スタートラインに、やっと|佐藤佳弥|2023-24 essay 12
どうしよう、
やばい、大学2年生が終わろうとしている。とりあえず何かしなくちゃ、という適当な理由で応募したふくしデザインゼミ。何をするかは、正直どうでもよかった。
そこで行われていたのは、「ふくし」というその時の私は無関心の題材についての「あなたはどう思いますか?」「これを踏まえて何を感じましたか?」という対話。意見を聞くだけでも自分の意見を言うだけでもダメ、という空間のなかで、私はとても焦っていた。
他のゼミ生は、自身の経験も重ねながら熱のこもった意見や考えを発言しているのに、私の口から出るのは一般論な、外付けの、中身のない、言葉、だけ。自分の意見を否定されるのが怖くて何も言えないのか、薄っぺらい人間だなあ、今まで多数派か誰かが喜ぶ方しか選択してこなかったツケが回ってきたなあ、とつくづく思わされた。
他のゼミ生は議論のなかの問題に目を向けているのに、私はこんなことで不安がっていて、ついていけるのかな。
と、気に病みつつも、
講師や他のゼミ生の話を聞いたり、本を読んだりしているうち、ふくしについて少しだけ知識が増えて、自分の考えも徐々に出てきた。自分が救われるような気持ちになったり、自分が目指したいと思える社会みたいなものを見つける兆しが見えてきたりもした。
でもまだ、自分の意見を言うのは怖くて、積極的に議論に参加することはできていなかった。
私が所属した影山ゼミには、まるっきりタイプの違う人たちが集まった。共感性の高い人、自分の世界をしっかり持っている人、話すのが得意な人、頭で考えるのが得意な人、作業が得意な人。本当にいろいろ。バックグラウンドも、話し合いのスタンスも、描く理想も、きっとそれぞれだった。
探りあって、本音を言っていいのか、自分の言動に自信を持っていいのか、確信を持てずに、なんだかふわふわした空気感のまま時間だけがすぎていく、そんな状況に対して私は、何もできずにいた。
けれど、あるとき、
とあるゼミ生の「これでいいのか?」という勇気ある意見が投げられたことによって、みんなが、このふわふわとした状況を直視するようになった。直視するのは、なんだか嫌なことでもあったけれど、目をつむりたかったけれど、あの言葉は大切だったなあと思う。
その時から私は、このメンバー全員がどうしたら自分の意見を安心して言えるのかなあ、嫌な思いをする瞬間が減るかなあと考えるようになった。考えれば考えるほどわからなくて、目立った行動を起こすこともできなかったし、結局このゼミが終わってもどうすればいいかよくわからなかった、でも。あの投げかけがあったからこそ、私は、ちゃんと自分もゼミ生の一員なんだ、自分が何か行動していいんだ、というかするべきなんだ、しなきゃいけないんだと思うようになった。
遅かったと思うけれど、私の、いつもどこか他人事な感じ、そんなところがよくなかったんだと気がついた。
どうすればよかったのか。
私はなにをすべきだったのか。
ゼミ期間中、毎日のように動くふくしデザインゼミのグループLINE。毎日目にする、「ふくしデザイン」の文字。
デザイン、できてなかったんだなあ。デザインって、こういうことなのかなあ。誰かが何かをやりやすい場をつくりたくて、安心する場をつくりたくて。その方法は、きっとたくさんあるんだろう。その方法を学ばなければ。そんなふうに思えた。
「私たちは違う星からきたんだね」
と、あるゼミ生が言った。私はドキッとした。今までの経験上、意見が合わない人、価値観が違う人のことを「違う星の人だから、しょうがない」と割り切って自分を守ってきたからだ。私は「違う星から来たのだから分かり合えるはずはない。その人たちに何かを主張して傷つくよりも、こちらから諦めて一線を引いて生きていこう。それは相手を認めることでもあるし、自分を受け入れることでもある。」と自分のなかで結論づけていた。
でも、このゼミではそれは許されない気がした。分かり合えなくても、分かり合えるまで、意見をぶつけ合おう。そこから、妥協点を見つけたり、合意形成をしよう。議論。対話。日常生活とは違う、誰かと一つのものをつくらなければならない時、必要不可欠。避けることはできない。避けたらいいものは生まれないのだろう、でも。
それによって傷つく人がいたらどうすればいいだろう。傷ついてしまう人が悪いんだろうか。「そんなことで、大袈裟な」と思われるだろうか。その人は、議論する資格がないんだろうか。その気持ちを抑えるべきなんだろうか。自分らしくふるまうことは、自分の考えを偽りなく発露することは、いいことだ。いいこととされている、でも。それで生まれた辛い気持ちは、どこに持っていけばいいだろう。誰が、何が解決してくれるんだろう。どうすれば「良い議論」ができたのだろう。繊細すぎる?もっとメンタルとか強くならなきゃいけない?
