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歪みのなかにいる|Y.O.|2023-24 essay 07【小松ゼミ・フィールドワーク】

所属や分野・領域の垣根を超えて多様な人たちが集まり、対話し、実践的に学び合う「ふくしデザインゼミ」。2度目となる今年は、28名の学生と若手社会人が、東京八王子、伊豆大島、滋賀高島、長崎諫早の4地域をフィールドに「福祉をひらくアイディア」を考えてきました。

正解のない世界を漂流する2ヶ月のプロセスのなかで、若者たちは何を感じ、何を思うのか。このエッセイでは、ゼミ生一人ひとりの視点から、ふくしデザインゼミを記録します。
essay 07からは、八王子でのフィールドワークの話です。


意識的にあれこれ動くのを止め、ふわふわと漂流するからこそ感じられることがある。

このエッセイは、「『ただ、いる』を浮遊しながら考える」をテーマにした小松ゼミの、東京・八王子でのフィールドワークの体験記です。前半では、写真を通して「ただ、いる」滞在の雰囲気を味わっていただけたらと思います。後半では、そのなかで考えたことを記してみています。

「ただ、いる」2日間

1日目はまず、社会福祉法人武蔵野会が運営する「八王子福祉作業所」をおとずれました。集合した西八王子駅から施設までの道中は、〈「ただ、いる」が感じられたものを写真におさめる〉というワークを行うことに。

何の施設かは忘れてしまったのですが、建物の前に置かれた植木鉢に、ぼくは一本の風車を見つけました。風を受けるとその羽根を回転させ、風が止むと動きを止める。それにはなんの意図もなく、「ただ、いる」ように感じました。

「ただ、いる」に目を凝らし耳を澄ませながら15分ほど歩き、現地に到着。
はじめに、職員さんから作業所について説明を受けました。

 そして、「ただ、いる」ワークへ。過ごし方ややることはいっさい決めず、ゼミ生一人ひとりが思い思いに事業所内を動き回り、ぼーっとしたり、お話をしたり。5、6時間ほどの「ただ、いる」滞在を終えたあとには、それぞれが感じたことを話し合いました。

その後、大雪のなか近くの古民家に移動。みんなで料理を作りました。

2日目。雪の影響もありまちあるきができず、古民家で「2日目のカレー」を食べたあとは八王子市中央図書館に移動。

西八王子の地域包括支援センターで「認知症の人にやさしいまちづくり」に取り組む菊地志保さんと、武蔵野会で「ことわらない相談員」として生きづらさを抱える人の相談にのっているの山田真由美さんのお話を聞いたあと、質疑応答や対話の時間を過ごしました。

「ただ、いる」だけで、頭が割れるくらい悩み考え抜いた、非常に濃厚な2日間を過ごせたと思います。そのなかでも、八王子福祉作業所での滞在のときに感じたこと、考えたことについて、もう少し詳しく書いてみます。

脱け出して気づけた人間らしさ

「ただ、いる」は、枠から脱け出す時間だった。

障害とは。労働とは。人間らしさとは、何か。

そんなことを、自分のいる枠の外から考えた。

「ただ、いる」について、このフィールドワークの前までは「何もしないこと」という認識、どちらかというと静的なイメージが強かった。ところが、実際に現場で浮遊したことで認識が変わった。

「ただ、いる」とは、「作為がない」ということなんじゃないか。
 
ゆらゆら揺れながら、施設内を自由に徘徊している利用者さん。休憩時間中に、ダンボールで創ったゲーム機を、眼を輝かせながら紹介してくださった利用者さん。お昼の給食後、屈託のない笑みで「美味しかったな~~」と伝えてくださった利用者さん。

時間軸で言うと、「今」に意識が向いていた。

「過去に怒られたから~しないでおこう」「これをしたら自分に利益がもたらされるだろう」といったように、意識が過去、未来に行ったり来たりすることは少ない。現在に没入している。

