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ふくしがもたらすあたたかさ|園田佑也|LOCAL 2024 essay 01
2022年から3年目となった「ふくしデザインゼミ」。24年7月からは、約3か月の「ふくしデザインゼミ LOCAL TAKASHIMA」を開催しました。
人口4万6千人、京都から電車で45分の滋賀県高島市を舞台に、21名の学生・若手社会人が取り組んだのは、「まちをゆたかにするアイディアをカタチにする」こと。プログラムは11月にひと区切りしましたが、ゼミ生の実践や学びは続いています。
今日から、そのプロセスをゼミ生自身の言葉で綴ったエッセイの連載をスタートします。第1弾は、京都のデザイン会社に勤めながら参加された園田さんのエッセイです。お楽しみください!
ぼくは憧れの東京を離れた|ゼミ以前
ぼくは話すことが苦手だった。ある時から苦手になった。
小学生の頃、吃音症という症状が自分の身に降りてから十年余り、大人になったぼくは子どもの頃よりもスムーズに話すことが難しくなっていた。プレゼンをすれば、次の言葉が出るまで長針が進む。雑談をしようにも、「吃音が出そうだ」という予期不安で頭がいっぱいになる。
「このままこの苦しみと真正面に向き合いながら生かなければいけないのか」。日々の喧噪の中ではこの大きな問いに対する答えを出すことは難しかった。悩んだ末、苦労して入った新卒の会社を辞めて、一年間のブレイク期間を過ごした。
この期間は、大学生の頃から過ごした東京を離れた。長野で生まれ育ったぼくには、東京は憧れで、全部があって、自分を生まれ変わらせてくれるはずの場所だった。それはあながち間違いではなくて、学生時代、そして社会人のスタートを東京という地で過ごしたことは間違いなくぼくの糧となっている。ただ、キャリアを重ねるにつれて東京でどう生きたいかが見えづらくなっていた。
「ここが吃音症で苦しむ自分が暮らしていく最適な場所なのだろうか」。考えた末、義実家に近い京都へ移住した。
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ブレイク期間、たくさんの新鮮な日常を過ごした。関西の人のあたたかさに触れた。考えるばかりでなかなか行動できていなかったことも、実践した。そんなふうに過ごすうち、次第に心に余白が生まれ、吃音症の症状も少しずつ、少しずつ減っていった。
はじめて自身の障害とその体験を俯瞰で見れるようになったことで、ふと疑問に思った。
〈障害〉はどうして、ひとと社会を離してしまうのか?
今ならもう少し違う表現で表現するが、当時はこう感じていた。
社会とぼくをつなぎとめる「ふくし」を知りたい|ゼミとの出会い
就職活動のとき、なんとなくレールから外れることが怖くて、はじめは就活人気の高い会社を受けていた。履歴書には吃音症の症状と配慮について記したり、事前にメールで伝えていたが、やはり面接は上手くいかなかった。
単語を発して、
数秒空いて、単語発して、
十数秒空いて、
(あぁ、やっぱり言えない。)「すいません、やっぱり上手く喋れなくて...」
面接が途中で終わる。そんなことが続いた。
スムーズに話せないことで自分の想いを伝えられず、吃音症という症状以上に、自分が何者でもないかのように感じた。就活が進むにつれて、言語を介して他者と密接に関わる仕事は除外されていった。それはとても辛くもあったが、「やりたいことの実現」と「吃音症を通した苦しみをなるべく感じないこと」を天秤にかけたら、迷いなく後者が選ばれた。
それくらい吃音という障害がぼくに与える影響は大きかった。今でも、あの時くらい話すことが困難になったら後者の生き方を選ぶだろう。与えられたままならない身体によって選択肢が狭まる。「出来る」の範囲があまりに狭いと、こんなにも選択肢が狭まって、社会が遠ざかってしまうのか。
しかし、そんな障害を受け止めてくれるケアや福祉もある。
「ケアやふくしってどういうことで成り立っているんだろう?」そんなことを考えていたころ、導かれるようにふくしデザインゼミと出会った。
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京都での仕事を通して、ぼくみん、ふくしデザインゼミとは出会った。
ここでなら、このモヤモヤについて、体験的に学ぶことができるかも。障害と隣り合わせのものでありながら、大学や仕事では触れてこなかった「ふくし」に、ぼくは飛び込んでみることにした。
正解のない学びの場|キックオフでの学び
8月24日。日差しが肌を焦がす季節。自分をふくめ21名のゼミ生が集まり、「ふくしデザインゼミ LOCAL」のキックオフがスタートした。背景も、年代も、興味も、立場も違う人たちが、集まっていた。新鮮なものがたくさん、目に、耳に、入ってくる環境で、正直不安しかなかった。
ゼミのテーマは、「高島のまちをゆたかにするアイデアをカタチにする」こと。いろんな違いのあるメンバーと一つのカタチをつくる。短く限られた期間で、地域の人と関係をつくり、アイディアをカタチにすることが、本当にできるのだろうか?