プレゼンが終わり、そんなことが頭から離れなくて、「やりきった!」とは言えなかった。というか、こんなことに頭を悩ませる意味もない気がしてきました。あー、
そもそも自分らしさって、
何かよくわからない。自分が何をしたいか即答できない。他者からの目を気にして、「普通」になることを頑張った結果なんだろうか。
自分の欲求を素直に発露することにはリスクがある。社会は受け入れてくれない場合もある。それでも私はその姿が羨ましい。自分にはないものだ。才能だ。
でもいまの社会では、それを抑制しなければいけないことになっている。それは本当に正しいのだろうか。私は誰かの「これがしたい」から目を背けていなかっただろうか。気がついていただろうか。潰してきたんじゃないか。自分の「これがしたい」も、無視してきたんだろうか。
自分らしさを、心からの欲求を見つけるために、隠さなくてもいいように、私ができること、何があるだろう。これからずっと、考えていくことだと思う。
矛盾していることもたくさんある。
このゼミで、できなかったことがたくさんあった。そのことを話した時、「優秀なヤツはそういうことをスパッとできちゃうんだよなあ」と言われた。私が難しいと思ってることは、すごく簡単なことなのかもしれない。
でも私は、このゼミで経験したことは無駄じゃないと思いたい。情けなかったし、貢献とかもあんまりできなかったし、なんか泣いたし、でも、この過程だって、必要なはずだ。
ゼミを終えて、晴れやかな気持ちにはならなくて、むしろやっとスタートラインに立てたような、これからやらなきゃいけないことがいっぱいだなあ、という気持ちになった。これからの人生をどう生きるか、なにを選択するか、今の社会をどう捉えるべきか。そんなことを考える期間だった。
タラタラ暗い文章を書いてしまったが、
私はこのふくしデザインゼミに参加して良かったと思う。
ゼミを終え、ある人にこれまでふくしデザインゼミで構築してきた考えを否定されることがあった。私は反論したかったけれどうまく言葉が出てこなくて、だんだん「私は間違っていたんじゃないか」とすら思ってしまった。いままで私は何を学んできたんだ、と、すごくショックだった。悲しくなった。悲しくなったのは考えを否定されたからではなく、自分が考えてきたことを第三者に伝えられなかったからだ。説得力のある言葉を発することができなかった。
すべての人が一つの考えに賛同することはありえない。むしろ反発されることの方が多いように感じる。それは悪いことではないし、自分の考えを広げたり、振り返って考え直すことにもつながる。反対意見に触れることは、とても重要なことだ。
それでもやっぱり悲しくて、悔しくて、ゼミ生にそのことを話してみた。そうすると、そのゼミ生は丁寧にデータや資料を用いて意見を出し、「私たちが考えてきたことは、間違いじゃないよ」と言った。その時、改めて自分の考えを立て直すことができて、とても嬉しかった。
きっと一人で考えていたら、否定された時点で考えることを放棄していたかもしれない。考えること自体がストレスになっていた。一緒に考えてくれる存在がいる、その存在が考えることを辞めさせてくれない。
このゼミに参加してよかった。
|このエッセイを書いたのは|
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