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映画『サード』について

人は時に過ちを犯して鉄格子の中で過ごさなければならないときがある。重要なのはその中で希望を失わないことだと言われる。しかし、言われているような希望など退屈で、おまけにそれが嘘っぱちの作り事(社会秩序維持のために持ち出される都合のよい話)でしかないと分かったら、それでも人はおとなしく鉄格子の中で過ごしていくことができるだろうか。

確信的な希望(ホームベース)のない状態で外側に出るまで待ち続けられるだろうか。ある者は希望を握りつぶし、ある者は脱獄(逃亡)を企て、ある者は自ら命を絶ってしまう。サードはそうした人たちがそれぞれのホームベースへと駆け抜けていくのを見ている。すぐ傍を彼らが駆け抜けていく。

しかし、それでもサードにはホームベースを見出すことができない。彼はホームベース手前で、旋回し、巡回し、走り続けている。ホームベースが本当にあるかどうかは分からない。もしかしたら、望んでいるようなホームベースはないのかもしれない。それでも絶望せず走り続けるしかないのだ。もしそうなら、彼にとってもはやホームベースは必要ないのかもしれない。

対照的に、同じ事件に関わった女性たち(テニス部、新聞部)は、あっけなく嫁ぎ先を見つけ、ホームベースにたどり着いたようだ。ここで、劇中の詩人の言葉が思い出される。

「男は売買することのできない商品である」

そんな中、ⅡBは走り続ける者を追いかけることしかできない。つまり、そういうことだ。


この映画の主題のもう一つはセックスの問題についてであろう。男たちはいわばそれにホームベース(最終的解決、終点)を求めているわけではない。男たちにとってそれは走り続けることの一環にほかならない。しかし、女性たちにとってはそれはホームベースを求めてなされるのである。そういう意味で中盤の売春行為は、まさにホームベース手前のサードベースにおけるラストスパートに他ならない。

以上、寺山修司の視点から

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