そんな彼らは非常に人間的で、作為が感じられなかった。ぼくの目には、「ただ、いる」ができているように映った。

ダンボールで創ったゲーム機

そして、「ただ、いる」ができている人間的な姿は、ぼくが日常で感じている緊張感を和らげ、安心感を与えてくれた。

たぶんそれは、ぼくが日常で人間らしさを失っていることがあるからだと思う。これまでのアルバイトの経験や普段の立ち振る舞いを思い返し、いかに自分が、内側にあるものを抑圧していたかに気づかされた。意識が過去と未来を往復していて、今に集中できていない。人に迷惑をかけてはいけないと思いすぎている。

改めて自身の人間味の無さ、面白みの無さを痛感した。それと同時に、「ただ、いる」ができている彼らに対して、憧れの感情を覚えた。

障害とは何なのかわからなくなった。

漂流したことで浮き上がってきた「歪み」

と、ここまで書いてきた内容は極めて表面的かつ部分的で、当事者が抱える個々の苦しみや福祉事業所が抱える問題等について、何も言及できていない。ぼくたちの滞在をよく思っていない利用者さんもいた。

「ただ、いる」は、ひとりよがりな側面も持っているんじゃないか。

現場での漂流を通して、わかりやすい部分だけを見てわかった気になっている。部外者の、ただの個人的な感想にすぎない。 

それでも、ここまで書いたことは、どうも私的な問題だと思えない。というのも、”「ただ、いる」ができている人”、言い換えると、”「現在」に集中し、内側の感情を抑制せず、人間らしくいられている人”が、現実、社会にはあまりにも少ないと感じるからだ。

なぜ「ただ、いる」のがこんなにも難しいのか?なんでこんなにも息苦しいのか?

「迷惑をかけてはいけない」という意識が強すぎるからなのか、あるいは、「細かすぎる」からなのか?

集団、組織、世間の、緻密に作られたルールに従うことが優先される社会。電車の時刻表と、遅延に対する乗客の対応が物語っている。各人の「こうありたい」「これがやりたい」が内側に押し込まれる。公共の福祉。多数決の原則。少数派の意見よりも多数派のそれの方が正しいと、みんながなんとなく思っている気がする。

こういうことが、「ただ、いる」が難しい理由なのかどうかはわからない。
ただ、何かが非常に歪んでいて、偏っていることは感じる。個人的な意見として、人々は「数字」に囚われすぎているように思う。ごくわずかなものさしで人を見ている。

例えば、メディアはスポーツ選手の偉業を大々的に報道する。それ自体悪いことだとは思わない。だがその一方で、豪雪の日、除雪作業中に事故で亡くなった方々のことをほとんど報道しなかったし、人々も注目しない。この偏っている現状に対して、逆向きの力を加えないといけないんじゃないか。本筋とは逸れるけど、中学・高校生が、「学業不振」が最も多い要因で命を絶っているという現状がある。もしかすると、「ただ、いる」ができる場をつくることは、人を見るものさしが「数字」に傾いている現状を和らげる、一つの手段になりうるんじゃないか。

そんなことを、この作業所での滞在で感じた。

理想的で現実味がないと批判されるかもしれないけど、今後、そういった場は必然的につくられていくと思う。

福祉拠点は、誰もが「ただ、いられる場所」になれるのかもしれない。それが、「地域にひらく」ことになりうるんじゃないかと、勝手ながら考えている。


|このエッセイを書いたのは|
Y.O.
関西学院大学・人間福祉学部・4年

お知らせ ~公開プレゼンを開催します!~

3月3日(日)には、正解のない世界を漂流した2ヶ月のプロセス、そしてアウトプットを共有し、みなさんとともに思考と対話を深める、公開プレゼンテーション〈「ふくしをひらく」をひらく〉を開催します!
エッセイを綴るゼミ生たちがみなさんをお待ちしています。ぜひご参加ください!


 




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