そんな不安を抱えていたぼくに、講師の川中さんの言葉が響いた。
「教室は間違えるところです、だから大いに間違えてたくさん学んでください。」
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キックオフのレポート記事にも。
そこでは前提知識も必要なかった。生業や学業として福祉やデザインに関わっているゼミ生もいたけれど、その人たちが「正解」なわけでも、立場が上なわけでもない。興味と素直な気持ちがあれば学ぶことができる、フラットであたたかい空気。
ここでなら、学んでいけそう!そんな気持ちを抱き始めてキックオフを終えた。
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サイゼリヤで熱く繰り広げられた恋バナ…
あたたかな高島のまち、ひと|ある日の学び
キックオフのあとは、フィールドワークや、アイディアをカタチにしていくためのミーティングを重ねていく。怒涛の3か月だった。書ききれないほどの出来事と、気持ちの変化があった。
ぼくの所属は「TAKASHIMA BASEゼミ」。滋賀県高島市にある、居場所であり、挑戦のきっかけであり、つながりが生まれるところ。ここを舞台に、「高島のまちをゆたかにするアイディア」を考える。
同じチームの5名のゼミ生のなかには、高島に行ったことがないメンバーもいた。控えめでよそよそしさも残るメンバーだけど、「まずは行ってみよう!」という行動力は、はじめから一貫して共通点。早速、高島へ向かった。
実際にTAKASHIMA BASEに行ってみたら、どえらく、あたたかい!何者でもない初対面のよそ者に、揚げたてのからあげをどんどんふるまってくれる。あたたかいコーヒーを淹れてくれる。地元の高校生たちもちょっとずつ心をひらいて接してくれる。
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はじめは、どちらかというと、自分の学びのために高島に「お世話になる」気持ちでいた。けれどこのあたたかさに触れたとき、「あぁ、この地域のために何か残していきたいな」、そんな気持ちになったのを覚えている。
自分のカードも出す|フィールドワークでの学び
とはいえ、「アイデアをカタチにする」のはすごく難しかった。
「これって地域のためになってる?」
「結局何がしたいんだっけ?」
「ぼくたちがやる意味って何?」
そもそも…と、ものごとの内側にたちかえる。目的や効果と、遊びや面白みを混ぜ合わせて、カタチにする。そんな時間を行ったり来たり。
メンバーは、背景も年代も興味も違う。それが、たぶん一番の難しかった。行動力や意欲があって、よりよいものをつくりたいと思っているからこそ、ときにそれぞれの「こうあるべき」が衝突してしまう。
フィールドワーク2日目の夜は、とりわけ議論が行き詰っていた。そこでアイデアについての話し合いからは一旦離れて、メンバーお互いに目を向けて、いいところや感謝しているところを伝えあう時間をとってみた。そのときのやりとりが忘れられない。
メンバー:「もしかして、わたしたちに気を遣ってますか?、わたしたちのノリに合わせようとして無理してないですか?」
ぼく:「いや、そんなことないよ」
反射的に、場を悪くしないためだけの言葉を吐いた。
メンバー:「素直に考えや気持ちを共有してもらった方が助かります」
僕は、ㇵッとした。
チームでもゼミ全体でも最年長のぼくは、どこか気を遣っていた。ぼくが意見を主張すると、みんな気を遣って別の考えを言いづらくなるんじゃないかと。だからぼくは意見を言いすぎず、まとめ役を意識していた。けれど。
あぁ、ぼくの気遣いはチームを停滞させる行動だったんだ、と。メンバーは5人。5分の4のカードしか場に出ていない状況だったかもしれない。
正直、ぼくの考えや気持ちが、みんなとは違うと思うことが多かった。だから、自分のことは置いておいて、まとめ役で力を発揮するべきだな、と。
でも、「元々自分がもっている力」を発揮するためにこのゼミに参加したんじゃなかったはず。違和感に向き合うためにここにきた。そしてこの場には「正解はない」はずだった。
それからは、気遣いと役割を分けるようになり、まとめ役の役割でも、ぼく自身の想いや考えを投げかけるようになった。すると、お互いの「こうあるべき」が衝突することも増えていった。でもそれでいい!それが本来あるべきチームのカタチだったと思う。
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とはいえ、こんなふうに考えられるようになったのはこの三か月間が終わってからのこと。正直、当時はそのぶつかりや葛藤に苦しんでいた記憶の方が強い。
でも、それが今は学びとして吸収することができている。葛藤や苦しみを受け入れて、学びにかえることができた。この3か月があったからこそ、これから生きていくなかでも、逃げずに受け入れ、学んでいけるような気がする。
ふくしってなんだろう|3か月を終えて
障害やふくしへの疑問も持って飛び込んだぼくが、3か月のさまざまな体験・学び、どう変化し、どういう答えを出したかというと、「よりわからなくなった」というのが正直なところかもしれない。表面的な言葉でそれっぽいことを言うことはできるようにはなった。でも、その本質がどこにあるのかは、考えれば考えるほどわからない。
ただ、一つ、この経験から気付いたことがある。
正解がない場のあたたかさ。高島の人たちのあたたかさ。違うからこそ、互いのカードをだして、フラットに学びあえる場の空気。そんな、「人」や「地域」をおもうあたたかさが、ふくしの一つといえるのではないか。
実際に「まちをゆたかにするアイディア」を考えるプロセスのなかで、たくさんのあたたかさに触れた。社会をよくしよう、地域をゆたかにしよう、と様々なかたちで投げかけられている世の中の取り組み。その根底には、その人たち自身のあたたかさや、地道に築かれた関係性があるのだ、ということに気づかされた。
あたたかな人がもたらす、あたたかな関係性。あたたかな実践。これが今のぼくが考えるふくし。
ぼくがいま勤めている会社には、「だれかのおいかぜになる」というステートメントがある。これには、様々な人や会社の想いに共感しておいかぜになることで、その人や会社が創造する環境や社会のおいかぜになる、という想いが込められている。
ふくしデザインゼミを通して、このステートメントへの納得感も大きくなった。ゼミで体験した「だれかのために」が循環する地域。これは、ぼくが感じていた障害と社会の関係への疑問をほどいてゆくヒントになる気がしている。
利他的でありたい。そして、これからも身近なだれかのあたたかなおいかぜでありたい。
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< このエッセイを書いたひと >
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株式会社おいかぜ
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