキュンキュンさせられたまま死んでいくのだと思います!(暴言)