「言葉」の罠-絶対不変の真理についての考察
現代社会は様々な解釈を呼び起こす言葉で溢れている。
そして、その言葉が当初の思惑を超えて坂道を転び始めると、やがて見たことのない実体となり、そうした過程全体を理解しようとする態度を持たない人にとっては、ある「言葉」は非常に魅力的な側面を垣間見せる。
だからといって、いわゆるオピニオンリーダーが乱立しては消えてゆくような泡(あぶく)のような栄枯盛衰の中で絶対不変の真理を追い求めようとすることは、ときに危うい態度となる。
それは「永遠なる判断留保」という檻の中に自ら閉じこもることになりかねないからだ。
しかし一方で、そのような態度は場合によっては「自らの言葉」を作り上げる土台にもなりうる。というのも「本質」という言葉に表されるような長い文脈の中での傾向性を捉える可能性もないではないからである。
文学の中に自分宛のメッセージを読み取ることは紛れもなくこの世の中で不可欠な感性である。つまりそれは自分だけの意味を錯覚かもしれないにせよ、当人に与えるという意味で、その人に生きる意味を与えるからだ。しかし、もちろんここに落とし穴がないわけではない。
ただ「落とし穴」と「希望」の見分けがつかないというのが実際の世界の姿なのかもしれない。ある決断の当否が、その決断がもたらした結果によって決まってしまうということは、その正当性は運によって左右されるということにほかならないからだ。
この両義性、「言葉」の表面の意味に張り付いている裏面の意味を読み落とすことがないよう注意深く文章を「言葉」を読んでいくということが必要なのだ。必ず「言葉」には表面の意味と対立する裏面の意味を内包している。その言葉が真に迫っていればいるほど、その意味の相反性は深く大きくなるということ。それは人の生きる意味を一変させてしまうほど恐ろしいことであるということ。「祝い」と「呪い」は同時に起こる場合があるということ。
自分を守るということは、「言葉」に対する適切な距離感を見失わないようにすること、言い換えれば「感覚」をもって感覚の範囲で「言葉」を捉えることが最後の予防策となるだろう。